李 承燁(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )は、大韓民国の大邱広域市出身のプロ野球選手(内野手)。左投げ左打ち。韓国プロ野球の三星ライオンズに所属している。日本の球団(千葉ロッテマリーンズ・読売ジャイアンツ・オリックス・バファローズ)にも所属していた。韓国球界を代表する国民的打者であり、韓国メディアからは「野球に関しては神の域に到達した」などとすら言われることがある。韓国プロ野球において在籍9年間で通算324本塁打を記録し(韓国プロ野球で通算300本塁打以上は梁埈赫、張鍾勲、沈正洙を含む4人)、MVP5回・本塁打王5回・打点王4回を獲得。2004年から2011年まで、三星ライオンズ時代につけていた背番号36は同球団の永久欠番扱いだった。国際大会では約10年間に渡り、韓国代表の主軸打者として活躍した。韓国野球を世界屈指の強豪に押し上げた立役者とされ、その土壇場での一振りで試合を決める威力と勝負強さから、韓国マスコミからは「解決者」と表現されている。2012年から三星に復帰し、2013年、韓国プロ野球新記録となる通算352本塁打を達成した。愛称は韓国では「アジアの大砲」「国民的打者」「球帝」「ライオン・キング(人物の項参照)」「56発男」、日本プロ野球移籍以降は「スンちゃん」「スン様(ペ・ヨンジュンになぞらえて)」。「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承ヨプ(ヨプは火へんに華〈火華〉)」などと記載されることが多い。NHKでの中継では漢字表記でなく「イ・スンヨプ」とカタカナで表記されている(これは他の韓国籍選手も同様)。韓国・大邱広域市出身、1995年に慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、白仁天の勧めで打者に転向し、王貞治を真似た一本足打法にフォームを改造。に初の本塁打王、にシーズン54本塁打の韓国記録をマークし、日韓プロ野球スーパーゲームにも出場。また、シドニーオリンピック予選を兼ねたアジア野球選手権にも出場し、日本戦で本塁打を放った。この年から「ライオンキング」や「国民的打者」の愛称が定着し始めた。にはシドニーオリンピック野球韓国代表として出場。3位決定戦の対日本戦で松坂大輔から決勝タイムリーを放ち、五輪での韓国代表初のメダル獲得に貢献した。予選リーグの日本戦では松坂から本塁打を記録している。、6月22日の対SKワイバーンズ(大邱市民運動場野球場)戦において、8回裏に金圓衡から通算300号本塁打を放つ。26歳10か月での到達は日本プロ野球の王貞治(27歳3カ月)やMLBのアレックス・ロドリゲス(27歳8カ月)を抜く世界最年少記録とされる、なおこの試合では同点で迎えた9回裏二死満塁の場面に打席が回り、自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放っている。序盤から本塁打を量産し、56本塁打を放った。56本目の本塁打は「2億ウォンの価値がある」とされたほか、「(ファンが55号を虫取り網で取ったことから)本拠地の大邱市民運動場野球場では虫取り網が飛ぶように売れる」「李が敬遠されるとグラウンドにゴミが投げ入れられる」など熱狂が拡がった。しかし、55号を放ってから最終戦になるまで本塁打が出ず、李も「(56本は)難しいかもしれない」と弱音を吐いていたが、最終戦に56号本塁打を放った。このボールは満員のスタンドに入らず、当時設置されていたラッキーゾーンに落ち、そこで記念イベントの準備をしていた関係者に拾われて球団に寄贈された。アテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会では来日して日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表は台湾に敗れて予選敗退に終わっている。2003年にFA権を取得。メジャーリーグ志向を明らかにしていたため、韓国マスコミではメジャーに移籍すること自体は前提となっており、どこに入団するかが語られていたほどで、本人も「希望はDHのあるア・リーグ」「松井秀喜を2年以内にあらゆる面で越えてみせる」とインタビューで語り、さらにシーズン後の松井稼頭央とのテレビ対談などでも「私はすでにメジャー級」と自信のほどを語っていた。しかし、40人ロースターを確約することとなるメジャー契約を希望する球団が現れず、わずかにロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約を提示したに過ぎなかった。これは韓国球界そのものへの評価の低さや、56本塁打を放ったものの、李の所属していた三星の本拠地である大邱市民運動場野球場は、韓国でも指折りの狭さの上にラッキーゾーンも存在していたことなどから、個人記録に対する認識、メジャーリーグが外部に求める人材(一塁しか守れないため、起用法が限定される選手をリスクを犯してまで獲得しない)も影響していたと見られている。李は「最悪の場合は日本で1年間プレーすることを考えている」とメジャー球団から好条件のオファーがない場合でもメジャーを目指すため、韓国を離れて日本移籍も示唆。結局、アメリカ移籍を断念し、日本の千葉ロッテマリーンズと契約した。背番号は36。李はロッテの入団会見で日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件でメジャーリーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」と語った。大きな弧を描く本塁打を放つ技術を持つ他、ライト方向、レフト方向へと広角に打球を打ち分ける技術を持ち味とする。中軸打者としては四球が少なく三振が多い。敬遠を受けることも少なく、巨人時代には小笠原道大やアレックス・ラミレスら前打者を敬遠され、李との勝負を選ばれることもあった。だが、2014年シーズン終了時点で韓国では本塁打王を5回取ったことがあり、韓国・日本プロ野球通算で549本の本塁打を放っている。落ちる変化球、特にフォークボールに弱く、オリックス所属時代の2011年に中央日報に「フォークボール恐怖症」「フォークボールはつり球で、待てばほとんどボールになる。しかし李承ヨプは気が短いためか悪い球に手を出している。スイングを修正しなければ1軍に復帰しても難しい」と報じられた。2005年まで左投手を苦手としていたが、2006年に対左打率.338を記録して以降は対右打率.280に対して対左打率.285と左右の違いを苦にしなくなった。コース別では外角を得意とするが、内角と落ちる球に弱く、不調の時にはストライク判定される球すら腰を引いて逃げてしまうことも多い。一塁到達まで4.51秒と走塁能力は高くはないが、併殺打は少なく、不振時にはセーフティバントも試みる。一塁守備ではセ・リーグの一塁手での連続無失策記録1225を保持しているなど失策は少ない。巨人時代の同僚の阿部慎之助は、守備、特にショートバウンドの捕球について「メジャーも含めて世界一じゃないかな?」と答えている。韓国時代から外野守備の経験はなかった(学生時代は投手、プロ入り後はファースト)が、ロッテ時代には左翼も守った。飄々としており、感情をあまり表に出さない選手であり、また、ベンチで手を組み祈る姿勢を度々見せることもあった。韓国プロ野球在籍時代のニックネームは当時の所属チームが三星ライオンズのため、映画『ライオン・キング』にちなんで「ライオンキング」。韓国のスポーツ紙の一つである「スポーツソウル」は、勝手に「スナイパー」という別名をつけて、それを推そうと事あるたびに「スナイパー」を強調したが、他紙ではあまり使用されなかった。カツ丼が好物で、来日当初はよく食べていた。肉類が好きなため、韓国では「肉王」という渾名で呼ばれたこともあった。非常に日本語に堪能で、流暢に話す事ができ、リスニングもほぼ完璧である。北京五輪の日本戦での勝利インタビューでも、日本のメディアに対しては日本語で答えていた。試合中はベンチで他の選手と談笑している事も多く、ズームイン!!サタデー(ズムサタ)のコーナー「プロ野球熱ケツ情報」やビールかけでのインタビューの際にも披露しているが、メディアやヒーローインタビュー等の正式な場を設けたインタビューの際は韓国語のみを使う。公の場で韓国語のみを使用する理由は「外国人選手は通訳を介してコメントする事」という球団の方針も関わっていると思われる。巨人に移籍後、打席に入る際のBGMは2008年まではジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I Love Rock n'Roll』を使用していたが、2009年はユン・ドヒョンの『ママの歌』になっている。オリックスではDrunken Tigerの『Monster』を使用していた。慶北高校時代、韓国の4大高校野球全国大会の一つである「青龍旗大会」で優勝投手になっている。投打両方で才能を見せたため、その後プロ入りして投手として育てようとする投手コーチと打者として育てようとする打撃コーチの間で口論を呼んだ。しかし、当時監督だった白仁天は彼の打者としての才能が投手としての才能を上回ると見込んで、打者の道を進むことを勧告。その後、打者に専念させられ、ホームラン打者としての才能を開花させた過程は、奇しくも憧れだった王貞治と同じである。国際試合の際に王貞治と撮ってもらったツーショットの写真を自宅に飾っている。2007年から代表チームでの背番号を25に変更した。三星時代の親しい後輩である裵英洙の背番号で(WBCで25番を付けたのも彼と背番号を交換したため。裵はこの大会で李の背番号だった36をつけていた)、25番は選手として目標としている選手の1人であるバリー・ボンズの番号でもある。韓国時代に36番をつけたのは、打者に定着する時、それまで韓国プロ野球で個人通算および年間最多本塁打を記録していた張鍾勲を超えろという意味で、彼の背番号である35より一つ大きい36を与えられたからである。高校時代の背番号は27であった。リュ・シウォンと交流があり、これが縁で2007年の東京ドーム開幕戦でリュ・シウォンは始球式を務めた。2016年2月下旬より、三星ライオンズの本拠地である大邱三星ライオンズパークの最寄駅・大公園駅に大邱都市鉄道公社2号線の電車が到着する際の案内放送を担当している。
出典:wikipedia
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