チュルク語族(チュルクごぞく)/突厥語族(とっけつ-)(Turkic languages)は、中央アジア全体やモンゴル高原以西にあるアルタイ山脈を中心に東ヨーロッパ(トルコに属する東トラキア地方のみ)から北アジア(シベリア)に至る広大な地域で話される語族である。歴史学の成果から本来このチュルク語族を話す人々は中央アジア・モンゴル高原からシベリアのあたりにいたと考えられる。分布がチュルク語族と隣接するモンゴル語族、ツングース語族とはいくつかの言語の特徴を共有するため、チュルク語族とこれらとをあわせてアルタイ諸語という。アルタイ諸語の相互の系統関係は証明されていないが、もしアルタイ諸語を同一の祖語を共有するアルタイ語族として認める立場に立てばチュルク語族はチュルク語派と呼ぶべきである。このような経緯から、単にチュルク諸語(テュルク諸語)と呼ばれることが多い。各語群内では言語間の共通性が大きく、意思疎通は容易であると言われる。その分布の広大さに比べて言語間の差異は比較的小さく、チュルク諸語全体をひとつの言語、「チュルク語」と見なし、各言語を「チュルク語の方言」とする立場もありうる。特に3語群(オグズ語群、キプチャク語群、カルルク・テュルク語群)の話し手はイスラム教を受け入れた結果、アラビア語・ペルシア語から多くの語彙を取り入れているため、語彙上の共通性が大きい。政治的経緯から、トルコ語を除く諸言語はロシア語からの借用語も非常に多い。現在のブルガリア語はスラブ化した言語であるが、ブルガリア人の先祖であるブルガール人は、バルカン半島にやって来るまでは、ブルガール語派(テュルク古語)を話すテュルク系民族であった。なお、経緯は全く異なるが、現在のブルガリアがオスマン帝国支配を受けた経緯で、ブルガリア語にはトルコ語の語彙も多く取り入れられている。テュルク諸語の最古の文献は、第二可汗国時代の686年から687年頃に建てられたチョイレン銘文と呼ばれる突厥碑文で、古テュルク文字(テュルク・ルーン文字、突厥文字)で書かれた。その他の突厥碑文は、モンゴル高原の各所に残る。745年に突厥を滅ぼしたウイグルも古テュルク文字を受け継いだ。モンゴル高原から中央アジアに移住した後、8世紀にはソグド文字を改良したウイグル文字を使用して古ウイグル語が書かれた。この言語は天山ウイグル王国(856年 - 13世紀)を建てると公用語となった。なお、古ウイグル語は後述のチャガタイ語に連なる現代ウイグル語とは系統が異なる。イスラム教を受け入れたカラハン朝(840年 - 1211年)では、アラビア文字でを書き取るようになり、『クタドゥグ・ビリグ』のような文学作品が著された。その後、中央アジアではチャガタイ語、アナトリアではオスマン語がそれぞれアラビア語・ペルシア語の要素を取り入れた典雅な文章語として発展した。20世紀に入ると文章語の簡略化が進められ、各地の口語を基礎とし、ラテン文字やキリル文字で書き表される新しい文章語が生まれた。しかし、依然としてイランなどではアラビア文字が使用されており、中国でも一度ラテン文字化が進められたテュルク系諸言語が1980年代にアラビア文字表記に戻されたので、現代テュルク諸語を表記する文字は大きく分けて3つ存在する。ソ連崩壊後、旧ソ連のテュルク諸語ではキリル文字からラテン文字へ移行する動きが見られる(アゼルバイジャン語、トルクメン語、ウズベク語など)。ロシアのタタール語などもラテン文字への移行を目指しているが、ロシア政府の介入によってラテン文字の公的使用は制限されている。日本語と同じく、目的語や述語に助詞や活用語尾が付着する膠着語で、母音調和を行うことを特徴とする。文の語順も基本的に日本語に近く主語‐目的語‐述語になる言語が多い。テュルク諸語は、音韻などの特徴からいくつかの語群に分類される。以下に、各言語のうち主要なもののみを例示する。
出典:wikipedia
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