反射炉(はんしゃろ、英語:Reverberatory furnace)とは、金属融解炉の一種である。18世紀から19世紀にかけて鉄の精錬に使われた。20世紀以降も、鉄以外の金属の精錬には使われている。熱を発生させる燃焼室と精錬を行う炉床が別室になっているのが特徴。燃焼室で発生した熱(熱線と燃焼ガス)を天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させる。炉床で金属(鉄)の精錬を行う。鉄鋼の精錬では転炉など他の方式に取って代わられ使われることはなくなったが、現在でも銅製錬、再生アルミニウムの融解炉として使われている。最初の反射炉は中世の時代にあったと思われる。鐘を鋳込むために青銅の溶解に使用された。17世紀末に初めて金属の製錬に適用された。クレメント・クラーク准男爵()と彼の息子タルボット()は1678年、ブリストルのエイボン川の畔にキューポラ(cupolas、つまりは反射炉)を建てた。1687年までは鉛の精錬に用いていたが、臭うので(訴訟になり)銅の精錬用に変えた。反射炉は次の十年の間に錫等の幅広い金属の精錬に用いられるようになった。旧来の精錬方法に比べて褐炭や木炭ではなく石炭を燃料として使用できるという優位性があった。1690年代に入ると反射炉は工業用の銑鉄の溶融に用いられるようになった。各地に建造されたが、18世紀末には小さな高炉のようで反射炉とは起源の異なる工業用のキューポラの導入に伴い、時代遅れになった。攪拌精錬は反射炉の一種でヘンリー・コート()によって1780年代に導入され、旧来の塊鉄炉()を置き換えた。江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになった。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の融解炉が求められることとなった。外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正などが、オランダの技術書(『鉄熕鋳鑑図』Ulrich Huguenin原著、金森建策訳)等を参考に作り始めた。江戸時代末期に、技術水準の差はあったが伊豆国、江戸、佐賀藩、薩摩藩、水戸藩、鳥取藩、萩藩、島原藩などで主に洋式の野砲の砲身を鋳造するために反射炉が作られた。これらは幕府による伊豆国の韮山反射炉や江戸の滝野川反射炉を除き、主に幕藩体制の藩が中心となった。なお、鳥取藩では郷士で廻船業を営む武信家によって進められ、また島原藩では民間人の賀来惟熊によって進められた。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また戊辰戦争などの実戦に用いられたとも言われているが、定説となってはいない。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。反射炉の製造技術の導入が、日本史において特記されるのは、鉄製の大砲の製造が可能になったからである。かつての鋳造技術では砲身を鉄で製造する場合は材質を均一にできず、砲身が破裂する事故が多発した。そのため大砲は鉄製から青銅製へと"進化"していった。しかしその後の技術発達において、鉄製であっても材質を均一に砲身を鋳造する事が可能になり、再び鉄製の大砲が登場するが、日本では青銅砲の段階で技術が停滞したままであった。反射炉による鉄製砲の製造は、日本にとって鎖国下の技術停滞、開国による技術革新の象徴的な出来事となった。なお、反射炉では、鉄製のみならず青銅製の砲も製造された。すでに反射炉が普及していた同時期のヨーロッパでは、生産性の高い転炉 (convertor) が出現したことから、日本での歴史的評価のように重要視はされてはいない。反射炉は21世紀においても利用されている。福島県いわき市の小名浜製錬製錬所や回収された金属の精錬等で使用されている。バーナーの炎が壁面に沿って回るので湯(溶融した液体状の金属)に熱が均一に伝わり、攪拌作業でも湯全体を隅々までしっかりと混ぜることができるため酸化物や不純物を取り除く精錬作業に向いている。反面、構造上、上部の開口部の空気と接する表面積が広いため、アルミニウム、ケイ素など酸化しやすい元素や亜鉛のように消耗しやすい元素を含む材質の熔解に適していない。
出典:wikipedia
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