大分市(おおいたし)は、日本の九州地方の東部、大分県の中部に位置する市。同県の県庁所在地であり、中核市に指定されている。人口は、東九州で鹿児島市に次ぐ2位で、九州内では福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次ぐ第5位の都市である。大分市は、大分県沿海部のほぼ中央に位置する、東九州の主要都市のひとつである。約48万人の人口を擁し、中核市の指定を受けている。大分県内の人口の約40%が集中する首位都市であり、人口約70万人の大分都市圏の中心でもある。現在の市域は、かつて大分郡及び北海部郡(明治初期までは海部郡)に属していた。古くは豊後国の国府が置かれ、府内(ふない)と呼ばれた。中世には大友氏の城下町として発展し、戦国時代にはキリシタン大名大友宗麟の庇護のもと、日本におけるキリスト教布教の中心地となり、南蛮文化が花開いた。高度経済成長期に鉄鋼業、化学工業などの重化学工業の進出に伴い工業都市として急成長し、近年では電子工業の立地が進んでいる。大分川及び大野川が形成した三角州及び沖積平野からなる大分平野と、その周りの丘陵とを抱え、瀬戸内海の別府湾に面する。市の東部には南から大野川が、西部には西から大分川が流れ、瀬戸内海に注いでいる。中心市街は、大分川の河口部西側にある。ニホンザルが生息することで知られる別府市との境界付近の高崎山地区、及び、豊予海峡に浮かぶ高島地区は、瀬戸内海国立公園に指定されている。近年、市域を東西に貫通する形で大分自動車道、東九州自動車道が開通し、国道10号、国道210号等と接続している。市内の郊外地域ではショッピングセンターやニュータウンなどの開発により、人口の増加が著しい。瀬戸内海式気候に属し、年間を通じて温暖、少雨である。平均気温は16.4℃、降水量1644.6mm(平年値)。ただし、旧大分郡野津原町地域は障子岳、御座ヶ岳等の600〜800m級の山々が連なり、内陸部への入り口に当たるため内陸性気候に属し、平地より気温が若干低くなる。大分市の地名を参照のこと。古代には、現在の大分市周辺は大分郡(おほきたのこほり)と呼ばれ、現在の市の中心部からやや南に外れた大分川下流沿い(現在の古国府)に、豊後国の国府が置かれたと推測されている。「大分」の名は、『豊後国風土記』によれば、景行天皇がこの地を訪れた際に「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきたのくに)と名づくべし」と言って名づけたもので、「碩田」が後に「大分」と書かれるようになったとされる。実際には大分平野はさほど広大であるとは言えないため、今日では、景行天皇の言葉は、平野の広大さではなく、多くの田が並ぶ様子を描写したものと解されているが、いずれにしても大分平野に古くから田圃が開けていたことを示すものと言える。鎌倉時代には大友氏が豊後国守護に任じられ、第3代当主大友頼康(貞応元年(1222年) - 正安2年(1300年))の時代に豊後国に下向して土着した。元弘3年(1333年)には豊後国の守護職に任ぜられている。室町時代に入ると、第7代当主大友氏泰は、拠城をわずかに北にずらして大分川河口付近に館を構えた(現在の市の中心部の東部で、顕徳町にあたる)。これが現在の大分市に連なる城下町のはじまりで、町の名を府内といった。現在の大分市街地中心部に残る「府内町」という地名や「府内5番街」という商店街はこの名残である。戦国時代の府内は、最盛期には九州の過半を手中に収めた第21代当主大友義鎮(宗麟)のもとで、日本で初めての西洋式の病院が開設されるなど、南蛮文化を受容し栄えた。しかし、大友氏は島津氏等との抗争に敗れて衰退し、府内は1586年(天正14年)の島津家久の侵攻によって炎上し壊滅したとされる。近年、大分駅付近の連続立体交差事業および区画整理事業に伴い、大友氏館跡をはじめとする中世から戦国時代にかけての府内の遺跡が発掘され、2001年(平成13年)には大友氏館跡として国の史跡に指定されている。宗麟の跡を継いだ大友義統が文禄の役での失態のために改易された後、豊後国は細分され諸侯に封じられた。1597年(慶長2年)に府内を封じられた福原直高は府内城の築城を開始した。1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの戦功により府内藩(大分藩)の藩祖となった竹中重利によって府内城(大分城)は大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に近世の大名の居城である府内城(大分城)の規模となった。大分の城下町もまた重利によって整備され、後の繁栄の基となった。江戸時代の府内は、1712年(正徳2年)の調査によると5,591人の人口を擁しており、豊後最大級の城下町であった。明治になると、府内には大分県の県庁が置かれ、1889年(明治22年)の町村制施行により大分町となった。明治の大合併と呼ばれる市町村合併が進む中、1907年(明治40年)に3町村を編入。1911年(明治44年)には市制を施行した。1920年(大正9年)の人口は、4万3,150人であった。全国の都市の中でも、大分市はここ40年の間に急激に成長した都市のひとつである。1950年代には大分市の人口は10万人弱で、宮崎市よりもわずかに少なく、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで2番目に小さな県庁所在地であった。1960年代に入ると、高度経済成長の恩恵を受けるべく、工業振興による発展を図って新産業都市指定を目指した。人口要件を満たすために1963年(昭和38年)に鶴崎市や大南町などとの大合併に踏みきり、1964年(昭和39年)1月に新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出した。それまでの鄙びた小都市から九州を代表する工業都市へと急速に開発が進み、大分市は「新産都の優等生」と呼ばれた。人口も1960年代以降急激に増加し、1963年(昭和38年)の合併時には21万人であった人口が、1970年(昭和45年)には26万人、1980年代には36万人、1990年代には40万人を突破し、ほぼ倍増するという著しい増加を見せた。周辺部の丘陵地帯には次々に大規模な住宅団地が造成され、城南団地、明野団地、敷戸団地などのニュータウンがスプロール化して連なる特異な郊外環境が誕生した。また、新産業都市としての発展にともない、1970年代には長崎屋、ダイエー、ニチイ、ジャスコ、西友など関東・関西資本の大型スーパーが大分駅前に多数進出し、地場百貨店のトキハなどとともに九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前繁華街が形成された。その後、商業のドーナツ化が進み、2009年までに中心部の大型スーパーはすべてが業態転換または撤退した。一方、2015年(平成27年)春には大分駅にアミュプラザおおいたが開業している。1997年(平成9年)4月1日には、中核市に指定されている。平成の大合併では、2005年(平成17年)1月1日、佐賀関町及び野津原町が大分市に編入された。2014年8月現在、大分市は、福岡市、北九州市、熊本市、鹿児島市に次いで九州で5番目に人口が多い市である。1964年(昭和39年)に新産業都市の指定を受け、鉄鋼、化学、石油等基礎素材産業が進出したことにより、大分・鶴崎工業地帯を中核に工業都市へと発展した。近年では、集積回路等の加工組立産業が進出するとともに、物流団地の整備、地域輸入促進計画のもと大分港大在コンテナターミナルが設置され、物流の拠点としても成長を続けている。また、メガソーラーの進出が進んでおり、2014年(平成26年)4月末時点の太陽光発電の発電容量は130,288kWで全国の市町村で第1位となっている。九州では珍しい駅前型の繁華街が大分駅北側に広がっており、大型店のほか、アーケード商店街のセントポルタ中央町及びガレリア竹町が位置している。近年、中心部の大型小売店舗が閉鎖する一方、郊外でショッピングモールが開発されている。姉妹都市・友好都市・交流促進都市は以下の通り。県内人口占有率は2005年国勢調査で38.22%、2010年調査で39.62%、2012年2月1日付の大分県の人口推計で40%を突破するなど、顕著に集積が進んでいる。学校名等は基本的に五十音順で記載している。国立公立国立県立市立私立県立私立国立公立私立国公立大学私立大学国立公立公共職業能力開発施設社会教育施設最寄の空港は大分県国東市にある大分空港。なお、1900年には路面電車の豊州電気鉄道が、別府市との間に市電を開業、後に大分交通別大線となり1972年まで運行していた。その他の主要地方道及び一般県道については、大分県の県道一覧参照。
出典:wikipedia
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