おニャン子クラブ(おニャンこクラブ)は、1985年にフジテレビのテレビ番組『夕やけニャンニャン』から誕生した女性アイドルグループ。1985年4月1日、フジテレビのバラエティ番組『夕やけニャンニャン』開始とともに番組内のアシスタントとして同時に芸能界デビューし、3ヶ月後の1985年7月5日に発表したデビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットしてブレイク。以降、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ名義、グループ内で作ったユニット名義などで、シングル、アルバム、ビデオソフト、写真集を絶え間なくリリースし続けてヒットさせ、1980年代中期のアイドルシーンを席捲していった。しかし、1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』の番組終了に伴い、翌9月に解散コンサートを行って、わずか2年半の期間でその活動が綴じられた。2年半の間にメンバーの加入と脱退が頻繁に行われていたので、メンバーの顔ぶれは常に流動的であった。結成時は11人で、解散時は19人が在籍していた。活動中期の1986年8月と9月に、中学生で加入してきたメンバーたち5人で括られた「おニャン子クラブB組」も作られた。高校生以上で構成される本体のおニャン子クラブとは区分されていたが、1987年4月にB組の面子が全員高校生になって本体に昇格したことで、発展的解消した。おニャン子クラブのメンバーには会員番号が与えられ、『夕やけニャンニャン』内であろうと他局の番組であろうとも、自己紹介の際には必ず名前の前に「おニャン子クラブ会員番号××番」を付けて名乗っていた。そのため、解散後も芸能界に残るなどした著名なメンバーは名前とともに会員番号もセットにして覚えられている。会員番号の振り分けは、結成時の11人はくじ引き順で、それ以後は加入順。脱退した者の番号については欠番とした。解散時、会員番号は52番まで行ったが、おニャン子クラブB組のまま脱退した2人と『夕やけニャンニャン』番組末期に短期間だけ在籍した外国人の研修生1人には与えられなかった。おニャン子クラブのメンバーは生放送である『夕やけニャンニャン』の出演に際して、大半は高校生や大学生などの学生であったから各々の定期試験中は番組出演を控えて欠席した。また、番組側が斡旋した仕事(ドラマ撮影など)で欠席する場合もあった。そのため、『夕やけニャンニャン』を含めて、おニャン子クラブ名義での活動は必ずしもメンバー全員が揃っていたわけではなかった。当時、フジテレビの深夜生放送番組であった『オールナイトフジ』は社会的現象ともいえるほどにヒットし、そのヒットの一翼を担った番組アシスタントの女性グループ、オールナイターズもアイドル的な人気と活動展開で盛り上がっていた。彼女らは既存の芸能人ではない素人の女子大生たちで構成されていて、崇高な存在であったアイドル像とは相反していたことで注目を浴びていた。その成功から、フジテレビは同じスタッフによるもので『オールナイトフジ』と同様な生放送の情報バラエティ番組『夕やけニャンニャン』の開始とオールナイターズに相当する番組アシスタントの女性グループ、おニャン子クラブの結成を計画する。そして、1985年4月からの夕方ローカル放送枠で行うレギュラー番組に先駆けて、まずはパイロット番組として、1985年初頭に特番『オールナイトフジ女子高生スペシャル』(1985年2月23日、3月16日)を制作して放送。その特番に出演していた女子高生のなかから選抜した11人でおニャン子クラブを結成し、4月1日から『夕やけニャンニャン』放送開始とともに出演させた。おニャン子クラブは当初からメンバーの増員を図ることとなった。『夕やけニャンニャン』番組開始時からメンバー選定のオーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」を設けて、それに合格した新メンバーが続々と加入していく。平日月曜から金曜まで夕方5時からの一時間番組だった『夕やけニャンニャン』の番組コンセプトに“放課後”を置いていたため、現役の女子高生が中心に集められた。また、「どこにでもいそう」、「ちょっと気になる可愛い同級生」と、オールナイターズのコンセプトが踏襲されて、芸能界に染まっていない素人感覚のメンバーを集めたのだが、当初から芸能界志向のある者や、その関連オーディションの常連者、すでに芸能事務所に所属していた者や『オールナイトフジ』の出演者も参加していた。『夕やけニャンニャン』放送開始から3ヶ月後の7月5日にシングル「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビュー。たちまちヒットしていき、当初から評判があった番組とおニャン子クラブの人気はここでブレイクした。それを期に『夕やけニャンニャン』は番組開始当初は7局ネットだったのが年内には全国ネット規模の23局ネットまで拡大していく。また、おニャン子クラブは、フジテレビの他の番組である『夜のヒットスタジオDELUXE』や『スターどっきり㊙報告』、他局の人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)、『ザ・トップテン』(日本テレビ系)にも出演を果たして全国的な知名度も上がっていくようになる。1985年9月、「セーラー服を脱がさないで」のヒットで軌道に乗ったおニャン子クラブから、そのメンバーのひとりであった河合その子が「涙の茉莉花LOVE」でメンバー初のソロデビューを果たす。オリコン週間チャートで初登場5位、翌週には1位を獲得した。翌10月には、そのメンバーから高井麻巳子と岩井由紀子(ゆうゆ)のふたりで結成された初のグループ内ユニット、うしろゆびさされ組がフジテレビにおける新番組のアニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌「うしろゆびさされ組」でデビューして、こちらもまたヒットして『夕やけニャンニャン』発のおニャン子クラブ関連曲は成功を収め続けた。以降も、おニャン子クラブとしてのグループ名義、メンバーのソロ、グループ内ユニットのシングル曲を続々と繰り出していくことになる。おニャン子クラブは、テレビ番組での歌唱にとどまらず、10月に初の有料コンサートを開催。また、フジテレビの関連会社が運営する公式ファンクラブの「こニャン子クラブ」も発足して、当初から十万人単位の会員数が集まるなどして、たんなる番組企画的な存在からフジテレビにおける収益事業のひとつに向けて変換されていく。1月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった新田恵利が「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する。同月、フジテレビ単発ドラマ枠の「月曜ドラマランド」において、おニャン子クラブのメンバー初主演ドラマとなった福永恵規主演『ボクの婚約者』放送。以後、同枠では月に一、二本のペースでおニャン子クラブのメンバーを主演に置いたものが放送されるようになっていく。2月、おニャン子クラブ結成時からの人気メンバーであった国生さゆりが「バレンタイン・キッス」で満を持してデビュー。3月、「セーラー服を脱がさないで」のフロントボーカル4人のうちのひとりだった中島美春が専門学校に進学するため、河合その子がソロ活動に専念するためにおニャン子クラブを脱退する。それを受けて、『夕やけニャンニャン』の番組内と同時期に開催されたおニャン子クラブのコンサートツアー最終公演でふたりの“卒業式”が執り行われ、華々しく送り出されていく。これが慣例となり、以後おニャン子クラブから脱退していく主要メンバーに対して、番組内とその同時期にあるコンサートツアー最終公演で“卒業式”が行われるようになっていく。活動初期からの著名なメンバーが脱退していったものの、おニャン子クラブがブレイクした後に加入してきた渡辺美奈代が7月にレコードデビューし、渡辺満里奈も10月にレコードデビュー、他にも工藤静香、生稲晃子ら、おニャン子クラブの中期から後期の人気を支え、その後も芸能界に残っていくメンバーが続々と加入してくるなど、おニャン子クラブの面子は日々充実していった。セールス面においても、1986年のオリコンシングル1位獲得46曲中、おニャン子クラブ関係が30曲獲り、52週中の36週でそれを記録するなどして席捲する(を参照)。一方でこの時期、おニャン子クラブ関連が毎週2~3組もランキングしていたTBSの『ザ・ベストテン』に、フジテレビと『夕やけニャンニャン』側は「順位が低い」とランキングについて異議を唱える。このランキングの見解を巡ったことによる双方の溝は埋まらなかった。7月からフジテレビと『夕やけニャンニャン』側は、おニャン子クラブ、ソロ、グループ内ユニット、そしておニャン子クラブから脱退したOGも含めた全ての出演を『ザ・ベストテン』に対してボイコットしていく。これは翌1987年4月まで半年以上にわたって長引いていくことになってしまった。9月の番組内およびコンサートツアー最終公演で、新田恵利、福永恵規ら、結成時からのメンバーが卒業しておニャン子クラブを脱退。それと前後して、集英社刊行の女性ファッション誌『Seventeen』主催のオーディション「ミス・セブンティーン」とコラボレーションした「ザ・スカウト アイドルを探せ!」によって選ばれた貝瀬典子ら新世代のメンバーが大量に入ってくる。番組開始当初は毎日出演、この頃は週一でレギュラー出演していたとんねるずの石橋貴明は、新メンバーの顔と名前が一致しないと嘆くようになる。『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブは1986年前半から中盤に掛けては前年以上のブームを巻き起こしたのだが、後半である秋口あたりからブームの退潮が見られるようになっていく。まず、8月末に全国公開された主演映画『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』が興行的に失敗に終わる。そして、5月からゴールデンタイム帯で放送されていた『夕やけニャンニャン』の姉妹番組『夕食ニャンニャン』もわずか4ヶ月後の9月で終了し、本体の『夕やけニャンニャン』自体の視聴率もピークだった1986年初頭から下がり続けていった。3月の番組内および4月の春のコンサートツアー最終公演で、「セーラー服を脱がさないで」フロントボーカル4人のうち最後のひとりであった内海和子、初期メンバーであった国生さゆり、高井麻巳子らが脱退。5月、生稲晃子、工藤静香、斉藤満喜子の3人で結成されたうしろ髪ひかれ隊がシングル「時の河を越えて」でデビューする。ヒットしたものの、これがグループ内ユニットの最後のものとなり、翌6月15日に『夕やけニャンニャン』内で番組の終了とおニャン子クラブの解散を告知する。同時に、おニャン子クラブの新規メンバーを選ぶ番組内オーディション・コーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」も終了となる。8月21日、ラストシングル『ウェディングドレス』を発売。同月31日、『夕やけニャンニャン』が番組終了。翌月9月20日の代々木第一体育館におけるコンサートにて解散した。おニャン子クラブ活動中にレコードデビューしていた人を中心に芸能事務所に所属していたメンバーは解散以降も芸能界に残れたが、それ以外のメンバーのマネージメントはフジテレビ預かりであったため、活動続行不能となって同時に引退していった。ソロデビューしたものはその後歌手やタレント、女優として今日まで活躍する者もおり、1990年代に幾度か、「あの人は今」のような番組の企画で元メンバーを集め、ときには「セーラー服を脱がさないで」を歌唱させるなどもして“再結成”と謳われもしたが、あくまでもその場かぎりのものであった。2002年、初期メンバーのうち賛同者のみの14名によって一時的に再結成し、シングル「ショーミキゲン」をリリースした。リリース後にはイベントやテレビ出演なども果たし、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では、後期メンバーを含めて「ショーミキゲン」と「セーラー服を脱がさないで」を歌唱した。また2010年にはテレビCM上で11名のメンバーが再結成し、「セーラー服を脱がさないで」のサビを俳優・伊藤淳史とともに歌い踊り、アラフォーになったおニャン子クラブの姿を披露した。※活動期間中のみの出演作品詳細は各人の項を参照のこと。太字の14人は現在も芸能界で活躍している。2002年再結成時のメンバー(レコーディング参加メンバー)同年の『FNS歌謡祭』に出演した際には上記のメンバーに加え(白石除く)以下のメンバーも参加し話題になった。また、過去にも何度か番組の企画等でおニャン子クラブの何名かのメンバーが集まった事がある。おニャン子クラブおよびそのメンバーは(解散前もしくは卒業前・脱退前においては)、フジテレビ専属とされ、他局の番組や主催イベントに出ることは原則としてなかった。『ザ・ベストテン』(TBS)には彼女らの楽曲(卒業組含む)が1986年7月31日から1987年4月2日の間には多数チャートインし、1985年8月29日の初登場から1986年7月中旬までは出演していたものの、その後減少した。司会者は、おニャン子クラブの欠席理由に関して、1986年10月2日までは、「定期試験中」「コンサート中・レコーディング中」等の理由を述べていたが、1986年10月9日以降は「各方面の調整がいまだ取れず今回は欠席」という欠席理由を述べていた(うしろ髪ひかれ隊に関しては、番組出演が決まり、専用のセットまで組まれていたが、直前になり出演が取り止めになり、苦肉の策として、リハーサルで歌ったスタッフに歌わせている)。1987年3月に、河合その子、4月9日にゆうゆ with おニャン子クラブが第10位にランクインを機に出演拒否を解除したが、“おニャン子クラブ”としての出演は解除後も一度もなかった。ソロ出演かうしろ髪ひかれ隊のようなユニット出演のみしかなく、解除後にランクインされた曲では、「金輪際、出演する事はない」という理由で歌が披露される事はなかったなど、特に『ザ・ベストテン』との関係はおよそ良好とは言い難かった。この件に関しては、当時のプロデューサーが出した本では「おニャン子クラブの歌にランキングは付けられない」と言う理由だと説明していたが、一方で日本テレビの『歌のトップテン』には出演していたり、夕ニャン内でオリコンのコーナーを作り、おニャン子関係でランキングされるとそれを祝うという活動も行っていた。またそれ以外にも、当時発売されたおニャン子関連の書籍で、「『ザ・ベストテン』のランキングは、レコード売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオ放送のリクエストチャート、番組に寄せられたハガキのリクエスト等の総合ポイントにて順位付けがなされていたが、放送される週によってそれらの比重が変化し(例:レコード売り上げがランキングに最重視される週もあれば、ハガキのリクエスト、もしくは有線・ラジオのリクエストが最重視される週がある等)、順位付が公正になされていなかった為、出演を遠慮していた」との記述もあるが、真偽の程は定かでない。なお『ザ・ベストテン』におけるおニャン子関連での初の1位獲得は解散からちょうど1年後に工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」でようやく達成している。また、テレビ放送によって支えられていた知名度であったことから、メイン番組となる「夕やけニャンニャン」が地元県域局(テレビ長崎)で放送されていなかった長崎県においては、おニャン子の知名度はほとんど伸びなかった。1987年9月20日(日曜日)、国立代々木競技場第一体育館ではおニャン子クラブ解散コンサートが行われ、全国から3万人近いファンが集まった。また会場前の広場には チケットを手に入れられなかった数百人のファンが押し寄せ、その数は原宿駅に渡る歩道橋まで埋め尽くす程であった。そうしたファンは皆一丸となって会場から微かに聞こえてくる歌声を聞きながら声援を送っていた。しかし、最終公演のアンコールに差し掛かった時に一部のファンが暴走。「突っ込めー!!」の合図と共に親衛隊を中心とした数十人が入り口のガラスを折りたたみ椅子で割るなどして乱入、これにつられて他のファン数百人も「俺達だって中に入る権利があるんだ!」と叫びながら警備員の制止を振り切って一気になだれ込んだ(この一件は翌日のニュースやスポーツ新聞で大きくとり上げられている)。これ以後、毎年9月20日にファン有志が代々木競技場近くの代々木公園に集まって集会(解散コンサートのビデオ上映会)が行われている。2005年秋、サンセイアールアンドディからパチンコ台「CRおニャン子クラブ」がリリースされた。ザ・ベストテンのランキング発表のような反転フラップ表示的な演出が特徴である。もっとも、視覚的には番組と同じなのはロゴとキャラクターの振り付けのみで、会員の実名は一切使われておらず、アニメ絵のキャラの顔も、特に会員に似せてはいない。登場キャラクターは全員学生服を着ているが、実際の番組では制服のまま出演することは許されなかった。
出典:wikipedia
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