石川 雄洋(いしかわ たけひろ、1986年7月10日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。横浜高校では1年生からベンチ入りを果たし、春、第75回選抜に左翼手で出場し、準優勝。夏、第86回全国選手権にも出場して14打数10安打と活躍、ベスト8に進出した。高校の同級生に涌井秀章、1年先輩に成瀬善久、荒波翔、2年後輩に福田永将、佐藤賢治、下水流昂がいる。の全国高等学校野球選手権大会、対京都外大西戦では6回に三塁打を放ちヘッドスライディングした際に三塁手と交錯。首などを強打し左肩を捻挫する。一時は意識を失い担架で運ばれるも、その後意識を取り戻し強行出場した。スコア0対0の9回には自身のエラーをきっかけに満塁のピンチを迎えるが涌井が三振で抑えると、10回には涌井が招いたピンチをファインプレーで助け、チームは11回に1対0でサヨナラ勝ちを決めた。2004年9月に台湾で開催された第21回AAA世界野球選手権大会の日本代表に選ばれる。2004年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズから6巡目指名を受けて入団。二軍で45試合に出場し、打率.243に終わる。シーズン途中に左打ちからスイッチヒッターに転向。シーズン終了目前の10月12日に一軍初昇格し、代打で初出場を果たす。初の開幕一軍入りを果たすと、4月1日の読売ジャイアンツ戦、シーズン初打席で高橋尚成からプロ初安打(投手強襲の内野安打)を放つ。さらに代走としても出場機会を得ていた。しかし、4月19日ヤクルトスワローズ戦で11点の大量リードをしていたにも関わらず石川は盗塁を敢行。これが石川のプロ入り初盗塁となったが、これに怒ったヤクルトバッテリーが次の打者の内川聖一、村田修一に連続死球を与えて乱闘騒ぎになり、この試合で2,000試合出場達成となった古田敦也選手兼任監督が球審井野修に退場を宣告されるなど後味の悪いゲームとなってしまった。さらに翌4月20日の練習中には打球を顔面に当て唇を20針縫う大怪我を負い、長期離脱をした。スイッチヒッターから左打ちに戻す。開幕一軍入りこそ逃すが、その後シーズンを通じて一軍に定着。故障の石井琢朗の代わりに遊撃手を守ったり、北京オリンピック出場のためにチームを離れた村田修一の代わりに三塁を守るなど主に1番打者でのスタメン出場が続き、自己最多の83試合に出場。チームトップとなる10盗塁を記録した。開幕スタメンは逃すが、遊撃手のポジション争いをしていた藤田一也が仁志敏久の不調により二塁手に固定されたことで、レギュラーに定着。吉村裕基に次ぐチーム2位の134試合に出場し、初の規定打席到達、2年連続チームトップの19盗塁、チーム2位の15犠打を記録した。一方で、規定打席到達者ではリーグワースト2位の打率(.242)、リーグワーストの出塁率(.267)、四球数(13個)と対左打率(.156)、98三振、遊撃手リーグワースト2位の17失策を記録するなど、攻守に課題を残すシーズンとなった。開幕から遊撃手のレギュラーとして好調を保ち続け、リーグ30盗塁一番乗りを果たす。終盤、梵英心に競り負け、盗塁王のタイトルは逃すも、36盗塁(リーグ2位)、38犠打(リーグ3位)、打率.294(チーム2位)を記録。守備面では失策数は6に減ったが、石川が守備に就くと得点換算で平均的な遊撃手に比べて年間17.92の失点(12球団ワースト2位)が増えるゾーンデータが算出されるなど、守備範囲に不安を残した。相変わらず三振は多く、四球数も規定打席到達者の中で2年連続リーグワースト(21個)を記録。XR27も3.87と規定打席到達者31人中29番目だったが、出塁率は初めて3割を超えた。なお両リーグ規定打席到達者で唯一本塁打ゼロであった。開幕から1番・遊撃手でレギュラーに定着。後半戦からは2番打者を打つようになった。前半戦は全試合フルイニング出場を果たしたが10月4日、右外腹斜筋付着部(右わき腹)損傷により出場選手登録を抹消される。10月22日のシーズン最終戦の巨人戦で復帰し、9回裏に守備固めとして起用されたが、自身の失策によりピンチを広げ、長野久義の代打逆転サヨナラ満塁本塁打と内海哲也の最多勝をアシストしてしまう痛恨の結果を招いた。また2年連続で本塁打はなく、盗塁数も前年と比べて3分の1に減り失策数は13個に増加。シーズン中盤には三振数で一時リーグトップに立つなど、攻守共に粗さが目立った。同年現在チーム内に「石川」姓の選手・スタッフは在籍していなかったが、ユニフォームの背ネームを“T.ISHIKAWA”に変更。春季キャンプでは二塁手にコンバートされる。また、新生・横浜DeNAベイスターズ初代主将に指名される。シーズン序盤は打率2割に満たない極度の不振に陥っていたが、6月頃から徐々に調子を上げていった。しかし、7月18日の東京ヤクルトスワローズ戦でファウルを打った際投球が右手を直撃し、右手小指の骨折で登録を抹消される。8月下旬に復帰し、8月26日にはチーム事情によりプロに入って初めて外野(ライト)を守り好プレーも見せていたが、前日の8月25日の巨人戦でバントをした際に、今度は左手人差し指を骨折。再び登録を抹消された。遊撃手に再転向。開幕は1番で出場するが次第に調子を落とし、下位打線に降格、さらには山崎憲晴にスタメンを奪われてしまう。チームの円陣の輪に入らないなど練習態度に問題ありと中畑清監督に叱責され、話し合いを行なっても態度は改善されなかったことから、5月後半に二軍降格となった。6月に調子を取り戻し一軍復帰を果たした後は、殆どの試合に二塁手として先発出場した。8月には球団新記録となる8試合連続マルチ安打を放つなど打撃も復調し、最終的には打率は.275ながらも、5本塁打、41打点、出塁率.357を記録。また得点圏打率.313はリーグ4位という好成績だった。開幕からもっぱら1番・二塁手として出場。5月4日の広島戦(マツダスタジアム)では前田健太から初回に先頭打者本塁打、翌5日の同カードでは2試合連続の本塁打を放った。野球キューバ代表の二塁手として国際大会などで活躍したユリエスキ・グリエルが入団した6月以降の公式戦では、グリエルに二塁を守らせる関係で、高校時代に経験のある外野手として先発起用されることもあった。自己最高の本塁打数である7本塁打を記録したものの、打率は最終的に.248と前年より下げてしまった。3月28日の巨人戦でプロ通算100盗塁を達成した。前半戦では主に1番打者を任され、一時は首位打者に立つこともあるなど好調であったが、交流戦前後から次第に調子を落とし、大きく打率を下げてしまった。6月11日には出場選手登録日数が8年に達し、国内FA権を取得。7月3日の阪神タイガース戦では、9回裏に敗色濃厚の状態で守護神の呉昇桓からサヨナラタイムリーヒットを放ち、これが自身プロ初のサヨナラ打となった。7月31日の広島戦では5回表の守備で左足を負傷し翌日登録を抹消、その後はシーズン最終盤(最終戦から2試合目)の10月2日に出場するまで一軍に昇格することはなかった。最終的に89試合に出場し、打率は.259であった。4月8日に一軍登録。主に2番・二塁手として先発出場したが、打率2割1分から1割9分近辺を前後し7番に打順を落とすこともあった。7月頃から控えに回る試合が出だし、宮崎敏郎とのポジション争いを招いた。8月13日対広島カープ戦で通算1,000試合出場。最終的に打率.209と精彩を欠いた。▪レミオロメン「もっと遠くへ」(2016年‐)※2・3・5打席
出典:wikipedia
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