『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる。序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた。本書の実際の成立年代については『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年~938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年~906年)には存在したと推定され、従って、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前と推定されている。編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である興原敏久(おきはらのみにく)が挙げられる。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎきよなお、文化9年(1812年) - 1894年(明治27年))の説で、興原敏久は物部氏系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっている。編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。佐伯有清は「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族か。」とする。御巫清直は序文は矢田部公望が904~936年に作ったものとする。安本美典は『先代旧事本紀』の本文は興原敏久が『日本書紀』の推古天皇の条に記された史書史料の残存したものに、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの文章、物部氏系の史料なども加えて整え、その後、矢田部公望が「序」文と『先代旧事本紀』という題名を与え、矢田部氏関係の情報などを加えて現在の『先代旧事本紀』が成立したと推定している。序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに、偽書とされて以来、偽書であるとの評価が一般的である。明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、藤原明(ノンフィクションライター)は『旧事紀』は聖徳太子勅撰として、承平6年(936年)日本紀講(『日本書紀』講)の席で矢田部公望によって突如持ち出された書物であり、その後、本書は『日本書紀』の原典ともいうべき地位を獲得したが、矢田部公望が物部氏の権威付けのために創作した書物である可能性が高く(矢田部公望は物部氏であり、当時の朝廷内では、対立する氏族との権力争いがあったと指摘している)、実際に創作したのは別の人物の可能性もあるが、物部氏か矢田部公望に近い筋の者であろうと推定して、本書は偽書であるとしている。一方、鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文は偽書ではないと論じた。鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである。なお、本書に記載された部分的な伝承は一部の歴史学者、宮司、神道学者、法学者によって資料価値が認められている(#資料価値参照)。本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。 「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。本書は序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したものとあるため、中世の神道家などに尊重された。鎌倉時代の僧・慈遍は、『先代旧事本紀』を神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、度会神道に影響を与えた。室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも『先代旧事本紀』を重視し、記紀および『先代旧事本紀』を「三部の本書」としている。『先代旧事本紀大成経』(延宝版(潮音本、七十二巻本))、およびその異本である『鷦鷯(ささき、さざき)伝本先代旧事本紀大成経(大成経鷦鷯伝)』(三十一巻本、寛文10年(1670年)刊)、『白河本旧事紀』(伯家伝、三十巻本)などはすべて『先代旧事本紀』を基にして江戸時代に創作されたと言われ、後に多数現れる偽書群「古史古伝」の成立にも影響を与えた。
出典:wikipedia
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