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養老鉄道養老線

養老線(ようろうせん)は、三重県桑名市の桑名駅から岐阜県揖斐郡揖斐川町の揖斐駅までを結ぶ養老鉄道の鉄道路線。揖斐川流域西側を縦断する路線で、岐阜県と三重県を直結する唯一の鉄道路線でもある。多度駅から美濃高田駅までは養老山地の麓を走る。沿線には多度大社や養老の滝などの名所がある。途中にあるJR東海道本線・樽見鉄道乗り換え駅の大垣駅は、桑名方面と揖斐方面との線路が合流するスイッチバック形の配線となっている。養老線は長らくの間、近畿日本鉄道(近鉄)によって運営されていた。しかし、貨物輸送の減少、国道258号の整備、少子化、高齢化などで次第に経営状況が悪化していった。そのため、近鉄本体による運営継続を断念し、2007年2月14日に設立された養老鉄道(近鉄の子会社で第二種鉄道事業者)に同年10月1日付で同線の運営が移管された。この運営移管によって、岐阜県から近鉄が直接運営する鉄道路線が消滅することになった。ただし、線路などの施設は近鉄が第三種鉄道事業者として引き続き保有している。分社化と同時に駅名標が更新されたが、近鉄の駅名標の意匠を踏襲しながらも、ラインカラー(近鉄はマルーンとオレンジ)が緑とライムグリーンに変わっている。なお車両の塗色は、2008年7月より全車両が近鉄時代のマルーンの旧色1色塗装に戻されたが、2009年9月に600系1編成 (606F) がかつて走行していた近鉄南大阪線時代の「ラビットカー」と同じオレンジバーミリオン地に白帯を巻いた塗装に変更されている。2017年度を目処に、近鉄に代わって沿線各市町等が出資して設立する法人が第三種鉄道事業者となり、養老鉄道が第二種鉄道事業者として引き続き運行を担う体制に移行する予定である。西大垣駅に運転区と車庫が併設されており、当線の拠点となっている。養老線は、立川勇次郎が1911年(明治44年)に設立した初代の養老鉄道によって1913年に開業した(現在の養老鉄道とは直接的な関連はない)。その後、一時期揖斐川電気(現在のイビデン)への合併・分離を経て伊勢電気鉄道の傘下に入るが、再び分離の後、改めて参宮急行電鉄に合併されるという複雑な経過をたどった。この結果、過去に運営主体の会社名が8回変わっている。四日市港と敦賀港を結ぶ鉄道敷設を計画した四日市の井島茂作は三重県と岐阜県の人たちに説いて歩き、沿線の有力者の賛同を得ることができたので鉄道敷設願いを出し1897年(明治30年)に仮免状が下付された。しかし沿線の利害関係(当時は揖斐川、牧田川、水門川の舟運が盛んであった。また大垣以北の誘致争いもあった。)や不況もかさなり実現の目処がたたなかった。1911年(明治44年)になり井島は地元出身である立川勇次郎に養老鉄道建設に参画するよう依頼した。立川が社長となり(初代)養老鉄道を設立。1913年(大正2年)7月に養老 - 大垣 - 池野間が開業することとなった。用意した車両はすべて中古車で鉄道院より機関車5両、南海鉄道より客貨車を購入した。また養老公園の整備や養老ホテルの建設を行った。そして第二期工事となる桑名 - 養老間、池野 - 揖斐間は1916年(大正5年)に工事に着手したが、第一次世界大戦勃発のため資材が高騰した。このため工事は遅れ1919年(大正8年)4月に開業となった。さらに当初の目的である桑名-四日市間の延長路線の出願を繰り返していたが、国有鉄道関西本線と並行するので必要なしと却下されていた。しかし1919年(大正8年)12月に関西本線とは「其ノ目的異ナルモノアリ」として免許が下付されることとなった。次に電化計画を立て、立川が社長を務めていた揖斐川電気より電気の供給を受けることに決定した。1922年(大正11年)6月に経費削減のため揖斐川電気へ合併し揖斐川電気鉄道部となった。この時期揖斐川電気は不況の影響で業績不振であり経営再建中であった。それでも立川は養老鉄道の電化に注力することとした。そして1923年(大正12年)5月に電車運転を開始した。また1922年(大正11年)9月に四日市-宇治山田間延長敷設を出願したが却下されている。1925年(大正14年)12月に鉄道事業の推進役であった立川が死亡した。立川なき揖斐川電気は電化による投資が負担となっており経営方針は転換されていく。1926年(大正15年)9月22日やっと取得した桑名-四日市間の鉄道敷設権が伊勢電気鉄道に譲渡された。実は伊勢電気鉄道(伊勢鉄道)は同区間の路線出願を却下されておりこの路線の譲渡を希望していたからであった。伊勢電気鉄道はこの譲渡直前の9月11日に伊勢鉄道から社名変更したが、同日に四日市銀行頭取の熊沢一衛が社長に就任した。熊沢は四日市銀行を資金源に積極策を打ち出すことになる。伊勢電気鉄道の電化を完成させると揖斐川電気より譲受した桑名-四日市間の工事に着手した(1929年1月開業)。さらに1928年(昭和3年)2月に養老電気鉄道を設立し、4月に揖斐川電気(熊沢は監査役に就任)より鉄道事業を譲受したが、翌年10月にはこれを伊勢電気鉄道に合併し、11月13日に津新地-大垣間直通急行列車の運行を開始した。その後も伊勢電気鉄道は宇治山田、名古屋への延伸をすすめたが有利子負債は1379万円(昭和5年度)まで増加し、昭和恐慌の影響で収入は伸び悩んだ。このような時期に熊沢は五私鉄疑獄事件で検挙され、1932年(昭和7年)2月に社長を辞任。3月には信用不安により預金の流出が続いた四日市銀行が営業休止に追い込まれた。そして7月には養老線の強制管理が実施されることになる。これは明治生命保険120万円、東京海上火災保険、三菱海上火災保険各65万円計250万円の借入金があり、この返済が滞ったため鉄道財団が設定された養老線が差押えられる事態となった。伊勢電は更生の道を模索することになったが再建策はなかなかさだまらなかった。当初は専務取締役の武藤嘉門が指揮を執っていたが、大口債権者である日本興業銀行の推薦により1931年(昭和6年)11月から高橋真男が加わり、1933年(昭和8年)7月に半田貢にかわった。名岐鉄道や根津嘉一郎 (初代) の支援要請も検討されたが結局三井・興銀の了解のもと大軌・参急と交渉をすすめることになる。ようやく伊勢電気鉄道整理案がまとまり桑名 - 揖斐間の路線を分離して1936年(昭和11年)5月養老電鉄株式会社を設立(本社大阪、社長金森又一郎)し譲渡することになった。大軌・参急系である養老電鉄は債務整理の関係上別会社として設立されたものであったが、業績も向上したことにより1940年(昭和15年)4月に株主総会において経営の合理化と資本の増強を図るものとして参宮急行への合併が決議され、8月に実施となる。提出された合併申請書には前記理由の他に「交通調整本来ノ趣旨ニモ合致スルモノ」とあるようにその後も1941年(昭和16年)3月に大阪電気軌道が参宮急行を「予テヨリ監督官庁ノ慫慂モアリ」として合併(関西急行鉄道に改称)。そして1944年(昭和19年)6月には資本関係のなかった関西急行鉄道と南海鉄道が「運輸通信省ノ慫慂ニ従イ交通調整ノ国策ニ順応シ企業ノ統合ニ依ル運営ノ強化ヲ図ル為メ」合併(近畿日本鉄道に改称)という流れになっていった。養老線は慢性的な赤字路線のため、近鉄は2006年(平成18年)から、路線の運行継続に向けて沿線市町の金銭的支援の可否について沿線市町と協議を行ってきた。この協議の結果、両者間で以下の内容で合意した。この結果、近鉄は中部運輸局に鉄道事業廃止届を提出、2007年4月20日に認可され、10月1日から新会社により運営が始まった。近鉄および養老線の前身の養老電気鉄道と伊勢電気鉄道は、養老線の大垣駅から岐阜市へ至る新線建設に力を注いでいたこともあった。その支線として、安八郡結村(現・安八郡安八町) - 海津郡今尾町(現・海津市)も計画されていた。1927年(昭和2年)、大垣市を中心とした12市町村で西濃鉄道組合が設立され、岐阜 - 大垣の鉄道建設を計画。1928年(昭和3年)に西濃電気鉄道より鉄道敷設権を譲り受けた。その一方で、養老電気鉄道が1928年(昭和3年)に岐阜 - 大垣の鉄道建設を計画する。この2つの計画は統合され、1929年(昭和4年)には養老電気鉄道を吸収した伊勢電気鉄道に計画が継承される。建設のための準備として、大垣と岐阜の間にある揖斐川と長良川に架かる橋(揖斐大橋・長良大橋)は、岐垣国道(旧国道21号、現岐阜県主要県道31号線)との共用として1933年(昭和8年)に建設されていた。しかし、伊勢電気鉄道は無理な拡張がたたり、破綻状態となり(歴史節参照)、新線の建設に着手できなかった。戦後、モータリゼーションによる交通量の増加に伴い、岐阜県は1957年(昭和32年)、橋梁の使用権が岐阜県にあることから、道路専用橋にすることを近鉄に申し出る。近鉄は名古屋、岐阜への進出を積極的に行っていたこともあり、この申し出に応じなかった。近鉄は1961年(昭和36年)、この長良大橋と揖斐大橋を利用して大垣 - 羽島の新線の建設を発表、東海道新幹線岐阜羽島駅との連絡線計画を打ち出した。当時の計画によると、養老線西大垣駅南から旧国道21号に並行し東進し、羽島市小熊から長良川沿いに岐阜羽島駅に至る、総延長12.5km。工費は50億円を予定していた。将来的には羽島市小熊 - 岐阜間を建設し、国鉄高山本線への乗り入れも考えており、実際に当時の高山本線の準急「こがね」などの岐阜羽島駅乗り入れ構想があった。しかし、岐阜羽島への路線建設は名古屋鉄道に免許が下りたため、近鉄の計画は消滅し、名古屋鉄道によって岐阜羽島駅の近くに羽島線の新羽島駅が設置された。また、沿線自治体で結成され近鉄とは別に岐阜 - 大垣間の鉄道建設を模索していた岐垣鉄道組合も1983年(昭和58年)に唯一の資産であった岐阜バス(名鉄系)の株式を各自治体に分配の上解散し、近鉄も1985年(昭和60年)に保有していた鉄道敷設免許の起業廃止手続きを行い、岐阜 - 大垣間の私鉄建設は幻と消えた。なお、岐阜羽島駅・大垣間の輸送は現在も近鉄系の名阪近鉄バスが担っているほか、2007年9月までは岐阜バスの岐垣線が、大垣から安八町結を経由し海津市までという、前記鉄道計画と大部分重複するルートを走っていた。なお、近鉄では岐阜進出に関して他に、岐阜市の長良川ホテルを買収し、都ホテルチェーンの一員として運営していた(長良川ホテルは閉館となったが、岐阜都ホテルを別途展開している)。また、これとは別に岐阜市柳ケ瀬に、京都市に本店があった丸物百貨店時代から続く京都近鉄百貨店岐阜店(1999年9月閉店、現・岐阜中日ビル)も存在していたほか、岐阜市本拠のゼネコン・大日本土木も傘下に置いていた。全線を通して運転される列車はなく、スイッチバック式の大垣駅を境に運転系統が分かれている。すべて普通列車で、ワンマン運転を行っている。2013年3月17日のダイヤ改正により、ダイヤが大幅に見直された。2014年9月21日改正時刻では、桑名駅 - 大垣駅間では朝はおおむね20 - 30分間隔、昼以降はほぼ40分間隔の運転となっている。朝と夜間には多度駅・駒野駅・養老駅を始発・終着とする区間運転列車があるほか、桑名発23時の最終列車は美濃松山行きである。美濃松山行きは2010年のダイヤ改正で消滅した行き先で2013年のダイヤ改正で3年ぶりに復活した。また、早朝に西大垣駅発桑名行き1本が設定されている。大垣駅 - 揖斐駅間は朝と夕方はおおむね20分間隔、昼間は40 - 60分間隔の運転となっている。ただし大垣発の21 - 23時台は40 - 60分間隔となる。そして、2016年3月19日改正では終日共通の時刻表となり、統一のために2-4分の時間調整が行われている。2010年3月19日改正ダイヤでは桑名駅 - 大垣駅間の列車が1時間あたり朝夕は2本、昼間時間帯は1本であったが、朝から昼間に桑名駅 - 石津駅・駒野駅間で区間運転の列車が設定されていた。また朝7時台には土休日運休の養老発大垣行きの列車も設定されていた。かつて伊勢電気鉄道の時代には大神宮前駅(伊勢神宮外宮前)まで本線の列車が直通しており、名古屋線が1067mm軌間の狭軌だった頃は名古屋線との直通運転列車があった。また1982年頃には、早朝の西大垣発大垣行き始発がそのまま揖斐行きになったこともあった。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の水害復旧の際に名古屋線は標準軌化されたが、養老線は大垣 - 桑名間を短絡する国鉄直通貨物輸送があったため標準軌化されなかった。現在は優等列車の設定はないが、1976年3月18日から1983年3月24日までは桑名発養老行の急行列車が1本のみ走っていた(途中停車駅は多度のみ)。大外羽駅は、1986年までは一部列車のみ停車していた。また、近鉄時代より毎年1月に大垣 - 桑名 - 名古屋線宇治山田間に伊勢神宮初詣臨時列車が伊勢神宮初詣割引きっぷ購入者を対象とした団体列車として運行されているが、この列車は直通ではなく桑名駅で乗り換えとなっている。養老線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。桑名駅を除いた養老線各駅の乗車人員の合算値を()にて示す。この値には他線から桑名駅を経由して養老線に乗車する人員は含まない。なお、2007年度は近畿日本鉄道は9月までの、養老鉄道は10月からの実績である。養老線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。なお、2007年度は近畿日本鉄道は9月までの、養老鉄道は10月からの実績である。養老線の近年の営業成績を下表に記す。表中、収入・費用の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。なお、2007年度は近畿日本鉄道は9月までの、養老鉄道は10月からの実績である。鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋近鉄時代から2014年1月5日まで土曜日および休日、春休み・夏休み・冬休み期間に、乗車当日限り養老線全線に何度も乗車可能な「養老線休日フリーきっぷ」が発売されていた(大人1000円・小人500円で近鉄時代と同一価格)。同年1月6日からは毎日利用可能な「養老鉄道1日フリーきっぷ」(大人1500円・小人750円)に改められた。養老線内の駅員配置駅(桑名駅・下深谷駅・多度駅・駒野駅・養老駅・西大垣駅・大垣駅・揖斐駅)にて販売されている。養老線の運営主体が近鉄から養老鉄道に変更されたことにより、乗車券等については過渡的に下記の扱いを行なった。養老線はローカル線のため、現・近鉄吸収合併後は専用の新車が全く製造されず、近鉄狭軌線および名古屋線の中古車全般がかき集められ、バラエティに富んでいた。しかし、現在では型落ちした幹線用統一規格通勤車が転入してきたため、基本的には幹線と変わりなくなっており、転属元は軌間の同じ南大阪線か、桑名駅で接続している名古屋線で占められている。伊勢電気鉄道合併(改番昭和4年10月23日)1960年時点1970年時点1975年時点1981年時点1992年3月末現在上記以外に在籍開業時より1923年まで動力は蒸気機関車であったが近鉄成立前に処分されている。すべて国鉄からの払下げ車で開業時に5両、7号のみ1919年に増備された。開業時南海鉄道から電化により余剰となった二軸客車24両を購入。二等車(ロ1-4)、三等車(ハ21-28、31-38)、三等緩急車(フハ29・30・39・40)。電化以降1923年淡路鉄道へ7両、1924年湖南鉄道へ1両、1924年武州鉄道へ2両、1925年水戸鉄道(2代)へ5両、1927年駄知鉄道へ1両を売却。残りの8両は貨車化され近鉄に引継がれる。開業時南海鉄道より有蓋緩急車6両、有蓋貨車24両、手用制動機付無蓋貨車4両、無蓋貨車16両を購入。西大垣駅構内に所在。車庫内で車両の列車検査・月検査を施工するが、定期検査(全般検査・重要部検査)を行う施設が無いため、定期検査時は車両の台車を東方台車振替場(桑名)にて標準軌用仮台車に履き替え、電動貨車モト90形(モト94・96)に牽引されて塩浜検修車庫に回送した上で検査を実施する(正台車はモト94・96の荷台に積まれる)。西大垣車庫など、一部の駅施設の隣にイビデンの施設があるが、これは元々前述の揖斐川電気と同じ会社だった頃の名残である。軌条(レール)は、本線では37・40N・50PS・50Nが使用されている。PCマクラギは烏江駅前後の高架区間以外ほとんど用いられておらず、大半が木マクラギまたは鉄マクラギである。転轍器は、本線においては電気転轍機と旧式の発条転轍機(列車の車輪で分岐器を転換させバネの力で復位する)が使用される。石津駅付近にはトンネルが4か所存在する。すべて天井川をくぐるものである。駒野変電所(整流器出力1500kW)、西大垣変電所(整流器出力1250kW)、広神戸変電所(整流器出力1200kW)の3箇所の変電所があり、ここから電力が供給されている。桑名駅付近の名古屋線との交差部分には開閉所が設けられ、この開閉所を経由して名古屋線とき電線が接続されている。

出典:wikipedia

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