番付(ばんづけ)は大相撲における力士の順位表。正式には「番付表」という。ここから転じてその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる(長者番付など)。格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線演奏家、遊女、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった拳遊び、落語・講談などの寄席芸人や歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。古くは興行の場所に「興行札」という木の掲示板を立て、興行日時と、出場力士の名前と序列を明らかにした。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたために、木版印刷の形式で番付を発行(享保年間(1716~1735年)に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年頃)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、1757年(宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され、2007年(平成19年)は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、1869年(明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した。古番付の記録として最古のものは、1699年(元禄12年)5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は1702年(元禄15年)4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。中央の帯の最上部に、公的な許可を得た興行であることを宣言する蒙御免(ごめんをこうむりまして)の大文字、その下に興行の日時と場所、各行司と主催者(日本相撲協会)を記載する。これは興行札の体裁の名残である。この帯を境界に、各力士が東西二分して表記され、東方が西方より格上にみなされる。たとえば東大関は西大関より半枚上である。この形式は江戸で生み出されたもので、それ以前の大坂相撲では、東と西との二枚に分けて発行されていた。しかし、初期の江戸相撲は、参加する力士が少なかったため、一枚に収めて東西に分けることにしたために、東西の序列が必要になった。東が西よりも格上とみなされるようになったきっかけは、1890年(明治23年)に横綱免許をうけた大関初代西ノ海(16代横綱)が、張出大関になることに不満をもらしたため、これをなだめるために同年5月場所で番付にはじめて「横綱」の文字をいれ、東に張出の形式で配置したころからのことである。1909年(明治42年)6月場所の東西制実施のときに、優勝した方屋を翌場所東に配置したことで、東が半枚上ということが確定して、現在に至っている。ただし春秋園事件に際して発行された改定番付(1932年(昭和7年)2月場所)では大関3人(東方に玉錦と能代潟、西方に武藏山)で張出をつくらなかったために、幕内では「関脇以下は西が上位」とされていたため東方上位が完全に確定した時期はこれ以降である。番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。その面白さのために、他の分野でも同様の物が作られる。例えば古典園芸植物では、江戸時代後期より、多くの植物でそれぞれ番付が作られ、現在もあちこちで出版されている。たとえば万年青では、現存最古として1799年刊のものが確認されている。もっとも、長者番付などは番付と言いながらも、単なる順位表となっている。大相撲の番付には、横綱・大関・関脇・小結・前頭・「同」の文字が書かれていて、十両・幕下(昔は「二段」と呼称していた)・三段目・序二段・序ノ口の文字はなく、横綱・三役以外はすべて「前頭」である。その「前頭」を段の違いと文字の大きさでランク付けしている。五段ある最下段が「前頭」の始めということで序ノ口ということである。序ノ口は番付の一番下であるが、実はこの下に番付には載らない「前相撲」という階級がある。「前頭」はこの前相撲の頭(上位)を意味する。「一枚違えば家来同然」「一段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的な上下関係である。番付上の地位の区別がより明確になった時期は1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年(明治5年)7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月~1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。近年、珍しい巡業番付が発見された。弘化・嘉永年間(1845~1854年)で、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州に留まり、その際に興行されたときの巡業番付である。驚くことに東方の欄外に、稲妻の地位の部分に「横綱」の文字が刷り込まれている。また「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、野球で言う永久欠番に近い形で廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄や準年寄は別にして)現在の数(105)に定まった時でもある。本場所興行の際、東京(1月、5月、9月)場所では国技館の櫓の中ほどに、その他の地方場所では開催会場の入り口付近に「板番付」(2014年(平成26年)1月場所)が興行する場所に宣伝として掲げられる。板番付は紙番付よりも歴史は古く、興行地において力士の顔ぶれを記したいわば立看板的な役割を果たしていた。現在の板番付は、屋根に当たる部分が「入山形」と呼ばれる「入」の字形に作られるが、これは大入り満員を祈念したものである。1957年(昭和32年)以前に部屋単位、またはいくつかの部屋の合同など、小集団の巡業を行うときは「巡業番付」が作られる(1879年(明治12年)~1881年(明治14年)頃の巡業番付、14代横綱境川浪右エ門の名がある。横綱、大関など上位力士がいない場合は、その中の一番上位の力士を大関に据えるようにした。1939年(昭和14年)5月に角界一の大部屋、出羽海一門で巡業が行われ、その時作られた巡業番付には鏡岩のほかに、1月場所で優勝した出羽湊が大関に据えられている。現在では協会全体で巡業が行われるため巡業番付は作られない。相撲部屋の稽古場の壁に下げられる木製の札を「番付札」(伊勢ヶ濱部屋の番付札)といい、一枚ごとに所属部屋力士の四股名が書かれている。横綱を先頭にして地位の順に並べられる。部屋によって並べ方が違うが、親方(年寄)、行司、呼出、床山の名も同様に並べられる。歴代の関取の四股名を揚げている部屋もある。番付は各場所後に審判部長を議長とする番付編成会議で作成される。編成会議は場所後3日以内に開くことが定められており、通常千秋楽直後の水曜日に開かれる。会議には審判部副部長、審判委員、副理事が出席し、発言権はないが書記として行司も同席する。時には不自然と思われる編成がなされる場合もあるが、「番付は生き物」との俚諺もあり、力士にとって昇進・降格に際し多少の誤差や運・不運は付き物であると認識されている。新横綱、新大関に対しては番付編成会議終了後直ちに昇進伝達式を行い、該当の力士はこれをもって横綱、大関として遇されることになる。十両昇進力士に対しても、あらかじめその旨伝えられ、相撲協会よりプレスリリースがなされるが、これは待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮したもので、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。十両昇進力士の事前発表は1971年(昭和46年)からはじまった。横綱・大関・十両昇進力士を除いて、新番付の内容は正式な発表まで極秘となる。編成された番付は、翌場所前の番付発表をもって発効する。従来初日の8日前の土曜日に発表していたものが1970年(昭和45年)からは、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、番付発表を本場所初日の13日前の月曜日発表に変更した。1月場所の番付発表は、年末年始の繁忙期に配慮して13日前よりも早まる。なお、地方巡業が現在のように相撲協会主導の「大合併」でなく、一門ごとに別れて行われていた時代には、一門内の最上位力士を大関とした巡業用番付も作成された。引退相撲や、年寄名跡の襲名披露興行などのために作成された番付も存在する。前述の通り、番付は発表をもって発効する。しかし、2011年3月場所は大相撲八百長問題の影響により開催が中止されたことにより番付の発表も行われなかった。番付の編成そのものは完了しており、3月場所で十両への昇進が決定していた力士を初めとする全力士はこの番付に基づいて遇されることになった。これによって決定された地位は2月28日に番付の代わりとなる「順席」として十両以上のみを掲載したものが各相撲部屋に配布され、5月6日に5月技量審査場所用の新地位表が解雇された蒼国来、星風の名前を削除して幕下以下も含めて発表された。江戸時代中期の元禄年間(1688-1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789-1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、バランスをとるために〈木へん〉をかんむりのように書く(松→枩などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある)ような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。横綱が一番大きく書かれ、以下大関、関脇と地位が下がるにつれ小さく(細く)書かれるようになっていき、序ノ口の力士になるともはや虫眼鏡が無ければ読めないほどである。現在番付を書いているのは戦後7人目となる三役格行司3代木村容堂で、2007年11月場所から前任の10代式守勘太夫(後の36代木村庄之助)より受け継いでいる。行司が書く番付(原版)を「元書き」( 大きい方の番付)といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)に、鯨尺で「横綱」が幅7分5厘(約2.8cm)、「大関」が6分5厘(約2.5cm)、「関脇」・「小結」が5分5厘(約2.1cm)取って、残りを平幕の枚数で割る。書く順序としては、まず線引き(枠書き)をして、最初に書かれるものが枠外左下に「平成○○年○○月○○日発表 不許複製」(以前は印刷日も書かれていた、「不許複製」の文字は昭和40年代頃より書かれる)、序ノ口を左から書いて序二段、年寄ほか(「千穐万歳大々叶」「此外中前相撲東西ニ御座候」の文字、特等床山(当時)・呼出し(十枚目(十両)格以上のみ掲載)・世話人・若者頭も含む。2012年(平成24年)1月場所より、床山は特等および一等床山を記載し、世話人・若者頭については右側(東方)最下段左端に書かれる)、中軸に、江戸時代に相撲興行は寺社奉行の許可を要した名残である「蒙御免」の文字、開催年月日と開催場所、行司、審判委員、「財団法人日本相撲協會」の文字、および所在地)、三段目、幕下、十両、幕内、張出があった頃は東の張出を最後に書く。左から右へ、下段から上段へ書いていく。番付では横綱・三役は一つの地位では東西各1名ずつ計2名が本来であるが、3名以上になるときには東西の各1名を「正位」と呼び、それ以外は「張出」と呼ばれる。張出の枠は、枠内の地位が書いてある位置から、枠外に張出の枠を設けるので、枠の高さが枠内より若干低くなる。番付の横(幅)の寸法は張出があると、張出がある分だけ枠外の寸法も含まれるため、張出(枠外)がある番付とない番付では、枠内の幅の寸法が変わってくる。張出が多いと、それだけ番付枠内の幅が狭くなるので、張出がない番付より若干文字の幅も狭く書かれるようになる。張出大関や張出関脇が東西にある場合は、枠外に張出の枠、大関・関脇を並べて書く。さらに張出小結などがある場合は、さらに枠を並べて書く場合と、二段目の枠外に書かれることもある。1930年(昭和5年)、昭和天皇の誕生日4月29日に行われた天覧相撲のおりに発行された現存する番付には「蒙御免」と書かれるところに「賜天覧(てんらんをたまわる)」と書かれた。張出の有無に関わらず一人横綱の場合は、横綱を東の枠外に張り出して書かれる。このとき大関以下に張出がある場合は、他の張出の枠より若干大きく設け枠内の高さに揃える。「横綱」の文字・出身地・四股名は枠内および他の張出の文字の高さに揃えず、高く大きめに書かれる。横綱が3人以上(東西の正横綱および張出横綱)で大関以下に張出がある場合は、張出横綱の枠を他の張出の枠の高さに揃え、文字も枠内および他の張出の文字の高さに揃えて書かれる。また改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。原版の「元書き」は、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に掲出される。享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている)や明治以降には写真番付も製作された。現存する絵番付としては、1860年(万延元年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後柏鵬時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。前述の板番付は総ヒノキ製で高さが約2m、幅が1.5mあり、幕下格行司と三段目格行司が3人がかりで4~5日かけて書き上げる(製作中、完成)。なお板番付では出身地と四股名の間を詰めて書かれるので、改名力士についての「〇〇〇(旧四股名)改」は書かれない。場所が終わるとかんなで削って文字を消し、また同じ板に翌場所の番付が書かれる。番付には力士名の他、年寄(現在は「理事」、「監事」(2008年(平成20年)11月場所より表記を「副理事」に改称)、「役員待遇」、「委員(審判委員を含む)」(年寄のうち期間限定の一代年寄であった栃東(元大関)は委員待遇)、「主任」、「年寄」に分けられる。以前は「取締」、「参与」という職階もあった。審判委員(1968年(昭和43年)の機構改革前には「勝負検査役」と番付に書かれていた)、行司、呼出、若者頭、世話人の名も記される。番付上では、横書きで書かれる文字はすべて歴史的観点から右から書かれている(例:「司行」、「事理」)。また理事長は理事の筆頭に大きめに書かれ「理事長」と頭書きされる。若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年(平成6年)7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。このとき、記入スペースを確保するために、それまでの張出の制度を休止して、横綱・大関・三役がそれぞれ3人以上になっても、すべてを枠内に書くこととした。2004年(平成16年)3月場所より審判委員を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年(平成20年)1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚、時津風勝男、武蔵川晃偉、放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにも関わらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。2014年(平成26年)1月27日、内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、南忠晃、平野兼司、佐藤忠博の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載されている。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」に改められた。各力士の上に書かれる出身地は、江戸時代は藩名(お抱え大名の地域)で書かれることもあったが、明治以降は出身国名表記となり、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地名が表記され、1948年(昭和23年)5月場所より出身地名を含む都道府県名の表記、1956年(昭和31年)3月場所より全て都道府県名の表記となった。ただし、幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉または〈東京〉の表示でまとめられることも明治期まではよくみられた。なお、中央に「蒙御免」(ごめんこうむる)とある理由は、江戸時代に大相撲が幕府の認可のもとで興行を行っていた名残である。場所中は会場に「御免札」が掲げられている(これは現在でも変わらない)。「此外中前相撲東西ニ御座候」は、番付外に本中、前相撲力士が東西にいる、という意味で、このうち本中は廃止され前相撲のみが現在も残っている。江戸時代には前相撲→相中→本中と進み、相中・本中を「中(ちゅう)相撲」といい、明治になって相中がなくなった。1973年(昭和48年)3月場所までは前相撲→本中と進み(1986年(昭和61年)より番付外の取組は全て前相撲として扱う)、新序出世披露を受けると翌場所の番付に四股名が記載される。幕下付け出しも初土俵の場所は記載されないが「番付外」とは呼ばれない。1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合(現役力士の解雇・死亡など)は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。玉の海とは全く逆のケースとして、1990年(平成2年)1月場所で新入幕を果たし、西前頭10枚目で9勝6敗と勝ち越しながら、同年2月に急死した龍興山の場合は、翌3月場所の新番付は自己最高位の東前頭5枚目に載っていた。これは現役力士が場所後死亡しながらも空位にせず、番付に四股名が掲載されるという珍しい出来事である。この理由には、3月場所は龍興山の出身地である地元大阪で大相撲が開催されるため、「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という相撲協会の配慮により、異例ながらも番付に龍興山の四股名がそのまま残された。2007年(平成19年)11月場所の番付で西前頭11枚目が空位となった。場所の直前(番付編成後)に時津海が引退して年寄時津風を襲名して時津風として番付に載ることとなり、番付上の重複を避けるために空位とした。これは幕内では1873年(明治6年)11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名した際以来(前述のケースを除いて)で134年ぶりだった。また、2008年(平成20年)9月場所の番付では、前の7月場所後の番付編成で東前頭8枚目に据えられた若ノ鵬が8月21日付で解雇されたため同地位が空位となった。高砂除名組のときは該当者が墨で塗りつぶされたが、時津海、若ノ鵬の際には空白となった。なお同年9月8日付で解雇された露鵬・白露山の2力士は番付発表後の解雇だったこともあり9月場所の番付には名前が残っている(ただし同年9月14日付の番付では空白となっている)。2009年(平成21年)3月場所の番付では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。また、1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれた際にも、11月場所の番付では幕下以下のそれぞれの場所が空位とされた。1981年(昭和56年)9月場所番付において、東西の正横綱(北の湖、千代の富士)が「横綱大関」として番付上大関を兼務、純粋な大関不在の変則番付になったことがある(後述。横綱大関の項目も参照)。2008年(平成20年)3月場所番付において心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付が据え置かれることが1月26日の臨時理事会で承認され、1月30日の番付編成会議で正式決定された。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことはない。この異例の判断に理事長の北の湖は「3力士とも(時津風部屋力士暴行死事件の)捜査に協力しているため、社会通念上決めた」と語った。2010年(平成22年)1月場所で25回目の優勝を果たした、西横綱朝青龍が同場所中の不祥事により、番付編成会議後の2月4日に突如引退を表明。形式上は自らの意思による通常の引退であったが、番付発表まで約3週間の余裕があったために、敢えて四股名ごと削除することとなった。これに伴い、本来なら西横綱に載るはずだった白鵬の地位は、1月場所と同じく3月場所も東横綱に掲載され、番付編成会議後の引退届提出により番付が変動するという極めて異例の措置となった。1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。
出典:wikipedia
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