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擬洋風建築

擬洋風建築(ぎようふうけんちく)とは、明治時代初期の日本において、主に近世以来の技術を身につけた大工棟梁によって設計・施工された建築である。西洋建築に由来する形を持ちながら、洋風、和風、時には中国風の要素が混合され、ある種の熱を帯びたような建築群が日本各地に建てられた。明治の開始と共に生まれた擬洋風建築は、明治10年前後にピークを迎え、明治20年以降に消えており、その時期は文明開化と重なっている。明治維新以降、ホテル・洋式工場・小学校・役所・病院など新しい機能を持った施設が、はじめは大都市にやがて全国に求められるようになっていく。西洋的な機能を持ち堅牢性を求められたこれらの施設は、洋式建築として建てられる必要があった。迎賓館や造幣局など主要な施設はお雇い外国人の手によって設計・監理されたが、その他の官庁舎や地方の施設は地域の大工の手にゆだねられた。しかし、木造建築の伝統に育まれた日本の大工にとって、石に由来する洋式建築は未知の存在である。建築様式はおろかその用途すら分からない状況の中で、伝統技術を身につけた大工たちは、伝統の側から洋式建築を解釈し、見よう見まねで洋式建築を建設する。錦絵や建物の見聞を通じて得た情報をもとに建てられた擬洋風建築は、その時たまたま出会った建物をベースに自由な折衷や創造が加わり、塔屋や車寄せなど大まかな形は共通しながらも一つ一つの建物で異なるデザインが生まれた。横浜の洋式建築を参考に東京で生まれた擬洋風建築は、多数の錦絵に描かれ民衆の反響を呼ぶ。一方、山梨や山形といった旧政治体制の影響力が強い地域では、土木県令と呼ばれる敏腕指導者が政府によって送り込まれ、殖産興業政策と平行して擬洋風建築による官庁街が新たに建設された。また、廃仏毀釈によって解体された寺の跡地には小学校が建てられている。擬洋風建築は、文明開化のシンボルであると共に支配体制の移行を象徴するモニュメントでもあった。開国にともない設置された外国人居留地には、洋式建築が立ち並んでいた。いずれの居留地も周囲にベランダを回したコロニアルスタイルで占められていたが、横浜だけは社寺風の屋根を載せたフランス海軍病院(1865年)やフランス軍駐屯所(1864年頃)など、和洋折衷の建物が建てられていた。こうした傾向は、同じくフランスの影響下にあった1860年代のベトナムにおいても見られることから、フランス側のオリエンタリズムへの応答だとみられている。だが、1866年の豚屋火事によってこれらの建物は焼失し、居留地の都市的整備の進展や外国人建築家の登場によって、本格的な様式をまとった西洋建築に取って代わられていった。1867年に開港した神戸では当初から本格的な洋式建築が建てられ、横浜と同時に開港した函館も開拓使がアメリカ系の技術を採用したことで洋風化傾向が強まっていく。しかし、横浜だけは木骨石造に代わる簡便な耐火被覆としてなまこ壁が残り、イギリス仮公使館(1867年)などに用いられた。開港と同時に横浜に店を開いた大工・初代清水喜助の跡を継ぎ、幕府公認の4人の請負人の一人に選ばれた2代目清水喜助は、横浜の居留地でアメリカ人建築技師リチャード・ブリジェンスのもと、イギリス仮公使館の施工を受け持つ。洋式建築の経験を積んだ清水喜助は、東京に築地ホテル館(1868年)と海運橋三井組(1872年)の2大洋風建築を建てた。築地ホテル館は、旧幕府時代に計画された外国人向けホテルで基本設計をブリジェンスが担当した。全面になまこ壁を張り巡らし、中央に逓減を持たせた三重の塔を据えている。塔屋には華頭窓があけられ、軒先には風鐸をつるし、石造アーチの表門には木鼻がとりついている。なまこ壁はブリジェンスの基本設計にあったものだが、細部の和風意匠は清水喜助による。海運橋三井組は、三井組が新たに創設した銀行のための建物である。木骨石造にベランダのついた洋風2階建ての軀体に、複雑に折り重ねられた屋根が乗っている。屋根には唐破風・千鳥破風を取り付け、方形・八角形の塔を重ねている。さらにその両側には小塔まで置かれている。初期の案では普通の屋根のオーソドックスな洋風建築だったが、三井組の希望でこのような無国籍なデザインになった。擬洋風建築の始点となったこの二つの建物は、たちまち東京の新名所となり、多数の錦絵に描かれ日本中に広まった。地方から見物に来た人々の中には、柏手を打ったり賽銭を上げる人もいたという。清水喜助はさらに、第一国立銀行に強制的に譲渡させられた海運橋三井組の代わりとなる駿河町三井組(1874年)も建設した。海運橋三井組と違い端正な洋風建築だが、屋上には鯱が鎮座しており、こちらも錦絵の題材になっている。横浜由来の洋風建築を持ち出した大工には、清水喜助のほかに林忠恕がいた。鍛冶、木挽きを経て大工に転身した林忠恕は、横浜でブリジェンスに師事しイギリス仮公使館の工事に参加している。その後、お雇い外国人のトーマス・ウォートルスが率いる大蔵省営繕寮に雇われ、日本人技術者の筆頭となる。ウォートルスが煉瓦や石の本格的な建築を手がける一方、林忠恕は大蔵省(1874年)、内務省(1874年)、神戸東税関役所(1873年)、駅逓寮(1874年)、大審院(1877年)といった木造官庁舎を手がけている。建物の内容を見ると、ブリジェンスや清水喜助のような木骨石造ではなく、普通の壁には漆喰を塗りアーチやコーナーストーンにのみ石を貼る木骨石造の省略形となっている。建物の姿も、日本屋根が乗ったり塔が付いたりせず単調な四角形の内に納まり、唯一ペディメントと列柱のついた大ぶりな車寄せが張り出している。こうした構成にはパラディアニズムを好んだウォートルスの影響が見られる。擬洋風の建築表現としてはおとなしいが、中央官庁の建築ということで地方への影響力は強く、車寄せだけを強調したパラディアニズム崩しの構成は地方官庁の定型として広まっていった。学制発布を境に、小学校だけでなく郡役所、県庁、警察署といった地方の公共建築も洋風化を求められるようになる。各地の棟梁は東京、横浜、長崎などで擬洋風やベランダコロニアルの洋式建築を見聞し、国許に小学校や役所を建てた。木骨石造系の擬洋風から一歩進んだこれら木造漆喰仕上げの擬洋風は、中部地方の長野、山梨、静岡の三県で最もよく盛り上がった。中でも特に盛り上がったのは山梨で、県令藤村紫朗のもと藤村式建築と呼ばれる一連の擬洋風建築が建てられた。藤村紫朗は山梨赴任前に、小学校発祥の地である京都を経て、大阪で擬洋風の小学校建設を推進した人物で、琢美学校(1874年)と梁木学校(1874年)を皮切りに多数の擬洋風建築を建設している。立方体の主体部に太鼓楼を載せた形式を持つ小学校は他の地域ではあまり見られないが、琢美学校とほぼ同時期に大阪の東大組第十九区小学校(1973年)や滋賀県長浜の開知学校(1874年)が建てられていることから、この形式の発信源は大阪にあるとみられる。山梨に続いて、静岡には見付学校(1875年)や坊中学校(1875年)、西之島学校(1875年)が、長野には中込学校(1875年)や開智学校(1876年)が建てられた。開智学校は設計に当たって東京や山梨の擬洋風が参考にされており、後を追って造られた諏訪盆地の高島学校(1879年)、山一つこえた格致学校(1878年)、隣村の山辺学校(1885年)などに影響を与えている。このように先進地に建てられた小学校は周囲の地域に影響を与え、木造漆喰系の擬洋風は全国に広まった。漆喰系の擬洋風がピークを迎える頃、下見板にペンキを塗って仕上げる擬洋風が登場し、擬洋風の晩期に広まった。下見板系の擬洋風は山形と東京から始まるが、質と量から影響力は山形の方が大きいと考えられる。山形では朝暘学校(1876年)を皮切りに、県庁舎(1877年)、師範学校(1878年)、済生館(1879年)といった大作や、郡部に西田川郡役所(1881年)、鶴岡警察署(1884年)などが建てられた。建設ラッシュは1876年から1881年まで5年間続き、造られた建物は主なものだけでも28件におよぶ。札幌と鶴岡の間で技術交流があった山形では、開拓使から下見板の洋風建築が伝わりこうした擬洋風建築が建てられた。建設を主導した県令三島通庸は、転任先においても福島の伊達郡役所(1883年)や南会津郡役所(1885年)、栃木の県庁舎など下見板の擬洋風建築を建て続けた。東京では、工部省(1874年)が下見板の擬洋風の第一号だがそのしばらく後続がなく、1877年(明治10年)になってから学習院(1877年)、駒場農学校(1877年)、一ツ橋講堂(1877年)、元老院(1878年)などが建てられた。これらは大蔵省営繕寮によるもので、木骨石造系を建てていた中央官庁の技術陣は明治10年に入ると下見板系に転じている。伝統の木造技法でたやすく作ることができ日本の風雪にも強い下見板の擬洋風は、明治10年代を通じて東北三県と東京に根付いた後、明治20年代に入って日本列島全域に広まったと考えられている。写真館や医院など全国に残る下見板の簡便な西洋館は、この下見板の擬洋風の末裔にあたる。オリジナリティの高い建築が作られていた擬洋風建築であるが、明治10年代後半になるとどこか似通った形をとるようになってくる。塔屋が設けられなくなり、寄棟造二階建の棟の中央に三角ペディメントを戴く二層車寄せを設ける形式が一般化していく。本庄警察署(1883年)、氷上郡各町村組合立高等小学校(1884年)、宇和島警察署(1884年)など、地域的な偏りがなく同時期にこうした形式の建築が建てられた。情報不足故に多様性を生んでいた擬洋風のデザインは、時間の経過と共に情報が増加し定型化されていく。また、官庁舎の建築形式が標準設計化していったことも、定型化を促す要因となった。1877年から1881年の間、府県庁舎建設費が国費支弁になり、新築に際して国の審査が厳しく行われるようになった。結果として内務省庁舎の形式がほとんど唯一の選択肢となり、形式が平準化していく。1881年7月に工費が地方負担に変更されるが、この頃になると官庁舎の設計に建築家が関与するようになり、擬洋風の時代は終焉に向かっていた。小学校建築も、1877年前後から各県において学校建築法が制定され、学校建築に計画概念が導入されはじめる。1890年には小学校設備準則、1895年には学校建築図説明及設計大要が制定され、それまで各府県において指導されていた学校建築が政府によって一元的に指導されるようになった。その結果、小学校の平面は片廊下の棟を数棟並べた形式に収斂していく。また、和風校舎と比べ工費や修繕費が高く付くことから擬洋風校舎の建設が避けられるようになる。こうして、日本の小学校建築からデザイン意識そのものが急速に失われていった。さらに、1887年(明治20年)頃から擬洋風建築には種々の改造が施されるようになる。南方起源で日本の気候に合わないベランダは建具をはめられ室内化し、軒が浅いために剥離しやすい漆喰壁は下見板で覆われた。擬洋風の最大の特徴である塔屋や車寄せも、より本格的な西洋建築に近づけるため撤去あるいは改変されていった。擬洋風建築は当時、「西洋造」や「洋風家造」、「西洋型家屋ニ模」したもの、「洋風模造」などと呼ばれていた。同時代から「模造」だと認識されていたが、これは本来石造・煉瓦造で造られるべきものを木造で代用したもの、つまり様式上の模造ではなく構造上の模造として認識されていた。明治10年代後半以降、工部大学校を卒業した日本人建築家たちが活動を開始すると、西洋建築を直写した建築が建てられた。諸外国との不平等条約を解消したい明治政府にとって、近代化とは性急な西洋化に他ならなかった。こうした趨勢の中、明治初期の擬洋風建築は様式的正確さを欠いた恥ずかしいものとして断罪される。批判の中で擬洋風建築はまとまりのあるものとして認識されるようになり、模造の対象も構造から様式に読み替えられた。大正期になると、明治期の洋風建築を再評価する動きが活発に見られるようになる。建築家たちが自己の表現を強く意識しはじめたこの時期、擬洋風建築も独創性の発露として高く評価された。戦後、擬洋風建築には「見よう見まね」という評価が決まり文句のように結びつけられるようになる。1950年代後半から始まる明治建築の本格的な研究においても、コロニアルスタイルの稚拙な模倣として位置づけられていた。1960年代から擬洋風建築が文化財指定されるようになるが、様式よりも近代化に貢献する文化的意義がその評価の中心に据えられていた。1970年代になると、西洋の模倣にとどまらない独創性に富んだ建築という積極的な評価が復活する。これ以降の専門家たちは「擬洋風」の語が、ニセモノとしてのニュアンスを感じさせることを嫌い、別の語に置き換える提案をしている。黒田朋信が、1915年の写真集『東京百建築』において内務省庁舎に「擬様式」という様式名を与えており、これが様式としての擬洋風建築を指した最初の使用例である。その後、大正期以降の明治洋風建築の再評価において基礎的な資料収集を行った堀越三郎が、「洋風模倣建築六十年記」(『建築と社会』1930年6月)や「明治時計台記(Ⅶ)」(『日本建築史』1931年5月)の中で、建築家の設計した建築と対比する語として「擬洋風」という語を用いている。この言葉は、戦後にも継承される。関野克によって執筆された、初の日本近代建築の通史「明治、大正、昭和の建築」(『世界美術全集』第25巻、1951年)や、阿部公正の「明治の建築」(『明治文化史』第8巻、1956年)で、林忠恕に代表される日本人技師の手になる建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。2003年の時点で現存する主要な擬洋風建築の一覧。文化財指定の凡例19世紀後半、ヨーロッパ諸国は東アジアへと進出し、各地に居留地が置かれた。しかし、1843年開港直後の上海においては中国風の入母屋屋根をかけた江海関などの擬洋風的な建築が建てられていたにもかかわらず、19世紀中の中国・朝鮮半島では建築の擬洋風化は見られない。20世紀初頭に入ってから、中国では中華バロックと呼ばれる一群の擬洋風的な建築が建れられ、韓国においても徳寿宮の中にベランダコロニアルの洋風建築が建てられた。これは、日本と異なり中国・朝鮮半島にはすでに石造建築や椅子座が存在しており、西洋建築を受け入れる素養があったためと考えられる。

出典:wikipedia

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