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徳大寺有恒

徳大寺 有恒(とくだいじ ありつね、下はゆうこうとも読む)、1939年(昭和14年)11月14日 - 2014年(平成26年)11月7日)は、日本の自動車評論家。元・レーシングドライバー。本名・旧ペンネーム:杉江 博愛(すぎえ ひろよし)。名前は「できるだけ偉そうにしよう」と決定したペンネームであり、公家・徳大寺家と姻戚関係はない。「間違いだらけのクルマ選び」を出版する前は、本名・杉江 博愛(すぎえ ひろよし)として活動していた。なお、徳大寺がわせだ書房の編集者だった頃に名刺を渡した豊田有恒は「有恒という名前が記憶に残っていたため、ペンネームに採用したのかもしれない」と述べている。日本を代表するクルマの第一人者的評論家として高い評価と知名度を得ていた。他の評論家と比べると、車の乗り方から、男の生き方、経済批評まで間口を広げているのも特徴であった。「NAVI」(二玄社)や「ベストカー」(三推社)、「ENGINE」(新潮社)などの自動車専門誌や「MEN'S EX」(世界文化社)などの男性ファッション誌、テレビ、新聞、各種講演などを中心に幅広いジャンルで活躍していた。カーグラフィック(二玄社)創刊編集長の小林彰太郎や、岡崎宏司、27年間続いたTV番組新車情報の司会を務めた三本和彦などともに日本を代表する自動車評論家の一人であった。かつては日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)の選考委員を務めていたが、COTYの運営方針やメーカーの接待攻勢等に疑問を持つようになり、1990年代前半に退任した。カーメーカー・ブランドなど外国語の日本語表記について、原語に近い発音に拘ることで知られていた。杉江の父親は栃木県の農家の出身で、足利市で運輸業を営んでいた。後に東京に移り自動車販売やタクシー会社を経営していた1939年(昭和14年)、杉江が誕生した。第二次世界大戦に伴い一家は茨城県水戸市に疎開、そのまま定住する。杉江は茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校を経て成城大学経済学部に進学した。大学卒業後、1960年代初頭の日本のモータースポーツの黎明期にトヨタ自動車のワークス・チームの専属レーシングドライバーとして契約。同じトヨタチームの式場壮吉や浮谷東次郎や福澤幸雄、プリンスチームの生沢徹などとは、古くからの友人。ホンダの創設者本田宗一郎の息子で、エンジンチューンやアフターマーケットパーツ製造販売で知られる「無限」(現M-TEC)の創設者である本田博俊とも親交が深かった。しかし、レーサー時代は長続きせず、成績不振から引退を余儀なくされてしまう。レース界を引退後には自動車用品会社「レーシングメイト」を東京都文京区に設立、一時は従業員40名を擁し、連夜銀座で豪遊できる繁盛ぶりだったという。しかしながら1969年(昭和44年)、同社は倒産。その後は、タクシー運転手などで生計を立てた後、フリーランスとして文筆業を開始した。ファッション雑誌「チェックメイト」(講談社)のライターを経て自動車評論家に転身、1976年(昭和51年)「徳大寺有恒」の筆名で自動車批評本『間違いだらけのクルマ選び - 良いクルマを買うための57章+全車種徹底批評』(草思社)を出版した。一冊目(1976年(昭和51年)版)には老舗誌「モーターマガジン」のテスターとして「杉江博愛」の名も登場。さりげなく同誌やテスター陣を褒めるかのような表現がなされている。一方で、匿名を用いて本を出版したことに対し、当時の自動車業界からの反発は大きかった。「徳大寺有恒」という人物が誰なのかは当初秘密で、各方面でその正体が話題になっており、名前が似ていることから豊田有恒の変名と疑われたこともあったが、文体や諸事情から「杉江博愛だろう」と囁かれていた。そして、「この杉江をAJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)から追放しよう」という声があがった。杉江はAJAJを脱退。記者会見を開き、自身が「徳大寺有恒」であることを公にした。急激なモータリゼーションを経て大型消費財へと変貌していた当時の自動車を批判的に評論した『間違いだらけのクルマ選び』は1976年(昭和51年)に77万部が販売され、「間違いだらけの○○」というフレーズは自動車の世界に留まらない流行語となった。その後も毎年版を重ね、毎年ベストセラーの上位にランクインした。イラストは創刊から穂積和夫が担当。内容はユーザー側の視点で評論することを基本としていたが、日本の自動車メーカーに対してアドバイスするような内容が多くみられた。車種別のタイトルは筆者ではなく編集部が付けたものである。そのため、ときとして筆者の本意とは違う印象を与えることがあった。巻末にはジャンル別に採点表が掲載され、これは筆者の主観に基づいた内容であるとの断りを入れている。5点満点評価や0.5点刻みによる10点満点評価の時代もあった。全メーカー全車種を掲載することを原則としていたが、運転席が最前部にある商用車ベースのワンボックスカーは、衝突安全をクリアすることが困難なため「危険な車種である」として1980年代後半以降は載せないようにしていた。また、商用車そのものを登場させることも皆無なため実際に売れていた軽ボンネットバンは出さずクオーレやセルボといった軽セダンを掲載させていたが、2012年版では特別にサンバーバンの説明が掲載された。末期は年2回刊行となり、その多忙さゆえ、一部の車種しか載せないようになっていた。筆者の急病のため2005年(平成17年)夏版は休刊となり、2006年(平成18年)1月にそれまでの総集編である最終版を出版。30年間の歴史にピリオドを打つ。一度は『間違いだらけのクルマ選び』の執筆を止めたものの、2011年(平成23年)に復刊を果たした。『ベストカー』、『NAVI』、『ENGINE』などに定期、もしくは不定期の連載を行う傍ら、年に数冊のペースで自動車批評本も発刊していた。2014年11月7日、急性硬膜下血腫のため死去。74歳没。自動車評論家という職業柄、膨大な台数の車を購入しては手放した。外国車を中心に常時5~6台を所有していた。小型スポーツ車から大型セダンまで旧い英国車が好みで、1990年代にはDaimler double sixを始め、Jaguer Mk-ⅡやBentley、Aston Martin DBなど、旧車を中心に数台を所有した。最近ではロンドン郊外の旧車専門店の話や、1950年代のアルヴィスやMG、トライアンフなどに言及した。SUVではミドルサイズのダッジダコタを導入したり、またドイツ車はメルツェデスのSLなどを所有したりと嗜好の幅が広く、多くの読者を生んでいる。フランス車では特にシトロエンを好み、最近の愛車はシトロエン・DS3であった。かつて、夫人の足代わりに軽自動車(数台乗り継がれている)のスズキ・ワゴンRを購入した過去もあるが、最近はミニであった。自動車以外の嗜好は喫煙で、特に葉巻を好み、酒好きでもある。「助手席には女性以外は乗せない」ことを信条とし、ファッションなどでも英国風のダンディズムを標榜していた。重度の糖尿病に罹患していた。これは著書などで自ら述べている。

出典:wikipedia

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