中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。愛知県を保護地域とし、同県名古屋市東区にあるナゴヤドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は同市中川区にあるナゴヤ球場である。横浜に大リーグ選抜軍が来日した1934年、読売新聞社が大日本東京野球倶楽部を日本のプロ野球球団として結成。それから遅れること2年、1936年1月15日に新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が誕生した。河野安通志を総監督 (ゼネラルマネージャー) に迎え、池田豊が監督に就任。明治大学の中根之、アメリカ人で捕手のバッキー・ハリス、内野の名手・芳賀直一、日系アメリカ人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。上述のメジャーリーグ選抜軍来日時に、読売新聞社社長・正力松太郎が新愛知新聞社の田中斎に名古屋でのプロ野球球団結成の働きかけを行ったのが球団誕生の契機。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。当初、読売の正力松太郎が推し進めていた日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)とは別個に、独自リーグの大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を4球団結成し、配下には3Aに相当する下部組織を作るなどの、当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫。結局、上記の既存の2球団が正力が設立した日本職業野球連盟に加盟することとなった。当初の商号は名古屋軍が株式会社大日本野球連盟名古屋協会、大東京軍が株式会社大日本野球連盟東京協会であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。2月5日、日本職業野球連盟が結成された。1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らが後を追い、池田も混乱を嫌って監督を辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことでチームは低迷し、慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総合力は東京巨人軍や大阪タイガースに及ばなかった。1942年、戦時下の新聞統廃合令でこの球団の親会社である新愛知新聞社と1940年まで活動した名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資して1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。球団名を産業軍(さんぎょうぐん)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一をはじめ、戦禍に散った。1945年11月、大島が球団スポンサーに再度就任し、1946年2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰。株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、球団名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。球団愛称は中部とした。同年、現役遊撃手の杉浦清が監督に就任し、球団史上初の選手兼任監督となっている。1947年のニックネーム導入にあたり、3月10日当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から球団名を中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称し、服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせて戦後すぐの球団を支え、2位に終わる。しかし、オフの11月1日付で解雇された赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手も退団し、藤本英雄も巨人に復帰。またしてもチーム力が低下。退団した赤嶺一派は各球団を渡り歩き、赤嶺旋風と言われる混乱を巻き起こした。1948年に、球団名を中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより球団初の本拠地として使い始めた。1949年は天知俊一が監督に就任し、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日に復帰。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、中日はセ・リーグに所属することになる。1950年5月25日、大リーグに倣い球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併され、商号が名古屋野球株式会社となり、この年は8球団中2位に終わる。1951年、この年西日本パイレーツが、パ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことでセ・リーグは、7球団体制になる。1月25日、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。2月6日より名古屋鉄道(名鉄)が球団経営に参加し、球団名も名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改称。名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。8月19日に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。この年は、優勝した巨人に大差をつけられての2位。翌1952年は、巨人・大阪との優勝争いの末、僅差で3位に終わる。1953年、大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併し、セ・リーグは6球団体制となる。このシーズンは3位に終わる。1954年は、前年1953年12月19日に今後は中日新聞が球団経営を行うと決定していたのを受け、1月14日に株式会社中部日本野球協会に商号を変更して、球団名も中日ドラゴンズに戻した。1月30日には、名鉄が球団経営から撤退した。監督は、天知俊一が3年ぶりに復帰した。天知監督は選手からの人望が篤く、監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。西沢道夫・杉山悟・杉下茂・石川克彦らが主力となり、活躍した。7月25日、大阪球場での対阪神戦は、観客が球場に乱入し、放棄試合が宣告された。8月31日、中日球場の巨人戦はNHKがテレビで初の中継をした。10月19日に2位の巨人が敗れたことで初優勝達成。その日は東京遠征の移動日であり、監督、選手らは、電話で優勝を知ることとなった。この年の観客動員は109万7千人で、球団史上初めての100万人を突破している。日本シリーズでは、西鉄ライオンズを相手に4勝3敗で初の日本一達成。しかし、この年のオフに天知は体調不良を理由に監督を退任し、中日球団の副代表に就任した。1955年、選手兼任監督として、野口明が就任したが、優勝した巨人と15ゲーム差の2位。1956年は、優勝した巨人・2位の大阪と僅差で3位。1957年から1958年は、1954年に日本一に導いた天知俊一が監督に復帰したものの、3位が続いた。1958年オフ、この年の選抜高校野球大会において83奪三振で奪三振の大会記録を作った板東英二が入団。1959年、前年に引退したエース杉下茂が監督に就任した。伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。この年は、優勝した巨人と10ゲーム差、大阪と同率の2位。1960年2月に商号を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。優勝した大洋と9ゲーム差の5位。杉下監督は退任し、大毎に移籍した。1961年は、濃人渉が監督に就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。1962年、日本プロ野球で初めて、元大リーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが3位。1963年は、優勝した巨人と2.5ゲーム差ながらもセ・リーグでは初めてとなる全球団に勝ち越しながら優勝を逃す2位。しかし、翌1964年は一転して2リーグ分裂後初めてとなる最下位に終わる。なお、同シーズン途中からは西沢道夫が監督を務めた。1965年から1967年は、西沢監督の下で3年連続2位と健闘する(1967年に西沢が監督を途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰)。1968年の杉下監督を挟み、1969年から元巨人の水原茂が監督就任するが4位→5位→2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝につながっていく。1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。巨人に対しては闘志をむき出しにし、1972年・1973年と勝ち越してV9巨人を苦しめた。この時期、中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社・株式会社中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社・株式会社ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。1974年は髙木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止して2回目のリーグ優勝を果たした。しかし日本シリーズではロッテオリオンズに2勝4敗で敗退。翌1975年は広島の「赤ヘル旋風」の前に2位で終わり、1976年は後楽園球場の人工芝に全く馴染めず、後楽園での対巨人戦に全敗したのが響いて4位、Bクラス転落。1977年には阪急との大型トレードが歴史的な失敗に終わり(放出した島谷が打率.278→.325、稲葉が3勝→17勝、獲得した森本が出場120試合→45試合、戸田が12勝→6勝)、何とか5割3位は確保したものの、与那嶺監督はこの年限りで退団する。1978年から中利夫が監督になり、初年度は5位、1979年は3位とAクラス入りを果たすも、1980年は球団ワーストとなる開幕6連敗を記録するなど最下位と振るわず同年限りで辞任。この年、髙木守道が現役引退。1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッカ、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。シーズン後半になると巨人との優勝争いになるが、日本プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対横浜大洋ホエールズ最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって8年ぶり3度目のリーグ優勝達成。2位の巨人とは0.5ゲーム差という大接戦だった。また、この試合で田尾安志が大洋から5打席連続敬遠を受け、首位打者を逃した。中尾孝義がMVPを獲得した。日本シリーズは西武ライオンズと対戦、2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一、木俣達彦が引退。1983年、戦力不足からチームは5位に終わり退任。1984年シーズンオフに山内一弘が監督に就任。初年度は巨人戦に14連勝するなどして、優勝した広島と3.0ゲーム差の2位となった。しかし、球団創設半世紀となった1985年は谷沢が球団史上2人目の通算2000本安打を達成したものの、5位に終わった。1986年も2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれた。1986年の開幕から監督を務めていた山内のシーズン途中での休養を受けて、シーズン終了まで髙木守道ヘッドコーチが監督を代行した。1986年シーズンオフに星野仙一が監督に就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテオリオンズから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。享栄高校から近藤真一がドラフト1位で入団。1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。しかし翌日以降巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率.769で10月7日に逆転優勝する。生え抜き監督での優勝は球団史上初。西武から移籍した小野和幸が最多勝で、小松と共に先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVP。立浪が新人王に輝いた。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。翌1989年は3位、1990年は4位とBクラスに沈むも、1991年は優勝した広島と3ゲーム差の2位。同年オフ、星野仙一は健康上の理由で監督を退陣。1992年、髙木守道が監督に就任。この年のセ・リーグはまれに見る混戦だったが、成績は60勝70敗で12年ぶりの最下位。この年、中日を扱ったアメリカ映画『ミスター・ベースボール ( "Mr.Baseball" )』(トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)が公開されている。1993年、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが共に17勝で最多勝、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルも獲得。しかし、前半戦で2位以下に大差をつけて独走したヤクルトが優勝、中日は2位に終わる。シーズン終了後、落合が巨人にFA移籍。1994年、シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる髙木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝などで首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合は3対6で敗戦し2位に終わった。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率のタイトルを獲得。1995年、チームは前年から一転不振に陥り、6月2日の対阪神戦の試合前に髙木守道が監督を辞任。その後徳武定祐が監督代行となるも、7月23日には解任され、二軍監督の島野育夫が監督代行となった。こうして監督人事が迷走したことも響き、この年は5位に終わり、9月20日に星野仙一の二度目の監督就任が発表された。12月には韓国プロ野球のヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。パウエルが2年連続の首位打者に輝いた。1996年、この年はナゴヤ球場最終シーズンとなった。韓国の至宝といわれた宣銅烈が抑えとして期待されるも、日本の野球に馴染めず不振に終わる。8月11日の対巨人戦で野口茂樹がノーヒットノーランを達成。この年は長嶋巨人による「メークドラマ」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点で(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。10月6日、ナゴヤ球場での最後の公式戦を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフという状況で、3試合目に2対5で敗戦で2位に終わる。この年は大豊泰昭、本塁打王になった山崎武司、3年連続で首位打者になったパウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜打線”の愛称も一層の定着を見せた。1997年、ナゴヤドームに本拠地を移し、狭いナゴヤ球場から一転して広くなったナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、前年の強竜打線も沈黙、チーム防御率は11位と低迷、5年ぶりの最下位に終わる。宣銅烈が不振だった前年から一転、38セーブを挙げ、山本昌が3年ぶり3度目の最多勝を獲得。オフには守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇し、韓国ヘテから李鍾範を獲得。阪神との交換トレードで矢野輝弘と大豊泰昭を放出し、関川浩一と久慈照嘉を獲得した。この年のドラフトでは川上憲伸を1位、井端弘和を5位指名した。1998年、前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向した落合英二が最優秀中継ぎ投手、ルーキー川上憲伸が新人王を獲得しチーム防御率12球団1位となった。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。1999年、開幕から11連勝。投手陣は、野口茂樹や川上憲伸、山本昌にダイエーからFA移籍してきた武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らと共に不動のセットアッパーとなる。抑えの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝し、9月30日の神宮球場での対ヤクルト戦で、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは、レギュラーシーズンで前年ほど活躍できなかった川上憲伸が第2戦で勝利するものの、1勝4敗で敗退。宣が現役を引退。サムソンがメジャーリーグ挑戦で退団した。2000年、開幕して間もない4月7日の横浜戦でメルビン・バンチがノーヒットノーランを達成、またシーズン通じて14勝で最多勝のタイトルを獲得した。チームは序盤は投手陣の不調などで出遅れたものの、5月には10連勝を記録するが投打ともに前年の面影はなく、特に対巨人戦は対戦成績で9勝18敗。本拠地のナゴヤドームで2勝12敗、打たれた本塁打が26本とホームの中日が1年で打った本塁打(32本)に迫る勢いで被弾した。9月24日の東京ドームでの対巨人最終戦では、4対0でリードの最終回に抑えのエディ・ギャラードが江藤智に同点満塁本塁打、二岡智宏にサヨナラ本塁打で4-5で敗戦、巨人の優勝決定。シーズン結果は2位。2001年、開幕直後に横浜の波留敏夫と種田仁、山田洋による1対2の交換トレードが成立。チームは不調でシーズン5位となり、4年ぶりのBクラスに終わる。星野仙一が健康上の理由で監督辞任。前田幸長、武田一浩が退団し、揃って巨人に移籍。谷繁元信がFA移籍で加入。中村武志が金銭トレードで横浜に移籍。2002年、ヘッド兼投手コーチの山田久志が監督に就任。中日OB以外から選ばれる監督としては山内一弘以来となる。シーズン途中にキューバの至宝と呼ばれたオマール・リナレスが加入した。8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成。チームは対巨人戦9連敗が響き3位。福留孝介が松井秀喜の三冠王を阻み、首位打者に輝いた。2003年、一度は入団契約を交わしながらも突如翻意(ケビン・ミラー問題)し、ボストン・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。開幕後約1ヶ月は首位を走っていたが、谷繁元信の戦線離脱以降失速する。チーム最多勝は前年オフにオリックスからトレードで移籍してきた平井正史(12勝)で、川上憲伸と朝倉健太と前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。シーズン途中に首脳陣との確執を起こしたギャラードが退団、横浜に移籍した。7月5日の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が球団史上3人目の通算2000本安打達成。打線は4番打者が流動的で固定出来なかった。5位に低迷していた9月9日に山田の監督休養(事実上の解任)を発表し、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行となった。佐々木代行就任後は好成績を残したが、最終的には、優勝した阪神と14.5ゲーム差の2位で終わる。同年オフ、落合博満の監督就任を発表。2004年、広島との開幕戦はFA移籍後3年間一軍登板が無かった川崎憲次郎が先発。2回5失点で降板するもその後チームは逆転勝ち。開幕3連勝するなど、4月を勝率5割で終えるが、5月には11日に一時最下位に転落。しかし中旬以降は立ち直り、26日には首位浮上。6月は巨人と首位争いとなり、20日から7連勝で首位に立つと、以降は首位を譲ることなく安定した戦いぶりを見せ、10月1日にマジック対象の3位のヤクルトが敗れたことで5年ぶり優勝達成。巨人とヤクルトに負け越したものの他の球団に大きく勝ち越した。リーグトップの防御率の投手陣と、リーグ初となる同一チームから6人のゴールデン・グラブ賞受賞となったリーグ記録の45失策という堅い守備力で、リーグ最少の本塁打とリーグ5位のチーム打率と得点をカバーした。日本シリーズでは西武と対戦、3勝4敗で敗退。2005年は横浜よりタイロン・ウッズが加入し、ドラフトでは中田賢一をはじめ即戦力となりうる新人を獲得。球団史上初の開幕から2試合連続のサヨナラ勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられ、この間阪神に首位を明け渡す。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には優勝した阪神と10ゲーム差の2位に終わった。岩瀬仁紀が佐々木主浩の日本記録を塗り替えるシーズン46セーブを挙げた。2006年は投手陣と堅守、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速でマジックナンバー(M40)を点灯させた。9月16日の対阪神戦では山本昌が史上最年長でのノーヒットノーランを達成。シーズン終盤には阪神の猛追に遭うものの、一度も首位を明け渡さずに10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての「完全優勝」だった。川上憲伸が最多勝、最多奪三振、岩瀬仁紀が最多セーブ、福留孝介が首位打者、MVP、タイロン・ウッズが本塁打王と打点王のタイトルを獲得するなど、個の力が際立ったシーズンでもあった。しかし日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに1勝4敗で敗退。オフにアレックス・オチョアが退団。2007年はLGツインズから李炳圭、オリックスを自由契約となった中村紀洋が加入。シーズンに入ると、前年MVPの福留孝介が怪我もあってシーズン中に戦線離脱するものの、その穴を埋めるように、前年レギュラーに定着した森野将彦が打撃面でさらなる成長を見せた。投手陣では川上憲伸、朝倉健太、中田賢一を中心としたローテーション投手が活躍した常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、勝負どころでの取りこぼしが響き、最後は2位に終わる。セ・リーグでは初のプレーオフとなるクライマックスシリーズでは、第1ステージでは3位の阪神と対戦し2連勝、第2ステージはレギュラーシーズン1位の巨人と対戦し3連勝。計5連勝で球団史上初となる2年連続の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは2年連続で日本ハムと対戦し、第5戦で山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合もあり、4勝1敗で日本ハムに前年の雪辱を果たし、53年ぶり2度目の日本一達成。アジアシリーズでは初戦の韓国代表SKワイバーンズに敗れ、予選2位で決勝戦に進むが、予選1位のSKワイバーンズに勝って優勝し、日本勢として3年連続のアジア王者となった。オフには、FAで福留孝介が大リーグ・シカゴ・カブスに移籍。2008年、移籍した福留の穴埋めとして埼玉西武ライオンズからFA宣言した和田一浩を獲得し落合は「レギュラーの野手は決まっている」と宣言した。前述の和田、荒木、井端、李炳圭、ウッズ、中村紀洋、森野、谷繁と落合就任当初は1軍と2軍の枠を撤廃してまでチーム内の競争を煽った事を考えれば大きく方針を転換したが、5月14日の東京ヤクルト戦で森野が左脹脛肉離れを起こしたのがきっかけでレギュラーが次々と離脱した。6月は李炳圭と井端が、8月の北京オリンピックでは怪我がちの森野と荒木が揃って離脱。平田良介以外にそれを補うべき若手も現れず、結局535得点はセリーグワースト、4番ウッズが77打点にとどまったのと得点圏打率が2割2分7厘に表れている様にチームの得点圏打率がチーム打率と共に2割5分3厘とセリーグどころか12球団のワーストと111のダブルプレーを喫したのもセリーグワーストと攻撃面ではワースト記録のオンパレード。また投手面もチーム史上初の規定投球回到達者なし。最も多く投げたのは山本昌の133回と3分の2で前年3人で38勝挙げた中田(14勝)、朝倉、エースの川上(いずれも12勝)が中田は怪我と不振、朝倉は7月に右腕の血行障害を発症、川上に至っては台湾代表のチェンと日本代表で4位の大戦犯だった岩瀬と共に北京オリンピックで離脱。オリンピック後も調整に時間がかかった事も重なって19勝どまり。日本シリーズで8回パーフェクトの快投を見せた山井も怪我で2試合の登板に終わったのが祟って3位となり、クライマックスシリーズの出場権を得るのが関の山だった。クライマックスシリーズ第1ステージは阪神との接戦を2勝1敗で制したものの、第2ステージでは拙攻と投手陣の不調(特に救援陣)もあり、巨人に1勝3敗1引分けで敗退、3年連続日本シリーズ進出はならなかった。オフには、FAで川上憲伸が大リーグ・アトランタ・ブレーブスに、中村紀洋が東北楽天に移籍。2009年は前年退団したウッズの後釜として獲得したトニ・ブランコが本塁打王と打点王の二冠に輝く活躍を見せ、前年は不振だった立浪和義も代打で好成績を残して勝利に貢献した。川上が移籍したことによって生じた先発投手陣の穴も、それぞれ16勝で最多勝と防御率1.51で最優秀防御率のタイトルを獲得した吉見一起やチェン・ウェインの活躍により埋まった。また川井雄太が球団新記録の開幕11連勝を達成した。シーズン序盤は下位に低迷したが、交流戦辺りから追い上げを見せ、一時は首位巨人とのゲーム差を1.5まで縮めた。しかし、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが最後まで響き、最終的には首位巨人に12ゲーム差をつけられて2位に終わった。3位のヤクルトとのクライマックスシリーズ第1ステージは、初戦を落とした後連勝し2勝1敗で制したが、巨人と対戦した第2ステージは初戦に勝利した後3連敗で1勝4敗で敗退。この年限りで立浪が引退した。ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の候補にドラゴンズから4選手が選ばれたが全員が辞退したことが話題となった。2010年はチーム打率が12球団中11位(.259)だったものの、チーム防御率は12球団最高の3.29となった。特に、山井、中田、チェンが先発した7/16~19にそれぞれ完封勝利を成し遂げると、7/19は先発岩田が8回2/3まで完封ののちに浅尾-高橋が救援しての完封、7/20にはネルソン-清水-高橋-浅尾-河原-岩瀬-平井がシャットアウトした結果の延長11回サヨナラ勝ち、と連続完封勝利のプロ野球新記録を樹立(翌年、日本ハムも同じく5試合連続完封勝利のタイ記録を達成)するほどだった。また、ホームゲーム、特に本拠地のナゴヤドームでは51勝17敗1分けと圧倒的な強さを見せた。巨人戦はナゴヤドームでは9連勝を含む10勝2敗(クライマックスシリーズでは3勝1敗)、対阪神戦も10勝2敗と大きく勝ち越している一方で、ロードゲームでは26勝44敗2分けと差が激しかったが、セ5球団で負け越したのはヤクルトのみであった。1年を通してみると、序盤には先発投手陣の不調、野手では主力の井端弘和がシーズン中盤から故障による長期離脱などがあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられたが、浅尾や高橋ら中継ぎ投手陣の活躍、和田一浩や森野将彦らがチームを牽引する一方で井端に代わってレギュラーに定着した堂上直倫ら若手の台頭、などもあり、後半戦から追い上げを見せた。優勝マジックを1とした10月1日、チームは試合がなかったものの、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。なお、この年はJリーグ・名古屋グランパスエイトもJ1リーグ初制覇を果たしており、プロ野球・Jリーグの双方で名古屋市に本拠地を置くチームが優勝に沸くこととなった。自己最多の37本塁打を放った和田一浩がMVPに輝いた。クライマックスシリーズでは、3位の巨人と第2ステージを戦い4勝1敗として、3年ぶりに日本シリーズ出場。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、第6戦は延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末、2対2で引き分け。第7戦は2試合連続の延長戦となったが、ロッテに7対8で逆転負けで敗れ、2勝4敗1分で敗退。2011年は交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど好調であったが、高橋聡文、中田賢一、山本昌、トニ・ブランコ、谷繁元信、井端弘和ら主力選手の故障が相次いだ事に加え、統一球の影響などで前年MVPの和田一浩を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。8月3日には首位ヤクルトに10ゲーム差が付き、8月10日には借金6で5位にまで転落した。しかしリーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したエンジェルベルト・ソトの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると谷繁、ブランコ、井端の復帰や大島洋平、平田良介ら若手の成長もあり、徐々に首位ヤクルトとの差を縮めていく。その最中、任期満了による落合監督の同年シーズン限りでの退任と高木守道の次期監督就任が9月22日に、10月6日にはコーチ11人の退団が発表された。前後して9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝ち越し、10月6日に首位に浮上。10月18日の対横浜戦でブランコの同点本塁打で引き分けに持ち込み、142試合目にして球団史上初の2年連続セ・リーグ優勝を果たした。チーム打率(.228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初のことである。セットアッパーとして0.41という防御率を記録した浅尾拓也がセ・リーグMVPを獲得した。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージは4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは、第6戦までお互いの本拠地で敗戦する展開(外弁慶シリーズ)となったが、名古屋で3戦全敗したことがたたり、ヤフードームでの第7戦に敗れ、3勝4敗で敗退。オフには、楽天を退団した山崎武司が10年ぶりに、大リーグのアトランタ・ブレーブスを退団した川上憲伸が4年ぶりにそれぞれ中日に復帰。、開幕戦の広島戦に勝利し、引き分けを挟んで5連勝で5月8日に首位に立つと、途中1日を除いて6月30日まで首位だった。交流戦ではセ・リーグでは巨人に次いで2位で、6月を5割の成績とすると7月1日には巨人に抜かれて2位となる。その後は巨人に離される展開で8月末には6.5ゲームとなり、最終的には巨人と10.5ゲーム差の2位に終わる。クライマックスシリーズのファーストステージでは2勝1敗でヤクルトに勝利したものの、続く巨人とのファイナルステージでは3連勝の後3連敗で敗退。シーズン途中、主砲のブランコやエースの吉見一起が故障で離脱するなど、共に規定打席、投球回に達せず、クライマックスシリーズでは吉見を欠いたのが響いた。本拠地ナゴヤドームでは途中球団新記録の14連勝など貯金20としたが、ビジターでは負け越し、特に対巨人、対ヤクルトとの関東での試合は開幕から15連敗となった。オフにブランコら助っ人3人がそろって横浜DeNAベイスターズに移籍。、6月28日に山井大介が対DeNA戦(横浜)でノーヒットノーラン達成。シーズンを通じてはチームの調子は上がらず、9月25日の対広島戦(ナゴヤドーム)に0対2で敗れ、2001年以来12年ぶりのBクラスが決定、球団史上初めてクライマックスシリーズ出場を逃し、最終的な順位は4位に終わった。シーズン終了後2年の契約期間満了で髙木監督は退任し、後任に谷繁元信が選手兼任監督として就任した。選手兼任監督は2006年から2007年のヤクルトの古田敦也以来、中日としては1955年の野口明以来3人目となる。また球団初のゼネラルマネージャーに前監督の落合博満が、球団社長には中日新聞社常務の佐々木崇夫がそれぞれ就任している。2013年11月4日、井端弘和が自由契約(同月に巨人へ移籍)、中田賢一がFAでソフトバンクへ移籍した。は序盤から低調だったものの交流戦では一時首位に立つなどしたが、8月上旬に和田一浩が死球を受けて故障した上、打者陣が軒並み不振に陥り球団ワースト記録の月間20敗を記録。9月5日、山本昌が対阪神戦(ナゴヤドーム)に先発として登板、5回無失点で勝利投手となり、浜崎真二の持つNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)とNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新した。しかし、9月20日の対阪神戦(甲子園)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続シーズン負け越しが決まり、9月28日の対巨人戦(ナゴヤドーム)に敗れ球団では28年ぶりの2年連続Bクラスとなった。最終成績は4位に終わった。、チームは35年ぶりの開幕3連敗を喫したため4月にヤクルトと首位争いを繰り広げるも、5月に入り徐々に後退しBクラスに転落した。6月9日の対ロッテ戦に7-6で勝利して球団通算5000勝を達成、巨人・阪神に次いで3球団目となった。和田が6月11日の対ロッテ戦で史上45人目となる通算2000本安打を達成した。交流戦は7勝10敗1分で2年ぶり負け越しとなり、総合順位は10位に終わった。交流戦終了後、連敗がかさみ6月末時点で借金9の最下位に沈んだ。7月に入ってからもなかなか浮上のきっかけをつかむことができず、前半戦は20年ぶりの最下位に終わるも首位のDeNAとは4ゲーム差だった。8月26日、DeNAに代わり5位に浮上。だが、直後に最下位に逆戻りとなり8月30日の対巨人戦に敗れ、巨人に対し2リーグ制後球団史上ワーストとなる5年連続負け越しとなった。9月2日、対DeNA戦に5-6で敗れ自力でのクライマックスシリーズ進出が消滅した。最終成績は5位に終わり、94失策は12球団ワースト、内野陣は53失策を記録した。また和田、小笠原道大、川上、朝倉など一時代を築いたベテラン選手が来季構想外になりチームを去ることになり、谷繁選手兼任監督も現役引退を表明し来シーズンからは監督専任になることも決まった。そして、日本プロ野球における現役選手で最年長(50歳)の山本昌も現役引退を表明したため、中日一筋32年の現役生活にピリオドを打った。オフのドラフトでは、この年の夏の甲子園胴上げ投手である小笠原慎之介を競合の末獲得している。また、大砲の補強の為にダヤン・ビシエド、阪神に移籍した高橋聡文に変わる中継ぎ左腕のジョーダン・ノルベルト、固定できなかった抑え候補のフアン・ハイメを獲得した。、球団創設80周年を迎えた。創立80周年記念CMが制作され、OBである和田が出演している。チームは新加入の主砲・ビシエドの活躍で序盤はAクラスに食い込んでいたが、抑えの福谷浩司が安定せず2軍に降格するなど救援陣が固定できなかった。また、交流戦あたりからチームは低迷していき、最下位に転落した。極度の低迷を受けて8月9日に谷繁監督と共に佐伯貴弘守備コーチの休養(事実上の途中解任)が発表された。なお、監督代行は森繁和ヘッドコーチが務めることになった。以降も低迷は続き、本拠地最終戦となった9月25日の阪神戦に敗れ19年ぶりの最下位が確定した。21世紀になってからは初めてであり、21世紀になって最下位を経験していない球団は巨人と西武のみになった。※2007年から採用されたクライマックスシリーズでは2012年まで6年連続でファイナル(2nd)ステージ進出を果たしていた。選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代から1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義:「ガラスの十代」、落合博満:「マグマ大使」など)。1997年のナゴヤドーム移転後からは全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が4つのチャンステーマ以外は高木守道監督(当時)を含む全ての選手応援歌を作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。ただし、8回の攻撃前には「ドラゴンズマーチ」を演奏する(選手用応援歌とは別パート)。他球団では得点時やラッキーセブンで曲が使い分けられることが多いが、中日は得点時・勝利時等で全て「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。応援歌が無い選手には「ガッツだドラゴンズ」(新人王資格あり)、「ドラゴンズマーチ」(新人王資格なし)が演奏される。過去は5年目までが「ガッツだドラゴンズ」、それ以降が「ドラゴンズマーチ」だったが、2004年から2005年オフシーズンに中堅どころのベテランから5、6年目の選手を大量に解雇・放出したこと、大学生・社会人ドラフトの分離によって高年齢ながら入団後まもない選手が増えることが予想されることにより基準が3年目までに変更された。2007年シーズンは「ドラゴンズマーチ」に一本化していたが、2008年シーズンは基準を新人王資格の有無に改め、「ガッツだドラゴンズ」の演奏が復活した。2014年シーズン以降、鳴り物応援が許可されるのは球団公認の応援団のみとなった。新たに新設された私設応援団「中日ドラゴンズ応援団(通称:新応援団)」の主導で再開した応援(2014年シーズン終了時点)では著作権の都合上、以前の応援団が作詞作曲した曲(すなわち「燃えよドラゴンズ!」「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」以外)は使用できなくなり、ほとんどの応援歌が変更されている。なお、全国中日ドラゴンズ私設応援団連合(または旧連合)のFacebookによると、新応援団に元竜心のメンバーが加入したために、連合が所有する既存曲の著作権を全て新応援団に無償譲渡する方針であると2014年10月始めのエントリーで発表したが、これ以降の新しいエントリーがないため、現時点で正式譲渡されたのかは不明である。新応援団公式Twitterアカウント上で春季キャンプイン当日に発表された内容では、新曲情報と共に昨季活動の4試合で歌詞を変えて継続使用した「ドラゴンズマーチ」「ガッツだドラゴンズ」の2曲を2015年以降使用しないという旨が併せて記載された。これによって、チャンスのテーマ・汎用テーマも新応援団が作成した新曲だけとなり、旧連合が作成した楽曲は姿を消すこととなった。名古屋白龍會がリードを担当していた、8回攻撃前に演奏された「ドラゴンズマーチのテーマ」も2007年までに事実上の廃止となり、今は公式球団歌「昇竜 - いざゆけ ドラゴンズ」をショートVerとして独自にアレンジした「我らのドラゴンズ」を同じ8回攻撃前に演奏している。ジェット風船の使用については、それが認められていたナゴヤ球場から空調設備への影響などでそれが禁止のナゴヤドームに本拠地を移して以降、ビジターや地方球場のみ使用している(ジェット風船の色はカラフル)。2012年以降のナゴヤドームでのジェット風船使用解禁試合(高木監督時代は当時着用していた背番号に因んで、8月8日あるいはその近くのナゴヤドーム開催試合で企画された「守道デー」の日に限って行われた)では、中日ファンはプレゼントデーの一環として渡される風船を飛ばしている。球団によれば(環境に配慮したもの)で、来場者への配布用に制作するジェット風船以外の物の使用は禁止とされている。※産業軍時代(1944年) - 中部日本軍時代(1946年)は不明。近年のユニフォームにみる「Dragons」ロゴを分類すると以下のとおりである。これを使用順にすると1→2→3→2→4→2→1となる。商標としては、ロゴ3を1983年2月4日に出願し、1986年2月28日に登録された。登録番号:第1843922号。ロゴ2は1987年から96年の帽子に使用した同じ書体の「D」マークとともに、1990年4月10日に出願し、1993年5月31日に登録された。登録番号:第2543391号。ロゴ2単体でも1991年8月26日に出願し、1994年1月31日に登録された。登録番号:2618847号。1987年 - 1996年に使われたドラ坊や(1981年に登場したマスコットキャラクター)ペットマークも1993年6月29日出願し、1997年10月9日登録された。登録番号:4065874号。ロゴ4は2003年12月22日出願、2004年7月9日登録。登録番号:第4786013号。ロゴ1は商標登録されていない。また、「ドラ坊や」登場前は「東洋龍」に中日新聞マークを添えたものをペットマークに使用。当時のジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた(少年用のレプリカキャップには玉を口にくわえたもの、手に持ったものなど派生版が見られた)。※太字は優勝達成監督2009年まで在籍した立浪和義の背番号「3」も一部有志が永久欠番にしようとして署名活動も行われたものの、実現しなかった。2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された。しかし、森野の要望により2010年は欠番扱いとなった。背番号3は2011年から高校の後輩である吉川大幾が、2015年からは高橋周平が着用している。1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)も永久欠番になっていない。これは、中日で服部と西沢を欠番にするのは両者を辞めさせるときの「妥協点」であり、服部や西沢と違い杉下は当時監督としてチームに残る予定だったので、「保留」にしてもらったという、杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている。また、2015年限りで現役引退した山本昌が入団から着用した34番も永久欠番制定については固辞したとサンケイスポーツから報道されており、2016年からは新人で同じく左腕の福敬登が継承することとなっている。球団マスコットは以下の3体。詳しいことはそれぞれの記事を参照。1996年までは、竜の顔をモチーフにしたヘルメットをかぶり、Dのマークが入ったバットを持った少年(通称:ドラ坊や)をペットマークに使用。中日ドラゴンズのオフィシャル・チアリーディングチームの名称。球団の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移転した1997年にシャオロンのデビューとともに結成された。詳しくはチア・ドラゴンズを参照。現在までに3代目の球団歌が存在するが、後述の応援歌「燃えよドラゴンズ!」の方が幅広く浸透している。本節の出典は特記ない場合。ナゴヤドームの他に下記のように毎年数試合の地方遠征を行う。下記地域はいずれも中日新聞とその支社や支局が発行する北陸中日新聞と日刊県民福井の販売エリアである。なお、豊橋・浜松、岐阜・福井、富山・金沢と球場の場所が比較的近いのを考慮して日程が編成されていることが多い。特に富山・金沢の試合は北陸シリーズとよく呼ばれる(以前は福井を含めた北陸3県での3連戦があったが、現在は前述のパターンでの2連戦が多い)。なお、毎年組まれていた「北陸シリーズ」富山・石川の2試合は、2015年は組まれなかったが、2016年は復活している(福井での開催は2007年が現在の最後となっている)。また、2007年から2010年までの4年間は日本生命セ・パ交流戦の中に組まれており、2011年は5年ぶりにセ・リーグ公式戦(対東京ヤクルトスワローズ戦)が組まれることとなっていた(5月10日・石川、5月11日・富山)が、いずれも中止(富山にいたっては2年連続中止。北陸での代替なし)となった。北陸シリーズが全部中止になったのは近年では異例だった。ファームの場合も毎年地方遠征を行うほか、ナゴヤドームで試合を行うことがあるが(ただし開始時刻が通常より早まるほか、内野エリアのみの開放のため売店も一部のみの営業、バックスクリーンの映像演出がないなど、一軍と比べると様式が違う部分が多い)、通常のナゴヤ球場の場合のようなスタイル(ドラゴンズ公式ファンクラブ会員なら、チケットを買わずに会員証を見せるだけで入場できるシステム。ただし人数制限あり)ではなく、一軍公式戦の時より安価に設定されているものの、チケットを買う必要がある。なお、東海地方でも収容人員の小さい球場しか無い三重県では1951年の中日球場全焼火災の影響で同年9月22日に松阪市営球場で一軍公式戦を行って以来、公式戦の開催実績はない(オープン戦や二軍の試合では四日市市営霞ヶ浦第一野球場、津球場を使うことはある)。また、中日新聞の販売エリアの長野県、滋賀県、和歌山県でも現在のところ一軍・二軍とも試合は行われていない。東京新聞・東京中日スポーツを発行する関東地区はフランチャイズの関係もあり主管試合を行った事例は1952年以後では開催したことがないが、それ導入前に後楽園球場などで開催したり、中日球場の全焼火災により1951年の一部の試合を茅ヶ崎市営球場、川崎球場で開催した事例がある。オープン戦では、上記球場以外に東海4県では小牧市民球場、岡崎市民球場、一宮球場、蒲郡球場、豊田市運動公園野球場、大垣市営球場(北公園球場)、その他キャンプ地の北谷公園野球場でも開催する。過去には串間市営球場、石川市営球場(現・うるま市石川球場)、具志川市営球場(現・うるま市具志川球場)でも過去に試合が行われたことがある。北陸は積雪や気候の問題上オープン戦はほとんど行わない。これらも毎年多くの観客が来場したりしているほか、東海テレビ・CBCテレビ(試合により三重テレビ、テレビ愛知も)で中継されている。東海地方の地方球場での主催試合も中継されている(スカパー!向けも含む)が、2009年3月11日から2014年3月6日(共に小牧市民球場の中日対西武戦)までの約5年間、中継を実施しなかった時期があった。北谷公園野球場の試合は中継されている。在名民放テレビ局に関しては基本的に月刊ドラゴンズ内『ドラ応援番組裏話』を基準とするほか、初回放送分のみ記載する。掲載順はテレビ・ラジオともに放送日(月曜日始点)。応援放送以外でもドラゴンズの話題を取り上げるコーナーやスポット番組があり、メ〜テレは『ドデスカ!』のコーナー「ドデスポ!」で、シーズン中の場合はNHK名古屋放送局では『ほっとイブニング』と『ニュース845東海』で、東海テレビでは『東海テレニュース』後に試合経過や結果を放送している(「ドラゴンズtoday」)。NHKの場合はスコアボードや継投(試合終了時は勝利・セーブ・敗戦投手)、ホームランを放った選手といった情報(「いつでもドラゴンズ速報」)が画面上に表示される(NHKのスポーツニュースで表示されているものと同じ)。東海テレビの場合はスタジオのセット(ブルーバック)以外は手作りのスコアボードがあるのみ。中日ドラゴンズ主催試合の放映権並びに放送権があるのはNHKと中京広域圏内で中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局(CBCラジオ、東海ラジオ)・テレビ4局(CBCテレビ、東海テレビ、テレビ愛知、三重テレビ)のみで、特にテレビ中継による放映権取得分の約8割はCBCテレビと東海テレビに集中している(両局とも中継の数は半々に振り分けているが、概ね月・火・木・土は東海テレビ、水・金・日はCBCテレビに当てられる場合が多い)。同じ中日資本の三重テレビ放送とテレビ愛知も開局当初はホームゲームの中継が出来なかった。しかし三重テレビでは編成の都合上、東海テレビが放映権を得ながら同局で放送できない試合を三重テレビで放送することにより中継開始、また、テレビ愛知でもナゴヤドーム主催試合を2001年よりスタートし(対ヤクルト戦)現在は年数試合が放送されており、2007年には53年ぶりの日本一を達成した日本シリーズ第5戦(制作はナゴヤドームの巨人戦を含めてキー局のテレビ東京)を民放初の完全中継を行った(日本シリーズでTXN系列各局が放映権を得るパターンは、パシフィック・リーグのうち比較的多くの試合を放送する千葉ロッテマリーンズ(テレビ東京)、北海道日本ハムファイターズ(テレビ北海道)、福岡ソフトバンクホークス(TVQ九州放送)が進出した場合に推薦される機会が多く、セ・リーグ側で推薦された実績があるのは現段階で中日のみである)。一方で、非中日新聞社系列のメ〜テレと中京テレビ放送には中日ドラゴンズ主催試合の放映権はなく(日本野球機構〈NPB〉主催の日本シリーズについても同様)、中日ドラゴンズの本拠地開催試合を中継できない(中日のビジターゲームについてはこの限りではなく、系列局制作の阪神戦・広島戦などのビジターゲームは放送することもあり、かつては、巨人戦以外の主要ビジターゲームを三重テレビ放送と岐阜放送が生中継したのち、メ〜テレでそれを編集・再構成して自社スタジオでカラ出張放送した『ビデオナイター・ゴーゴードラゴンズ』の事例もある)。過去には、メ〜テレではネット受けのみならずマツダスタジアム・甲子園球場・神宮球場・QVCマリンフィールド・札幌ドームでのゲームを自社スタッフの実況で中継したことがある。ただし、読売新聞社または毎日新聞社とNPBの主催で開催される日米野球については、メ〜テレと中京テレビのキー局である日本テレビ・NET→テレビ朝日がナゴヤ球場開催分を中継することを中日新聞・中日球団が認め、読売新聞主催時には巨人・中日連合チームが編成されることもあった。また、系列整理より前の1972年2月26日には、特例としてNETが中京テレビとのネットで中日主催の大洋(現DeNA)とのオープン戦(浜松球場)を中継しているが、NETと中京テレビのどちらが制作したかは不詳である。なお当時静岡県にはNET系列局がフルネット・クロスネットとも所在していなかった。また、岐阜新聞社資本の岐阜放送(岐阜テレビ・岐阜ラジオ)にも中日ドラゴンズ主催試合の放映権はない。過去に岐阜テレビではCBCテレビと提携し、CBCテレビで中継できなかったホームゲームを中継したことがあったが現在はしておらず、独立局が中継する中日のビジターゲームを中心に中継する程度に留まっている。但し、日本野球機構(NPB)主催の日本シリーズでは、テレビ愛知が中継する日に限り、中日のホームゲームを中継する場合がある。例として、2007年の日本シリーズ第5戦は、日本シリーズの主催が中日では無く日本野球機構(NPB)で、またテレビ東京制作であるため独立UHF局にも中継協力要請があり、岐阜テレビでも中継が行われた。岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれている。なお、2010年代以降は中日新聞も岐阜放送に出資しているが、放映権についての変化はない。1998年3月29日にはナゴヤドームでオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)主催の対中日のオープン戦が開催された。この場合は中日主催でなかったため、権利上は当然ながらメ〜テレ/ABC・中京テレビ/読売テレビでも中継可能だったが、どのような中継体制だったかは不明。金沢、富山、福井といった北陸3県での主催ゲームは、1990年代初期までは東海テレビが担当していたため、勧進元でもある現地のフジテレビ系列局が積極的に制作協力し、年度によっては実況アナウンサーを現地局側が担当したり、技術面や制作著作そのものを委譲されるなどして現地局でも放送されることもあったが、1990年代中期以降はCBCの担当となり、一部年度で散発的にTBS主導の制作でCBC・現地系列局との3局ネットととなった場合を除き、地元のTBS系列局での中継や、制作協力への関与がない。ラジオも決まって巨人戦を中心とした全国中継カードを放送することが多い。ただし、浜松球場での主催ゲームは静岡放送が独自でラジオ中継を行うことがある。浜松市近郊では、中京広域圏内の中日新聞社系列民放の豊橋局を受信することでゲーム視聴可。また、浜松市内でも2010年以降にはアナログ豊橋局が視聴できなくなる恐れもあるため、J sports2で視聴可。セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、まずは2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。後にヘルメットにもスポンサーが掲載できるようになった。1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回、名古屋軍が追いついて以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言されて試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。当時の後楽園球場は延長15回までスコアが記入できていたが、当然それでも間に合わなかったため、前2試合分のスコア(10回まで)が記載できる下段のボードをも使わざるを得ない状態となった。但し3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日にポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている(史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日のブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。戦前・並びに戦後初期は変則ダブルヘッダー(異なる組み合わせの試合を同じ会場で施行する)のケースが頻繁に行われたが、1952年にプロ野球地域保護権(フランチャイズ=ホームタウン)が制定されてからも、1960年代半ばまでは球場不足により、特に関東の会場でこのようなケースが頻発していた。それ以降変則ダブルは皆無に等しくなるが、1971年10月11日に川崎球場で行われたダブルヘッダーは中日がビジター(アウェー)で、ホームチームが入れ替わるというものだった。というのも日本シリーズ・巨人対阪急の開催が10月12日から行われるのに併せて、それまでにペナントレースを全て終わらせたい意向があったためで、この日の第1試合はヤクルトと、第2試合は本来のホームタウンが川崎の大洋と対戦した。ヤクルトは当時明治神宮野球場が大学野球(東京六大学選手権・東都大学選手権1部リーグ)とデーゲーム日程が重なる場合は大学野球を優先したため、やむをえない事情として川崎球場や横浜公園平和野球場等を借りて試合をしていたため、こういう変則日程が生じた。1974年10月14日、この日ドラゴンズは、20年ぶりのリーグ優勝を
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