チャムド市(チャムドし)は中華人民共和国のチベット自治区に位置する地級市のひとつ。自治区の東部、カム地方の西部を占める。チベット名チャムド・サクル (chab mdo sa khul)。「チャプ(chab)」は「水(敬語)」を、「ド(mdo)」は「合流地点」を意味し、中国名はチベット名を音写したもの。日本では、チベット語に基づく「チャムド」のほか、漢字表記からの重訳である「チャンドゥ」等の表記がみられる。中国名「昌都」の音読みは「しょうと」。四川省のカンゼ・チベット族自治州、雲南省デチェン・チベット族自治州とともに、チベットの伝統的な地方区分カム地方を構成し、その住人を「カムパ(khams pa, 康巴)」と称する。チベット自治区東部、メコン川とサルウィン川上流地帯に位置する。南はミャンマーと国境を接し、南東は雲南省デチェン州、東は四川省カンゼ・チベット族自治州、北は青海省玉樹チベット族自治州と接する。唐にはこの地域に女性を崇拝し、女王を頂く東女国があり、唐と通交したが、やがて吐蕃によりチベットに統合された。吐蕃の崩壊後、この地に割拠した小国の主たちは、個別に中国王朝と交通したが、13世紀、モンゴル帝国朝、チベットの全域が、吐蕃として一括され、サキャ派の長が長官を務める宣政院を通じ、勢力の大小に応じ、万戸、千戸等の、地方官、軍事指揮官の称号を受け、各地に設けられた「万戸府」、「千戸府」等の機関の長官と位置づけられた(土司)。この地区を含むカム地方、アムド地方を覆う「機関」としては、「吐蕃等處宣慰使司」、「吐蕃等路宣慰使司」「朵甘思宣慰司都元帥府」がある。明朝は、14世紀後半、チベット各地の諸侯に衛所の軍事指揮官の称号を与え(土司制、衛所制)、チベットを二分するという位置づけの2衛を設置(西南部に「烏思蔵衛」、東北部に「朶甘思衛」)、所領の大小に応じて、指揮使司2、宣慰使2、元帥府1、招討司1、万戸府13、千戸所4などの長官職の称号があたえられた。さらに14世紀には主立った教団政権のトップが明より称号を受け、あわせて「三大法王、五大教王」と呼ばれた。以上のような枠組みにおいて、この地区は「朶甘思衛」に属し、この時期、チベット仏教サキャ派の支派ゴル派が興隆し、カムに浸透した。16世紀には、この地区に、麗江に本拠をおくジャン王の勢力がのびたが、17世紀半ば、グシ・ハン王朝がチベット征服に乗り出した際、その支配下に入った。18世紀、雍正のチベット分割によりカム地方が三分された際、「ダライラマに賞給」されて、以後「西蔵」の一部分として位置づけられることとなった。1905年、四川総督趙爾豊は、四川軍を率いて当方からチベットに侵攻、名目的に四川省に属していたカム地方東部の諸侯たちや、ラサを本拠とするガンデンポタンなどを次々と破り、1911年、ラサに入城した。趙はガンデンポタンやその他のチベット人の小政権をすべて取り潰し、チベットを中国に併合しようと計画、ラサ東方の100キロほどに位置するギャンダ(太昭)に新たな境界を設定、この地までの、チャムド地区をはじめとするカム地方西部と、カム地方東部を合わせた領域に西康省を、ギャンダ以西に「西蔵省」を設置する準備にとりかかった。しかし同年10月辛亥革命が勃発、趙は本拠の四川省成都に戻ったところを革命派に殺害された。中国政府はこの地を川辺特別区に組み込み、将来発足させる西康省の領域として確保しようとしたが、チベットの統合と独立国家としての国際承認を目指すガンデンポタンはカム地方の全域を奪還の標的としてしばしば出兵、1918年、チャムド地区に相当する地域の確保に成功した。1950年、人民解放軍が進駐し、チベット軍と衝突が起きたている(チャムドの戦い)。1区10県を管轄する。
出典:wikipedia
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