ジェノヴェーゼ一家(ジョノヴェーゼいっか)は、ニューヨーク・マフィアの五大ファミリーの1つである。1890年代シチリア島コルレオーネより移住したジュゼッペ・モレロが、マンハッタンのイースト・ハーレムを拠点に強請や紙幣偽造など組織的な犯罪活動を展開し、ハーレムやリトルイタリーにいたシチリア系ギャングを取り込んで一大勢力を築いた(モレロ一家)。1910年代、派閥抗争や対カモッラ戦争で組織の求心力が低下する中、独自の派閥を作ったジョー・マッセリアが1922年に一家の主導権を握った。1920年代、マッセリアはロワーマンハッタンを拠点に酒の密売、賭博や上納金で稼ぎ、ハーレムやブルックリンに進出して勢力を拡大した。1920年代後半サルヴァトーレ・マランツァーノ勢力がニューヨークで急拡大すると対決姿勢を強め、1930年のガエタノ・レイナの死をきっかけに戦争状態に突入した(カステランマレーゼ戦争)。1820年代に頭角を現した新進ギャング、ラッキー・ルチアーノがマッセリア陣営に加わっていたが、1931年、敵方のマランツァーノと密かに通じ、マッセリアを謀殺して組織を乗っ取った(ルチアーノ一家(現ジェノヴェーゼ一家))。同年、マランツァーノはニューヨークのマフィア勢力を、本人及びルチアーノを含むボス5人をリーダーとする五大ファミリーに整理統合し、自らを「ボスの中のボス」としたが、程なくルチアーノに謀殺された。ルチアーノは、ボス同士が話し合うコミッションを創設するなど新たな五大ファミリーの体制作りを主導した。ルチアーノ一家は、多くの非シチリア系ギャングを取り込んでいたマッセリアの勢力をそのまま継いだため、五大ファミリーで最大勢力を誇った。シチリア系が支配層だった従来のファミリーと異なり、副ボスにヴィト・ジェノヴェーゼ、相談役にフランク・コステロの他、ジョー・アドニス、ウィリー・モレッティらルチアーノと親交のあったナポリ系、カラブリア州出身者を一家のトップランクに並べた。五大ファミリー再編の中心となったルチアーノの下、酒の密輸や賭博で法外な利益を享受し、ファミリーの黄金時代を築いた。1936年ルチアーノの逮捕収監と、その後のジェノヴェーゼの国外脱出により、フランク・コステロが代理ボスとなった。コステロは、1930年代から1940年代にかけて全米各地にギャンブル事業を展開し、酒の密輸に代わる収益基盤を固めた。1946年2月、ルチアーノのイタリア強制送還に伴いコステロが正式にボスの座を継いだ。同年ニューヨーク市長となったウィリアム・オドワイヤーの政治的庇護をバックに一家は絶頂期を迎えた。1946年6月、組織に復帰したジェノヴェーゼはコステロ勢力の切り崩しを図り、1951年、副ボスのウィリー・モレッティの粛清を成功させると共に、自らの勢力を拡大するため麻薬取引に没頭した。1957年5月、部下ヴィンセント・ジガンテによるコステロの暗殺未遂事件を首謀し、コステロを支持するアナスタシア一家(現:ガンビーノ一家)のアルバート・アナスタシアとの間にマフィア戦争が勃発するかに見えたが、同年10月アナスタシアは暗殺され、コステロは引退を表明した。その後のアパラチン会議を経てジェノヴェーゼがボスの座についた。1960年代初め、ジェノヴェーゼはコステロらの陰謀にはめられ麻薬取引で収監されるが、獄中からファミリーの指揮を執り続けた。1963年、部下のジョゼフ・ヴァラキがマフィアの正式メンバーとしては初めて沈黙の掟を破って証言したことから、ジェノヴェーゼは他ファミリーから非難され、その権威は大きく損なわれた。ジェノヴェーゼの死後はボス代行のトーマス・エボリ、副ボスのジェラルド・カテナ、コンシリエーリのマイク・ミランダの三頭体制となったが、ファミリーはリーダーシップ不在の混乱を続け、最大最強のファミリーとしての地位をガンビーノ一家に譲るに至った。1970年代にガンビーノの盟友フランク・ティエリがボスとなり、ファミリーは再びかつての勢力を取り戻した。その後、アンソニー・サレルノ、ヴィンセント・ジガンテと歴代ボスが相次いで逮捕されたが、ジェノヴェーゼ一家は幹部級でも次々と司法取引に応じる内通者を出す他の一家とは異なり、ほとんど司法への内通者を出すことなく統制がとれており、現在では再びガンビーノ一家に代わってニューヨーク最強のマフィアとしての勢力を維持している。ポール・ディマルコはダニエル・レオの代理ボスの可能性が疑われるが、現在のところ詳細は不明である。
出典:wikipedia
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