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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の2家のみである。ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。さらに、翌天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士(高知)を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽(同心)を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立した。京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺(臨済宗)、擁護山無量院教浄寺(時宗)、瑞鳩峰山報恩寺(曹洞宗)、大智山法泉寺(臨済宗)と合わせ特に「盛岡五山(盛岡五ヶ寺、北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、住吉神社などの神社を配した。物流は北上川舟運による輸送が主流であり、仙台藩の石巻を経由して江戸・上方と結ばれていたが、西には鹿角街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人のほか、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また上方(関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の七戸重信に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の中里直好に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、藩主主導の放漫経営や散財、無理に高くした格式に見合った参勤交代や蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」(現・菊の司酒造)以下、明和4年(1767年)に醸造業「近江屋」(現・平金商店)、文化13年(1816年)に荒物商「茣蓙九」(現・茣蓙九森九商店)、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」(現・川徳)として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順が薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。以下日付は全て旧暦。戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と出羽会津藩、出羽庄内藩、それに近江朝日山藩に5万石で移された出羽山形藩などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7,000石などがあった。利恭は明治政府が仙台藩から没収した所領の一部、白石13万石(刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡および宇多郡の一部)への減転封を命じられた。明治2年(1869年)4月、旧城主片倉氏から白石城が南部氏側に引き渡され、6月17日の版籍奉還にともない白石藩知事に任命されたが、その間も重臣達が中心となって国替停止と盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民達も政府に対して藩主・利恭の盛岡復帰請願を続けた。その結果7月22日に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、(実際は一部を納めたのみ)、8月10日に利恭は盛岡藩知事を拝命し、陸中四郡(岩手郡・紫波郡・稗貫郡・和賀郡の一部)13万石を管轄した。白石藩領はその後政府直轄の白石県となり、10月に南部氏から後任の県知事に引き継がれた後、11月県庁を角田城に移し角田県となる。念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣達であったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。また凶作で税収が見込めない中、前藩主・南部利剛の娘の郁子が華頂宮博経親王に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。藩を取り仕切っていた大参事の東政図は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と廃藩置県を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。明治 3年(1870年)4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して盛岡県が設置された。盛岡県は明治 5年(1872年)1月8日に岩手県と改称され、後に江刺県と磐井県の一部を編入し現在に至る。盛岡県成立時の領地は陸中国岩手郡、稗貫郡および紫波郡、和賀郡の一部のみであり、旧領のうち陸奥国北郡、二戸郡および三戸郡の一部と陸中国鹿角郡および九戸郡の一部は三戸県に(三戸県の大部分は後に江刺県に、鹿角郡は秋田県にそれぞれ編入された)、陸中国閉伊郡および和賀郡の一部は江刺県に、岩代国伊達郡の一部は福島県にそれぞれ移管されていた。盛岡城の城郭は明治元年(1868年)に新政府に接収され、当初は廃城令の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年(1874年)に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、盛岡城の地上建造物が残されていないのはこのためである。藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。北方警備の監督部署。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎にわたっていた。御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行等があり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政に係わっていた。盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『参考諸家系図』が岩手県立図書館等に架蔵されており、復刻版も出版されている。家格として、高知(たかち)・高家・本番組・加番組・新番組などが決められていた。高知衆は後期には細分化したほか、藩主一族のための身分も設けられている。また1,000石以上が高知衆に対し、1,000石以下は平士と呼ばれた。「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」通常の武士身分で在郷している御給人制があり、また、陪臣は在郷のものが多い。代官の下に下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高の全部または一部を知行地として認められたものである。その居住地を支配している代官の置かれた地域名を冠して「七戸御給人」、「野辺地御給人」などと称された。藩の行政組織は幕府から指定された、10万石の軍役組織によるものであった。中央の職制は幕府のそれをほぼ模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。家老には大身の老臣が就いていた。また戦国期の規律を引き継ぎ、大身は陪臣を持っていたり、その家禄に応じて役職に任じられたり軍備を担っていた。慶長5年(1600年)時点では1,000石以上の家臣が22家あった。明治2年(1869年)には上士となった。家老(後期に改名して加判役)・御近習頭・北地大番頭・御中丸御番頭などに就任した。文政元年(1818年)10月に藩の家格向上を祝して藩主一族の3家(南部利視の子、信居・信駕・信周の家)と、族臣とされる八戸氏・中野氏・北氏・南氏・東氏が南部姓の名乗りを許されたことに始まる。ただし東氏が一旦改易され南部姓の名乗れなくなったほか、初期の御家門衆はすべて家格が変更されている。明治2年には本番組とあわせて中士となった。加番組御番頭・御側御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などに就任した。御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などのほか、御境奉行・代官・御船手頭・町奉行・郡奉行などに就任した。平士のうち100石以上(天保15年時点)または150石以上(明治元年時点)の者が該当した。御金奉行・御銅山吟味役・御作事奉行・万所奉行・御勝手方などに就任した。平士のうち50石以上が該当。明治2年、新番組とあわせて下士となった。諸御山奉行・大納戸奉行・新田奉行・御国産方などに就任した。平士のうち50石以下に当たる。天正18年(1590年)7月、秀吉より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻は、南部氏の居城下に集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕して、不在地主という性格に変わっていった。同20年6月には、その処理を報告している。大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人を置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。盛岡・八戸両藩の独特の行政組織としての「通制」である。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「通(とおり)」と称しているが、藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、天和年間(1681 - 83年には、代官所統治区域を指した。「通」には原則として代官を置き、盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。下役は代官が地方の給人から任用し。代官は地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に応じて地方付加税として徴収した。藩の諸機関の整備に寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治が城の廃絶に伴って、代官統治へと移行していった。大目付所の下に盛岡町奉行(天和元年(1681年)以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。)が置かれ、市内取締まりのため特に任命され、創設の年代は盛岡城下開市にともなって、慶長年間といわれている。 (盛岡城下)検断頭(六検断) - 町検断役 - 書留役 - 宿老役盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され ており、通例中津川を挟んで、向い町(河南)方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。南部藩の村政は肝煎(村長格)、老名(助役格 2,3人)、組頭(五人組組頭)を持って構成され、その下に本百姓、水呑百姓がいた。町と村との区別は、町は宿駅伝馬の有る市街地で、村にはそのような設備がないところである。領内の町と称されているところでは、町検断を通して日常の町政が運営された。軽犯罪の処罰権をもっていたので、各村肝煎より以上の権限があった。土地の売買に立ち会い、これに認印するのもしごとの一つであった。村肝入の役も同様に、多くはその町の名家で検断役宅はその自宅があてられていた。町検断も村肝入も代官所の配下に属し、任免もその所管区の代官の権限内にあり、任期も定まっていなく、事故がない限り終身勤務しており、多くは世襲でその村の生活の安定している旧家などが務めていた。老名は年寄ともいい、肝煎・検断の補助役であり村政担当者のひとりとして処理に当たった。村内20石を単位に検地帳に登録された本百姓を中心に、五人組を組織し、五人組の長を組頭と呼んだ。肝煎・検断などからの通知を通達し、相互に連帯し相互互助に務め、売買質入れ手形の連印犯罪防止その他の義務を負った。なお、幕領のような村方三役のうち農民の代表である百姓代はおかなかった。村肝煎の職務内容については『紫波郡矢巾町教育委員会 矢巾町文化財報告第31集 「間野々村肝煎緒帳面改引請目録」延享元年(1744年)』に記載がある。八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用いた。元禄元年(1688年)正月、領内の郷村に庄屋名主制度を採用し、元禄7年(1694年)10月に実施し、町検断を庄屋に、肝入を名主と改称した。盛岡藩とは異なっている。目的地の地名を冠して街道名と呼ぶため、街道沿いの別の土地では、別名称で呼ばれているのが常態であった。八戸領内の主な街道は八戸城下を起点としていた。国道・県道・里道の分類は、修繕費について、国道は官費支弁、県道は地方費支弁となったものと考えられ、それに次ぐ重要路線は里道(村道)となっていた。明治14年の県記録に、一等国道として1路線、三等国道として1路線、県道の名称は17線あり、内一等県道1路線、三等県道16路線をあげられている。        宮城県下気仙沼-気仙-氷上-盛-吉浜-小白浜-釜石-大槌-船越-山田-津軽石-宮古-田老-小木-田ノ畑-普代-宇部-久慈-青森県 十七駅が設置当時の海上輸送ルートは、田名部湊(むつ市)や野辺地湊(上北郡野辺地町)を利用して日本海を経由して西国に至る日本海海運(西廻り航路)と、宮古湊(宮古市)から三陸沖を経由したり、北上川舟運を通じた仙台領石巻湊(宮城県石巻市)を利用して銚子に陸揚げする太平洋海運があった。盛岡藩では江戸藩邸への物資を廻送は、慶安期以降に北上川舟運(しゅううん)と太平洋の海運を利用し、仙台領石巻に米倉を設置した。米雑穀類のほかに、鹿角地方で産出された銅も新山河岸からも積み出されていた。また、八戸藩の飛地である志和郡四ヵ村の米穀類も郡山河岸を利用して江戸廻米を行っていた。「郷村古実見聞記」(文化元年(1804年)書上)このほかに、必要に応じて改所が設置された。はじめは、伊達、佐竹、津軽藩に対する国境警備のための城館であったが、文化年間になると地方統治の一拠点に変質し、役所が要害屋敷にあり、年貢(金穀や現物)を収納する藩庫(土蔵)があってその土地の人々が年貢を上納する便宜上の理由もあり、代官所とは異なった。宗藩盛岡藩の江戸藩邸は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸蔵屋敷は芝田町に、京都藩邸は東岡崎村に、大坂藩邸は北浜過書町におかれた。江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。また、江戸藩邸は元禄16年(1703年)の元禄大地震では1度すべて全壊している。古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。盛岡藩での一揆は記録にあるものだけでも133回(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)あり、その大半は18世紀末以降であり、時代が下るにつれて、盛岡以南の稲作地帯と、製鉄・水産業の盛んな三陸沿岸地域での一揆が多く発生している。原因としては以下の諸点が考えられる。さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金(密銭)を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。盛岡藩百姓一揆の中で最も大規模かつ組織的で、その要求が政治的であったものが弘化4年(1847年)と嘉永6年(1853年)の三閉伊一揆であった。天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」(花巻・北上)地方が最多発地域だった。元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。 元禄年間(1688~1704年)の盛岡藩は、元禄6(1693年)年・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6%しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足し、盛岡藩や八戸藩が大豆生産のため、焼き畑を繰り返し放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、寛延2年(1749年)、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった。宝暦4年(1754年)が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年(1755年)の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年(1756年)正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。天明3年、土用になっても「やませ」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年(1799年)から文政4年(1821年)までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。寛政11年(1799年)2月の東蝦夷地の幕領化によって、享和2年(1802年)の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。文化元年(1804年)の佐井-箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年(1808年)12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。文化9年(1812年)農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴に及び免除された(文化9年定役銭一揆)が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年(1815年)にも新役銭の徴収免除の愁訴が行われた。霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年(1832年)から同9年(1838年)まで連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇(けかつ)」と呼ばれた、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにも及ぶものさえ取り立てて廻送していった。天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。天保4年(1833年)の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。天保5年(1834年)12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が久慈街道を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、野村軍記の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。天保7年(1836年)11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町(花巻市)の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ(盛岡強訴)の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。天保8年(1837年)には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が 仙台領に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。盛岡藩は,、天保10年(1839年)、今後、御用金など一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた軒別役という新たな税を課した。三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両に及んだ。弘化4年(1847年)10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための特別御用金5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村(下閉伊郡岩泉町)から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して笛吹峠を越えて、遠野に強訴した。上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。 12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老南部土佐に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老新田小十郎に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。『内史略』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。 また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆が発生したが、当局によって鎮圧された。(藩の対応)嘉永元年(1848年)6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。嘉永2年(1849年)7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂学派一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。嘉永6年(1853年)2月、藩は行きづまった財政はいかんともしがたく、郷割御用金の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、 浜通りを南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。6月4日、大槌通に押し寄せ、翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領へ押し通ろうしたが、唐丹番所側では 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる(藩の対応)嘉永7年(1854年)、この一揆は幕府に知られ、藩主・利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、横沢兵庫を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、東中務は責任を負って免職されている。江戸幕府が成立すると徳川家康はアイヌ人の往来を自由とする黒印状を発布した。そこで17世紀、盛岡藩領のアイヌ人の津軽半島往来は自由に行われ、盛岡藩領内には公式なアイヌ人居住地の戎村や、ほかにもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身に付け、逆に和人の領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して、盛岡藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。寛文 8年(1668年)、シャクシャインの戦いの際、翌寛文 9年 アイヌ蜂起の鎮圧のため、幕命により弘前藩・久保田藩とともに蝦夷地へ出兵し、また、領内において下北アイヌの監視をも兼ねて田名部・野辺地に藩士を派遣した。18世紀には、盛岡藩領内の飛騨屋が蝦夷地での材木業、のちに漁業にも進出した。飛騨屋には下北半島や宮古周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人が蜂起(国後目梨の戦い)したが、松前藩が鎮圧に成功した。このとき盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されている。寛政11年(1799年)、幕府は千島列島に進出しつつあったロシアに対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の渡島国(松前藩領を除く)・胆振国・択捉島の領域を担当した。特にレザノフの部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。盛岡藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、ゴローニンの逮捕も盛岡藩兵が行ったものである。当初、幕命により箱館に陣屋を建設して警備に当たったが、新渡戸十次郎らの建策より1857年に室蘭に移った。これらは1868年の戊辰戦争の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。いわゆる「南部地方」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、下北地方も旧盛岡藩領であった。八戸市周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領であった。志和4ヵ村は収穫量5,000石の飛び領で、周辺の盛岡藩領の農民が八戸藩領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸藩領の農民の権益を保護するなど、盛岡藩と八戸藩の係争地であった。八戸藩では領内において代官が各2名ずつ置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された。盛岡藩南部氏は、戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、大浦為信のときに独立した。その際に南部氏重臣・石川高信(盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたる)らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡(北、三戸、九戸)であった。平安末期には東西南北の4つの「門」(かど)と、9つの「戸」(へ)に分けられ、九ヵ部四門の制(くかのぶ しかどのせい)が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた。近世期に入ると、、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼う「御野馬(おのま)」と、民牧の「里馬(さとうま)」との二本建になっている。南部藩内の(九牧を含む)すべての牛馬の総轄したのが、「牛馬掛御用人」であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。また、民間の馬であっても藩の許可なく移動することも売却することも禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。藩から貸与された種牡馬によって生れた若駒(牡馬を「駒」、牝馬は「駄」と呼ばれた。)は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒(せりごま)市」にかけて廉価で徴収して種馬や群軍用馬にして、馬商人も取引区域が限られ、他国人は取引が制限されていた。盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた。貞享元年(1684年)、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。藩政期を通じ、南部九牧(なんぶくまき)と総称される「御野(藩営牧場)」を整備して、実務は三戸に御野馬役所を設けて、総括責任者は「御野馬別当」と呼ばれ、各牧には「馬責(調教)」「馬医」が配置されて補佐する一方、藩牧が存在する各代官所には牛馬役が置かれた。他に田鎖野・妙野・広野・立崎野があって、公牧は計13カ所。住谷野は中世から牧が存在したが他の牧は多くが寛永から正保期に整備されている。この他に寛文4年(1664年)の八戸藩分立によって盛岡藩は妙野(青森県八戸市)と広野(岩手県久慈市)の二牧を譲渡した。実際の藩牧経営は地元農民に転嫁され、夫役を徴収して行われていた。牧場に飼育さえている馬は、冬期には、積雪や寒凍を避けて、周辺の農家に課役として預けて保護している。また、牧場により、積雪の少ないところは、四季を通じて放牧のままであった。明治維新後、盛岡藩の減転封に伴ない、各牧は後継の斗南藩・七戸藩に引き継がれたが、廃藩置県後は廃止された。明治3年(1870年)9月、、旧盛岡藩の産馬事業は直接政府が管轄することとなり、盛岡に民部省養馬掛出張所が置かれた。明治5年(1872年)10月 岩手県は九戸郡侍浜村北野と宇部村三崎野の旧盛岡藩の牧場廃止を行った。里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて、「馬肝入」がそれを統括し、藩の牛馬方役人につながっていた。藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。宝永3年(1706年)、領内の里馬に関して、牝馬(母駄)を上中下の三等級に区分して本帳(馬籍帳)に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬と区別の明確化を図り、上駒、中駒は一切他領に出すことは禁じられていた。毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。公儀御馬買衆は寛永2年(1625年)にはじめられ、元禄3年(1690年)を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという。元禄4年(1691年)4月、老中より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年(1719年)まで続き、毎年7-8疋が購入された。南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬のためなど、民間の駄用に利用され、農耕に使役された形跡がない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入されて来る例があった。藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。八戸藩は陸奥国三戸郡八戸(青森県八戸市内丸)に存在した南部氏族の藩である。前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。寛文4年(1664年)に八戸藩が分立され、藩庁は八戸城である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。文化9年(1812年)八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主南部利敬より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している。領内人口は寛延2年(1749年)に7万1352人で(江戸時代の日本の人口統計#盛岡藩 (南部藩)参照)、領地の内訳は三戸郡41ヶ村、九戸郡38ヶ村、志和郡(現在の岩手県紫波郡)4ヶ村の計83ヶ村。志和は周囲を盛岡藩に囲まれた飛び地である一方、九戸郡内には周囲を八戸藩に囲まれた盛岡藩の飛び地があった。現在の八戸市域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは盛岡藩域に属している。貞享元年(1687年)に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。別名、盛岡新田藩と言われる盛岡藩の支藩。元々は江戸幕府旗本寄合席の石高5,000石の旗本であったが、本家より加増を受けて成立したもの。定府(江戸住まい)大名であるが、南部信鄰が幼少の南部吉次郎利用を補佐する際には幕府の許可をもらって盛岡に下向し、本家藩政に参画した。陸奥国北郡(現在の青森県上北郡七戸町周辺)に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府であったが、戊辰戦争後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸傳によって1863年に分知が実施されたとする書類が提示され(書類が本物であるかについては不詳)、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を七戸城とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。七戸藩の江戸藩邸上屋敷は、江戸城半蔵門外(大手より10町。現在の「ふくおか会館(福岡県東京事務所)」(東京都千代田区麹町)附近)にあり、これは旗本時代以来からのものである。また、天保年間には青山五十人町に下屋敷を設けた。ちなみに江戸の菩提寺は宗藩と同じ。なお、盛岡藩主となった南部重信が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣七戸氏の跡は、重信の子の1人英信が名跡を継ぎ、七戸氏を称した。またそれ以外の重信の子(七戸秀信・七戸定信・七戸愛信)も七戸を称している。七戸愛信は盛岡藩家老職を務めている。

出典:wikipedia

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