トランス・ワールド航空 (トランス・ワールドこうくう、、IATAコード:TW) はアメリカ合衆国にあった大手航空会社。2001年にアメリカン航空に吸収合併され、消滅した。1925年にウエスタン・エアー・エキスプレスとして設立されたあと、1930年に、当時の大手航空会社のトランスコンチネンタル・エアー・トランスポートと合併し、トランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エアーと社名を変更した。トランスコンチネンタル・エアー・トランスポートは、1928年に創設され、世界初の大西洋横断飛行を成し遂げた著名な飛行家のチャールズ・リンドバーグが技術顧問を務めていたことで有名だった。その後1932年には、全金属製の最新鋭機であるダグラスDC-1を導入した他、その後も同機の生産型であるダグラスDC-2やDC-3などの新鋭機を次々に導入し、コロンバス~ピッツバーグ~ニューアーク線やアメリカ大陸横断路線に参入するなど、その路線網を全米に拡大し続けた。1939年には、当時の社長のジャック・フライの友人の大富豪で、飛行家や航空機制作会社の経営者としても知られるハワード・ヒューズに買収された。以降、ヒューズにより莫大な資金が投下され安定した資本のもと、与圧客室を持ち高高度運航が可能なボーイング307を1940年に導入した他、オーナーのヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断が可能な大型旅客機、ロッキード コンステレーション開発の音頭を取るなど、本格的な国際航路の開設を含むさらなる事業規模の拡大を目指す。しかし、1939年9月の第二次世界大戦の勃発と、その後の1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、国内外路線の拡大は一時的に中断されることとなり、パンアメリカン航空やユナイテッド航空、ノースウェスト航空などの競合他社と同じく、1945年8月の終戦までの間、所有機とそのパイロットの多くがアメリカ軍に徴用されてしまった。第二次世界大戦終結後の1946年には、戦争により導入が遅れていたロッキードL-749Aコンステレーションを、世界各国の航空会社に先駆け導入した。また、冷戦下においてアメリカや西側諸国の友好国となった国の民間航空の発達にも力添えし、サウジアラビア航空やエチオピア航空の設立に協力した他、敗戦国である西ドイツのフラッグ・キャリアであるルフトハンザドイツ航空の復活にも協力を行った。1950年には、国際線を独占しようとするライバルのパンアメリカン航空と、それを支持するオーウェン・ブリュスター上院議員が提出した「コミュニティー・エアライン法案(国際線就航を特定の企業に制限する法案)」の論争に勝利し、国際線への本格的参入が可能になると、それに合わせて社名を「トランス・ワールド航空」に変更した。また、これらの本格的な長距離国際線の開設に先立ち、トランスコンチネンタル・エアー・トランスポート時代から同社のアドバイザーを務めていたチャールズ・リンドバーグが引き続き就任していた。その後も、ロッキード コンステレーションの最新機種である、L-1049「スーパー・コンステレーション」やL-1649「スターライナー」などの最新機材を次々に導入し、長距離国際線やアメリカ大陸横断便に投入した。さらに1958年から1959年にかけては、当時の最新鋭ジェット旅客機のボーイング707や、再びヒューズが開発に関わったコンベア880を相次ぎ導入するなど、パンアメリカン航空と並び、華やかな空の黄金時代を代表する航空会社として世界の空に君臨した。国際線はフランスやイタリア、ギリシアをはじめとする大西洋横断路線、およびヨーロッパ路線がメインであったが、その後徐々に路線網を拡張し、最盛期には中東や東南アジア、沖縄を経由した世界一周路線を運航するまでになった。また、ロンドンのヒースロー国際空港やパリのオルリー空港(その後シャルル・ド・ゴール国際空港)を地域ハブとし、ヨーロッパや中東への接続便を運航した。なお、日本路線はパンアメリカン航空とノースウェスト航空が長年独占し続けていたこともあり、アメリカ占領当時の沖縄に乗り入れていたのみであったが、アメリカ軍チャーター等で横田基地や板付基地としてたびたび飛来していた。また、1989年10月、1992年1月にはロナルド・レーガン元大統領やジョージ・H・W・ブッシュ大統領訪日の際の随行機として大阪国際空港にも飛来した。映画製作者としても有名であったヒューズの人脈から、ハリウッドスター御用達航空会社としても知られており、キャサリン・ヘプバーンやフランク・シナトラ、ハンフリー・ボガートなど多くの映画スターが移動に利用しただけでなく、1940年代から1960年代にかけて多くの映画やレコードのジャケットに同社の飛行機が登場している(フランク・シナトラのアルバム「カム・フライ・ウィズ・ミー」のジャケットは特に有名)。また、1950年代後半から1960年代後半にかけては、ヒューズの地元であるカリフォルニア州南部にオープンした遊園地「ディズニーランド」の公式スポンサーとなったその後、経営方針をめぐりヒューズ(この頃深刻な精神疾患であった)と役員会が対立したことを受けて、ヒューズは1966年に保有する株の多くを手放し、経営から手を引くこととなった。この際ヒューズとTWAは裁判でも争ったが、裁判所はヒューズに有利な判決を下したため、TWAは100万ドル以上の多額の裁判費用をヒューズに払うことになった。最大のスポンサーでもあったヒューズが去ったことで経営方針が変わり、1967年には、世界最大級のホテルチェーンであるヒルトン・インターナショナルを買収するなど、順調な業績を元に事業の多角化を進めた。さらに1970年代には、最新鋭のロッキード L1011 トライスター型機をイースタン航空やデルタ航空などの他の大手航空会社とともに導入し、国内幹線や短中距離国際線に投入したほか、ボーイング747型機や同型機の超長距離型であるボーイング747SPの導入などを通じて積極的な国際線網の展開を進めた。しかし、1970年代後半になると外国航空会社との競合激化などにより次第に業績が悪化し、経営が苦しくなったところで規制緩和の大波を受けることになった。1978年に、当時のジミー・カーター政権によってもたらされたアメリカ国内航空業界の規制緩和(ディレギュレーション)後、国内外での厳しい価格競争により、既に業績が悪化しつつあったTWAは大打撃を受けた。加えて1985年には、テロの標的ともなり、トランスワールド航空847便テロ事件が発生した。その後、1980年代中盤にかけては、何度かカール・アイカーンなどの投資家による企業買収によって経営者が代わるなどの異変はあったものの、空の黄金時代をともに謳歌したパンアメリカン航空やブラニフ航空、イースタン航空などの大手航空会社が、厳しい競争に敗れ次々に破産や吸収合併により消えていく中、TWAはヨーロッパや中東への国際線をはじめとする主要路線の売却や、拠点空港をミズーリ州セントルイスへ移転するなどして何とか生き残っていた。1990年代に入ると湾岸戦争による燃料費の高騰や、アメリカ国内外における格安航空会社の台頭などから慢性的な経営不振に陥り、1992年と1995年には相次いで破産申請を行うものの運航は継続していた。破産申請こそ行ったものの、イメージ刷新を狙って1996年に新しい塗装を導入したほか、ボーイング777やボーイング717型機などの新型機の導入や、セントルイスを国際ハブとすべく、すでに就航していたセントルイス-パリ線に続いて、新たに導入したボーイング777によって1999年にセントルイス-東京線の就航を計画するなど、再び積極的な経営拡大を行うことで収益拡大を図った。しかし、1996年にニューヨーク州のロングアイランド沖でパリ行きの800便のボーイング747型機が、燃料タンクの構造的欠陥がもとで爆発、空中分解して墜落し、230人の乗員・乗客全員が死亡する事故(トランスワールド航空800便墜落事故)が起きるなど不運が重なり、経営拡大路線の中止を余儀なくされた。その後、運航費用が高いボーイング747やロッキードL-1011などの老朽機材の売却や、不採算路線の廃止などの経営効率化を図ったものの、2001年にライバルの一つであるアメリカン航空に吸収合併することが決まった。吸収合併後もしばらくの間、多くの元トランス・ワールド航空の機材はそのままの塗装にアメリカン航空のロゴを入れたり、逆にアメリカン航空の銀色のペイントに「Trans World」のブランドロゴが入ったままで運航していたが、まもなくその様な機材も姿を消し、トランス・ワールド航空は完全に終焉を迎えた。その後アメリカン航空は、ウェブサイトの統合、各空港の施設のロゴの差し替え、ボーイング717型機の売却を進めたほか、経営合理化の一環として既存の最大のハブ空港であるシカゴにほど近いセントルイス国際空港を自社のハブ空港から外すなど、トランス・ワールド航空の遺産は姿を消していった。しかし、全盛期のトランス・ワールド航空がボーイング707などの大型ジェット機の就航に対応すべく、フィンランド生まれの建築家のエーロ・サーリネンに設計させたニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港のトランス・ワールド航空専用ターミナル(ターミナル5)は、そのデザインの美しさから現在に至るまで歴史的建造物として高い評価を受け続けている。またこのターミナルは、そのデザインの美しさから「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」など多くのアメリカ映画に、1960年代という航空業界の黄金時代を代表するアイコンとして出演している。2005年から原形を残したまま改装工事に入り、完成後はホテルとして使用されることになる。なお、ヒューズがTWAのために開発を進めさせたロッキード コンステレーションも、その美しいフォルムから「レシプロ大型旅客機の最高傑作」として現在も数機が保存され、イベントなどで飛行し人気となっている。なお、トランスワールド航空が発注したボーイング社製航空機の顧客番号(カスタマーコード)は31で、航空機の形式名は747-131, 747SP-31, 767-231 などとなっていた。
出典:wikipedia
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