大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。また「大化」は日本最初の元号である。大化2年(646年)1月に改新の詔を出した。この改新の詔を以て大化の改新の始まりとする。ただし、昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明らかになり、大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明した。この時代に改革に向けた動きがあったことは確かとはされているものの、律令国家建設と天皇への中央集権化は乙巳の変以前の推古天皇、聖徳太子・蘇我馬子の功績であり、書かれていることは史実ではないことに注意する必要がある。。詔として出された主な内容は以下の四条である。また詔の四か条に無いが、その他の制度に対しても大きな改革が行われている。大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることがそれを物語っている。翌大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められ、この改元をもって大化の改新の終わりとされた。蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変という。皇極4年(645年)6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。8月5日、穂積咋を東国に国司として遣わし、新政権の目指す政治改革を開始した。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇と期待されていたが、乙巳の変の後に出家し吉野へ逃れていた。12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、白雉4年(653年)に中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、群臣もこれに従い、孝徳天皇は全く孤立して翌年に憤死する事件が起きた。この不和の背景には、孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。皇太子の中大兄皇子は即位せず、母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち、朝廷の支配権を拡大させた。一方で政情不安は続き、658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった(668年には新羅によって高句麗も滅亡する)。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。中大兄皇子は数年間称制を続けた後に、668年に即位した(天智天皇)。670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り、671年には初めての律令法典である近江令を施行している。671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは意外と遅く、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。そして、20世紀中後期頃までは、大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。しかし、以下の点から、7世紀中期から後半に大化の改新と同様な改革が行われたとしても、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、皇室の力を伸ばしていった可能性が高い。また、天皇権力が強くなる理由のひとつとして、壬申の乱の存在を考慮すべきとの考え方も存在する。律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく『日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる。『日本書紀』に編纂者らによる潤色があり、改新の詔が実践できていない矛盾や事実もあるが、律令制に至る端緒であったことも間違いなく、大化の改新とは、645年から650年までの大化年代だけの改革に限定せず、孝徳天皇および天智天皇、天武天皇、さらには持統天皇の専制統治化を通して行われた一連の改革のこととする説が最近では根強い。
出典:wikipedia
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