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柳川市

柳川市(やながわし)は、福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置する市である。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は福岡都市圏に属している。筑後地方の主要都市の1つで、福岡市から西鉄天神大牟田線で約45分、久留米市、大牟田市から同線で約15分である。市内を掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれ、筑後地方南西部における商業の中心地であるとともに、鰻料理、掘割を使った川下り、旧藩主立花氏の別邸「御花」が全国的にも有名。このほかにも干拓地を中心にい草、有明海で海苔の養殖なども盛んな都市である。市域の中心部に旧柳河藩の城下町と西鉄柳川駅周辺からなる現在の市街地が形成されており、市街地を取り囲むように住宅地及び農地が広がっている。西鉄柳川駅周辺は福岡市の郊外・ベッドタウンの様相であり、城下町から発展した城内地区とは雰囲気が異なっている。市内を西鉄天神大牟田線が南北に貫いており、福岡市、久留米市への通勤路線となっている。福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置し、北九州市から南に約100km、福岡市から南に約50km、久留米市から南に約20km、大牟田市から北に約15kmの距離にある。市のほぼ全域が平坦地であるため、市域面積76.9km²のうち、99.8%(76.8km²)が可住地であり、可住地面積は県内6位の広さである。市形は南北12km、東西11kmのひし形ないしはダイヤモンド形をしているが、地理的な特徴を理解するには扇形と言ったほうがイメージに近い。即ち、市の北東部を扇の要に見立てると、西を筑後川、南東を矢部川という一級河川が扇の両端を形成しており、その間を矢部川から分岐した沖の端川、二ツ川、塩塚川が市内を貫流する。矢部川を含めて各河川は扇の骨のように北東から南西方向に流れており、いずれも市の南西で有明海に注ぎ込む。そして、各河川から分流する掘割が市内を縦横に走っている。市の全域が筑紫平野に含まれており、市の北東部2/3が沖積平野、南西1/3が干拓地で構成される。市域のは古くから人工的に開拓・干拓されてきた。干拓地は江戸時代から昭和にかけて徐々に造成されたため、海岸線に平行して各時代の干拓堤防と堤防沿いの集落が連なる。標高は最高でも5-6mしかない起伏の少ない低平地であり、有明海に向かって緩やかに傾斜している。市の表層の全ては砂・礫・泥からなる沖積地堆積物で形成されており、そのうち表土層の5-20mには、極めて軟弱で含水比が70%と高い「有明粘土層」が分布している。筑紫平野の沖積地堆積物は厚く重なっており、基盤の深度は柳川付近で最深部を形成し、その深度は海面下900mを超えるとされる。三橋町・大和町の両町は従来の大字の前に旧町名を冠している。柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生式土器が柳川市郊外の蒲池地域に出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されているが、都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏の柳河藩の城下町となり現在に至る。市北部の蒲池地区、南東部の鷹尾地区には弥生時代の土器が出土している。869年に鷹尾地区に鷹尾神社が創建され、同神社の中世以降の文書は国の重要文化財に指定されている。平安時代の藤原純友の乱の時には、大宰府を占領した純友の弟である藤原純乗が柳川まで進出したが、大宰権帥の橘公頼とその子の橘敏通が蒲池城で撃退した。敏通の子孫である大宰府官の橘氏が領主となる。12世紀には平家の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられる。鎌倉時代に嵯峨源氏の流れを汲む源久直(蒲池久直)が地頭職となり、蒲池氏となる(蒲池氏は藤原純友の末裔との伝承もある)。室町時代に筑後宇都宮氏の宇都宮久憲(蒲池久憲)が蒲池氏を継ぎ、南筑後での有力氏族となった。16世紀に蒲池治久が蒲池城の支城を築き、これが後の柳河城となる。戦国時代には蒲池鑑盛が筑後守護職でもある大友氏方の国人領主となる一方で、大友氏、龍造寺氏、島津氏の有力な戦国大名の勢力が筑後国で激突したため、戦国後期での柳川を含めた筑後地方の歴史は複雑である。1581年に蒲池鎮漣(鎮並)が龍造寺隆信に謀殺され、柳河城は落城し龍造寺氏が進駐した。1584年には大友氏の高橋紹運・戸次道雪(立花道雪)が筑後へ進出すると、同年に島原の沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った島津氏が1586年には筑後に進出。両者は筑後・筑前両国で争い、島津氏が優勢だったが1587年の豊臣秀吉の九州出陣によって九州は一挙に統一・平定された。秀吉の九州仕置によって、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった立花宗茂が南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。宗茂は朝鮮出兵に従軍し活躍したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を没収された。立花氏に代わって、関ヶ原で石田三成を捕らえる功を上げた田中吉政が岡崎城から筑後国32万5千石の領主として柳河城に入城し、柳河藩を立藩した。吉政は柳河城周辺の掘割整備のほかに、五層天守閣の構築に着手するなど、柳川の城下町としての基礎を整えた。さらに、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の築堤(慶長本土居)、荒地開墾、交通網の整備(久留米柳川往還、現県道23号線)によって藩の財政的な基盤を固めた。しかし、田中氏は2代で無嗣断絶。この間、立花宗茂は関ヶ原後に浪人となったが、徳川家康に引き上げられ陸奥棚倉3万5千石の大名となっていた。宗茂は田中家断絶後の旧領柳河に10万9千石の大名として返り咲き、以後明治まで立花氏が藩主となる。1697年に4代藩主立花鑑任が藩主別邸として「御花」こと「松涛館」を建設。御花は現在でも立花家現当主によって経営されており、一般に公開され、一部は宿泊、結婚式場としても利用されている。1862年には現柳川市出身で横綱土俵入りの不知火型の創始者とも言われる雲龍久吉が10代横綱となる。1871年、廃藩置県により、柳河藩は柳河県となり、三潴県(旧久留米藩)に統合され、1876年に福岡県に編入された。1872年の失火により天守閣を含む柳河城は全焼した。城跡は学校(市立柳城中学・私立柳川高校)となり、石垣は干拓地の堤防に利用されたため、城跡を示すものはわずかしか残っていない。1937年に電気鉄道の九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線)が柳川経由で開通。現在では福岡で随一の通勤路線となっており、柳川市に多大な影響を与えている。旧来の柳川市と三橋町は市街地が連続するなど一体化していることから、「柳川」の名を冠した官庁や西鉄の駅が旧三橋町域にあるという事態が長く続いていたが、2005年(平成17年)の合併で名実ともに「柳川市」に存在することとなり、違和感は解消されつつある。しかしその一方で、他の合併都市にもみられるように、旧市町の“壁”を取り払った、市全体としての街づくりが課題となっている。旧三橋町域にある「柳川」「柳河」の名がついた主な施設としては以下のものがある。また、旧三橋町には柳河という大字が存在した(現・柳川市三橋町柳河)。1987年に廃止された佐賀線の筑後柳河駅は上記の三橋町大字柳河に所在した。2005年3月21日に隣接する三橋町・大和町と対等合併し、旧市名はそのままに新市制が施行された。市議会設置庁舎は柳川庁舎。2007年度の実質収支比率は2.4と、単年度の収支は比較的健全な状況にある(比較可能な県内26市のうち15位)。しかし、財政力指数は0.43と低い(同、26市のうち22位)。これは、市の歳入構造が地方交付税交付金に偏っており、地方税などの独自財源に乏しいことを示している。2007年度の歳入総額に占める地方税収の比率は20%にとどまっている(比較可能な県内26市のうち23位)。独自財源が乏しく地方交付税への依存度が高いため、国の財政再建の影響を受けやすい体質にある。現在、西鉄柳川駅・中島駅周辺で2つの事業が行われている。治安状況は総じて安全である。2005年における刑法犯認知件数は981件と前年(1022件)から4%減少した。人口比発生率は1.32%であり、福岡県平均2.11%はもちろん、全国平均1.78%よりも低く、県内28市のなかでは4位の低さである。交通事故発生件数は667件と前年(681件)から減少した。人口比発生率は0.89%と全国平均0.73%をやや上回るものの、福岡県平均1.03%よりも低い。全域が0944(瀬高MA)。市内総生産: 1,911億円(2007年度)西日本鉄道このうち、中心駅は西鉄柳川駅。特急を含む全ての列車(特別料金不要)が停車する。詩人、北原白秋の故郷でもあり、生家が今日も保存されている。市内には、ゆかりの北原白秋、檀一雄、長谷健他の歌碑、詩碑、句碑が多数ある。また、この都市で撮影された映画も多い。実写映画『柳川堀割物語』(製作宮崎駿、監督高畑勲)は、住民が荒廃した掘割の再生に取り組むさまを記録したドキュメンタリーである。ちなみに、『廃市』(原作福永武彦、監督大林宣彦)についても柳川で撮影は行われているが、こちらの中身は柳川と大きく異なる仮想の街であり、柳川市を舞台にした映画ではない。写真家荒木経惟・陽子夫妻は新婚旅行で柳川を訪れ、写真集「センチメンタルな旅」として出版した。また、彼らのエッセイをもとにした「東京日和」(監督・主演竹中直人)でもこの「センチメンタルな旅」の写真をもとにした柳川のシーンが描かれている。このほかに、日本文学研究者の藤村作、作家の長谷健、俳人の木村緑平、哲学者の廣松渉、俳優の妻夫木聡、歌手の徳永英明の実家、歌手の松田聖子の実家(蒲池家)の菩提寺もある。掘割は、クリークとも呼ばれる水路であり、柳川を含めた筑紫平野南部に一般的に存在する。筑紫平野南部では六角川・嘉瀬川・筑後川・矢部川などの主要河川が有明海に注ぎ込んでおり、中世以前には低湿地帯が広がっていた。中世以降、徐々に低湿地帯を掘削・開墾(土地かさ上げによる乾田化)することで人工的な農地が形成されてきたが、掘削後の水路が掘割と呼ばれることとなった。柳川市内の掘割は、戦国時代の領主蒲池鑑盛が柳川城の水の防壁として開発し、柳川城を九州屈指の難攻不落の堅城としたが、近世都市との関連では立花氏に先立つ領主田中吉政によって整備され、上水道・農業用水路・洪水予防の貯水路としての機能が強化された。上水道網が完備する昭和40年代までは掘割は上水道・水運など生活用水としての役割を担っていた。しかし、上水道網・道路網の整備が進むに連れて掘割の清掃がなされなくなり、掘割は水草に埋没し、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家檀一雄は、当時の市長に「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を送り、往時の姿を失った掘割を嘆いている(シブタとは小魚の一種)。昭和52年には、柳川市街地の掘割を暗渠・埋め立てする計画が市議会により承認され実施直前であったが、下水道係長であった広松伝の研究・啓蒙活動を受けて、市長古賀杉夫の判断により一転して掘割の保存、整備を進めることとなった。昭和53年に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施され、柳川の掘割は蘇った。しかし、化学薬品の流入や一般家庭の生活廃水による富栄養化の問題、下水道整備の不足など、掘割の再生は途上である。柳川市の掘割の総延長は930kmであり、市街域の掘割を巡る「川下り」の舞台として貴重な観光資産となっている。

出典:wikipedia

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