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水球

水球(すいきゅう、)は、プールで行われる球技。7名で構成された2つのチームが、プールに作られたコート内で、ゴールにボールを入れあい点数を競う競技である。体のほとんどが水中にあるために反則は分かりにくく、掴む、蹴るといった行為が日常的に発生する事から「水中の格闘技」とも言われている。19世紀後半、イギリスで考案された。夏季オリンピックの種目となっている。プールで行うハンドボールと言える。著名なことでは、過去に日体大水球部が376連勝(連勝記録No.1-ギネス登録スポーツ無敗記録一覧参照)している。水球発祥の国はイギリスである。19世紀半ばにイングランド各地で公衆浴場(プール)が開設されると、そこを拠点とした水泳クラブがいくつも結成される。1860年以降、各クラブでは見世物として水上イベントが盛んに行われ、その中で、当時の駿馬の名前をつけた木製の頭付き樽にまたがってレースを行う「ウォーター・ダービー」などが開催され、人気を博した。フットボールも時として水中で行われたが、水中では足を使ってボールのコントロールが困難であるため、対峙する2チームは決められたポイント(主にボート)までボールをいかに運ぶかを競い合った。ボールを運ぶにあたっては、あらゆる手段が用いられ、水中での激しいボールの奪い合いが繰り広げられたようである。そしてこの水中で行うフットボールに関して、イングランドのMetropolitan Swimming Association(メトロポリタン水泳協会)が、1870年にFootball in the water(水中フットボール)の名称でルールを制定したのが競技としての水球の起源とされる。その後1888年、Amateur Swimming Association(アマチュア水泳連盟)によって、ほぼ現行と同様の水球競技規則が策定され、イングランドおよびスコットランドにおいて水球が盛んに行われるようになった。さらに1892年にはイギリスにおける統一ルールが制定され、イングランド対スコットランドの国際試合が行われるなど、競技としての水球がさらに洗練されていく。「水球(Water Polo)」と呼ぶようになった経緯についての明確な記述はないが、競技に用いられたインド製のゴムボールをヒンズー語でプル(Pulu)と呼び,それが訛ってWater Poloになったとする説もある。1888年、イギリスにおいて統一ルールが制定され、スポーツ競技としての水球が確立されたのを契機に、水球がイギリス国外へと伝播した。1888年、イングランドのクラブにおいて水球のプレイ経験をもつジョン・ロビンソン(John Robinson)がアメリカに渡り、はじめて水球を紹介している。数年遅れてロンドンで水球を学んだフリッツ・クニーゼ(Fritz Kniese)は1894年に祖国のドイツで水球を広め、1895年にはドーバー海峡を隔ててイギリスの隣国であるベルギーにも水球が紹介されている。同時期にフランスでも水球が行われるようになったが、組織化された形で発展するのは1898年になってからである。またハンガリーでは、イギリスの雑誌を見ていて水球に興味を持ったフュゼーレッシィ・アールパード(Füzéressy Árpád)が水球のルールブックとボールをハンガリーに導入し、1899年に初めハンガリーで水球の試合が行われた。この伝播は偶然に起きたのではなく、その背景には社会的あるいは地理的要因が関連し、いずれも水球発祥の地、イギリスと深いつながりを持つ人物を介して伝播して行った。しかしながら当時イギリスで行われていた水球そのものが導入されて、相似形として各国において発展していったのではない。各国の実情に合わせて、様々に形を変えながら、その土地柄に合わせて水球が根付いていったと言える。特にアメリカでは柔らかいゴムボールを用い、イギリスとは異なる独自のルールによる"Softball Water Polo"が発展した。当時、アメリカではこの水球が大変な人気を博すが、あまりにもプレーが粗暴で、試合のたびに選手中に怪我人や失神者が続出したため、全米体育協会(American Athletic Union:AAU)は1908年以降、水球競技を禁止スポーツに指定し、1920年のアントワープオリンピックまで代表チームを派遣することがなかった。一方、フランスではベルギー国境の街で水球が盛んに行われるようになった。そして1900年のパリ万国博覧会の開催に合わせて、第2回パリオリンピックが開催され、団体種目として、そして球技として水球が初めて採用された。試合は、1900年8月11日~12日まで、セーヌ川の特設会場(Basins d'Asnières Courbevoie)で行われ、マンチェスタークラブ(Manchester Osborne Club)のメンバーを代表とするイギリスが7対2でベルギーに勝利し、初代オリンピックチャンピオンの栄冠を手に入れた。記録に残る日本で最も古い水球の試合は、1907(明治40)年8月5日に第二回関東連合游泳大会において東京高等師範学校(現・筑波大学)と第一高等学校(現・東京大学)が館山(千葉県)で行ったものとされる(東京高等師範学校友会誌、第14号、 pp.116、1907)。1915(大正4)年には慶應義塾水泳部内にウォーター・ポロ・チームが結成され、同年8月15日には、神奈川県葉山海岸の会場に特設されたフィールドで横浜外人クラブと試合を行った。結果は、9対0の大差で慶應義塾が負けたが、これが日本国内で記録に残っている最初の国際試合となった。1925(大正14)年には、大日本水上競技連盟の主催で10月10~12日の3日間に渡り「全日本選手権水上競技会」が開催され、ウォーター・ポロ競技が公式競技として初めて実施された。本大会には、慶應義塾(関東代表)、東京ウォーターポロ倶楽部(東海代表)、帝国水友会(近畿代表)の3つのチームが出場し、玉川プールで行われた。10月中旬とあって水温が低く過酷な条件での試合となったが、寒さによく耐えた東京ウォーターポロ倶楽部が優勝し、次いで慶應義塾、帝国水友会の順となった。1932(昭和7)年6月にはロサンゼルスオリンピックに初めて日本がナショナルチームを派遣し、国際大会デビューを果たした。しかし現実は厳しく、オリンピック大会では5カ国が出場して日本は3試合を行ったが、対アメリカ戦(0-10)、対ハンガリー戦(0-18)、対ドイツ戦(0-10)と惨敗し世界との差を見せ付けられた。以降、概要を表記するが『水球競技ハンドブック』の単語を使用するため、日常と違う表記もある。なお、以降の記載内容は『水球競技ハンドブック』そのものではない。チームは7名以上15名以内で、競技に参加できるのはゴールキーパー(以下GKと表記)1名を含めた7名。そのほかの選手は自陣ベンチに座っていなくてはならない。チームは重複しない1~15の番号が両側についた帽子を用意し、競技者はこれをかぶらなくてはいけない。その帽子は、帽子と同色で柔軟性のあるイヤーガードが装着されており、脱げにくい仕様であること。対戦チームは、帽子を白色と青色に分かれ、区別できるようにする。なお青色のチームは、次の条件により他の色に変更することができる。両チームのGKは「赤色」の帽子をかぶり番号は「1」であること。「13」の競技者はチームカラーか「赤」のどちらを選択でき、赤の場合GKとして扱われる。なお試合前もしくは試合の中断時、レフェリーに申請し競技者の番号を入れ替えることができるが、GKと入れ替える時のみに限られる。レフェリーは2名(他の競技のように主審・副審といった区別はなく同等の権限をもつ)、ゴールジャッジ2名の計4名で行われる。レフェリーは両プールサイドから立ちながらもしくは歩きながらジャッジをし、1Pと3Pが終了すると立ち位置を入れ替える。ゴールジャッジはゴールポストを結んだ延長線上のプールサイドに置かれた椅子に座り、ゴールの判定・ゴールスロー・コーナースローの判定・不正入水やフライングの判定を行う(但し、判定の最終決定者はレフェリーにある)。競技は、競技者全員がゴールラインに頭をつけた時点でレフェリーが笛を鳴らし開始される。ボールはコート中央に浮かべられ、そのボールを両チームが奪い合う形でピリオドが開始される。競技はボールを相手のゴールに投げ入れることを目的とし、競技中に両手もしくは握り拳を使用してはいけない(頭や足は使用してもよい)。得点は、ゴールポストを結んだ線をボールのすべてが超えると認められ、1ゴールに付き1点。4P終了時において総得点が多いチームの勝利となる。競技者の交代は、ピリオド間・ゴールが決まった時・もしくは試合中(再入水ゾーンを使用し)何度でも自由にできる。なお、水球は競技中ファールがとても多い。ファールを知らないと競技ができないし、観戦していても何が起きているか分からず面白みがない。水球のファールは「オーディナリーファール」と「パーソナルファール」に大別される。オーディナリーファールとは攻防中に起こる軽微な反則である。何度犯してもよく、競技の特性上ディフェンスのチームが侵すことが多い。なお、下記するオーディナリーファールの中で◎の付いた項目は、自陣ペナルティーエリア内の反則とならない。とても大雑把な表現になるが、ディフェンス競技者はボールを持っている競技者に対し、暴力行為以外何をしてもよいことになる。上記したオーディナリーファールをディフェンスチームが起こした際、レフェリーは「ピーッ」と1回笛を吹きファールを知らせる。オーディナリーファールが発生した際、オフェンスチームはその地点・もしくはその地点より自陣寄りにおいて、相手競技者に妨害されることなくボールを投げることができる。これを「フリースロー」という。なおフリースローは、敵陣ペナルティーラインより自陣寄りでファールが発生した時、味方へのパス等シュート以外のプレーをしない場合に限り、直接シュートしてもよい。また、敵陣オフサイドライン内でのフリースローは、オフサイドラインより自陣寄りまで戻さなくてはならない。オフェンスチームがオーディナリーファールを起こした時、レフェリーは「ピッ、ピー」と2回笛を吹きファールを知らせる。攻撃権は相手チームへ移り、そこからフリースローとなる。パーソナルファールは競技進行に大きな妨げとなるファールのことをいい、判定を受けた競技者は一定時間競技に参加できない。なおパーソナルファールは、その性質により「エクスクルージョンファール」 「ペナルティーファール」 「ブルータリティ」に分けられる。主なエクスクルージョンファールとは、などである。レフェリーはファールが発生した際、笛を激しく吹き鳴らし、ファール者の番号を手で知らせる。反則をとられた競技者は、速やかに自陣ベンチの「再入水ゾーン」に入らなくてはいけない。これを「退水」という。この退水競技者は、再入水ゾーン内に目で見えるように浮上し、のいずれかがおこり、セクレタリーまたはレフェリーからの合図があった時、入水できる。また、相手チームが得点した際は、セクレタリーまたはレフェリーからの合図なく入水できる。同一競技者が1試合中パーソナルファールを3回すると「試合時間中退水」となる。「試合時間中退水」は、通常「永久退水」や略して「永退」と呼ばれるため、以降「永退」と表記する。また、エクスクルージョンファールの中には、即永退となる極めて重いものもある。このジャッジをされた競技者はパーソナルファールの累積にかかわらず、その試合に出場することはできない。チームは「再入水ゾーン」に交代競技者を待機させ、レフェリーの指示もしくは得点後入水できる。上記のファールが発生した際、レフェリーは笛を激しく吹き鳴らし、ファール者の番号を手で知らせる。その後両手を頭の上で回し、競技者の交代を指示する。ペナルティーファールは、その反則がなければ得点がされたと予想されるファールが起きた際に判定される。レフェリーは「ピッピーッ」と2回笛を吹き、5本指を開きファールを知らせる。ペナルティーファール判定を受けた競技者は退水にはならないが、パーソナルファールが記録される。また、ペナルティーファールを誘発したチームには「ペナルティースロー」が与えられる。ペナルティースローとは、チームの誰か1人の競技者がゴールから5mの位置でボールを保持し、レフェリーの合図により動きを止めることなくシュートをすることである。その際、GKはゴールライン上の位置でそのシュートを阻止してもよい(前に出てきてはならない)。次の場合は、反則競技者は「永退」となり、その上相手チームにペナルティースローが与えられる。悪意を持ち、殴る・蹴る等野蛮な行為を犯す反則で、相手競技者のみだけでなく、レフェリー・オフィシャル等に対し行われたときもブルータリティとなる。ファールを起こした際、レフェリーは笛を激しく吹き鳴らし、ファール者の番号を手で知らせる。そのあと頭の上で腕をクロスし、ブルータリティであることを伝える。ブルータリティも即「永退」であり、パーソナルファールの累積にかかわらずその試合に出場することはできない。なお、競技は次のステップで進められる。なお競技中断中や、水中にいない競技者がブルータリティを犯した場合も適用される。上記したルールは2006年9月15日(日本国内は2006年4月1日)より改正された新ルールであるが、それ以前はルールの盲点をついて試合を有利にする不正が行われていた。そのような不正行為を排除するための特別ルールがある。文章にすると解かりづらいが、なぜこのようなルールができたかをまとめてみる。<旧ルール><新ルール>国内主要大会においては性別・年齢で区分分けされており、区分により、コート・ボール・競技時間・競技者数を変更している。A区分は4分を2P、1P終了後に2分の休憩とコートチェンジ。B・C区分は5分を4P、休憩はすべて2分などである。なお競技時間は区分以外にも、大会運営に応じてに変更されることがある。A・B・C区分は最大15人の競技者でチームを作ってもよい。もちろん、大会運営に応じてに変更されることがある。これまで本宮万記弘、佐藤賢一、田中宏児らがスペイン、青柳勧がイタリア、モンテネグロ共和国等、伊禮寛と筈井翔太がスロバキア、塩田義法、坂本将一がドイツ水球リーガ、長沼敦がハンガリー等においてプロ水球選手として活躍。女子選手も小中美沙がクロアチア、矢作美香がハンガリー、現代表の曲山紫乃も海外でプレー経験がある。また、竹井昂司がハンガリーのプロチームHonvedにてプレーをしている。上安久子はワールドカップで得点王を記録している。保田賢也はテレビ番組などの出演で水球の知名度向上を目指している。ベースボールマガジン社の『月刊スイミングマガジン』に水球コーナーがある。水球を扱う専門誌としては、かつて『月刊水球』『月刊水球通信』などが発行され、競技人口が少ない競技ながら一時期は専門誌2誌が並立する珍しい状況にあったが、両誌とも現在は休刊している(『水球通信』は2009年3月をもって休刊)。このほか、水球ファンが開設していた水球サイトから発展した『ウォーターポロマガジン』(のち『ウォーターポロマガジン・プラス』としてリニューアル)が存在していたが、発行人が2005年秋に交通事故により死亡したことで、1年ほどで廃刊となってしまった。2012年7月に『水球情報発信マガジン ウォーターポロ通信』がフリー雑誌として創刊され、季刊で発行されている。なお、同誌は、2013年9月20日発行の第6号より有料誌として、Amazon.co.jpなどで販売されている。また、『ウォーターポロ通信』の発行編集人は水球通信や月刊水球の発行編集人とは別人物である。

出典:wikipedia

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