ダウンタウン()は、浜田雅功と松本人志からなる日本のお笑いコンビ。大阪・NSCの1期生であり、冠番組を多く持つ、(例:ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!! など)日本を代表するお笑いコンビ。浜田雅功の愛称は「浜ちゃん」、松本人志は「松ちゃん」で親しまれる。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)所属。尼崎市立潮小学校時代に2人は出会う。また、構成作家の高須光聖も同級生であり、浜田とは幼稚園時代に出会っている。高校卒業後、ダウンタウンを結成(ただし、当時のコンビ名は、何回か変更されていた)。独自の感性から作り出された漫才が評価され、後輩芸人にも多大なる影響を与えた。1987年から放送開始した平日夕方の帯番組「4時ですよーだ」(毎日放送)で関西地区で、番組人気と並行して若年層から支持を獲得する。ちなみに高須光聖はこの作品でデビュー。1988年から放送開始した「夢で逢えたら」(フジテレビ)では全国的に人気に火が付き東京進出を成し遂げる。1989年後半から1990年初頭にかけて「お笑い第三世代」と呼ばれたとんねるず、ウッチャンナンチャンらと共に次世代のお笑いタレントの代表的なコンビとなった。1991年から放送開始した「ダウンタウンのごっつええ感じ」(フジテレビ)では作り込んだシュールなコントが視聴者に受けた。このことから、関西、関東の多くの芸人が、お笑い芸人となるきっかけを作ったコンビであり、ダウンタウンの影響を受け、漫才、コントで、お笑い芸人になっている。多くの芸人に影響を与えたお笑いコンビである。なお、解散する際は、なんばグランド花月で、漫才を披露して解散をすることを公言している。1982年3月、日生学園第二高等学校(現・青山高等学校)を卒業した浜田が競艇選手になる為に受験するが不合格、一方松本は兵庫県立尼崎工業高等学校卒業と同時に印刷工の就職内定を得る。競艇選手の夢が破れた浜田は、その年に吉本興業が開校した新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)の1期生募集ポスターを見つけ、就職先が内定していた同級生の松本を誘い、同年4月4日にNSC1期生として入学。なお、松本は当時松竹芸能入りを希望していたが、浜田に促され結局吉本興業に所属することになったという。入学後すぐに漫才の才能が認められ、デビュー2ヶ月目にはテレビ初出演となった毎日放送の「素人名人会」にて名人賞を獲得。その1ヵ月後には「第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」で福笑い大賞を受賞。大賞受賞の功績としてNSC在学生では異例の早さで「なんば花月」の舞台を5日間であるが特別出演する。同年8月には、当時フジテレビの平日お昼の人気番組だった「笑ってる場合ですよ」の素人・アマチュア芸人の勝ち抜けコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「まさし・ひとし」で出場し5週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。NSC在学中から注目されるコンビであり、NSC1期生卒業後には吉本興業が1983年度の第2期生を開校するに当ってNSCからニュースターを生み出す為、1期生からトミーズ、ハイヒール、銀次・政二、そしてダウンタウンの「ノーブランド芸人」と呼ばれる4組で 「新人ゴリ押し作戦」が行われた。だが他の同期生は新人ながらレギュラー番組や関西若手漫才賞レースで活躍していた中、2人は花月の劇場回りの日々を送っており、この年の関西の若手漫才賞レース「第13回NHK上方漫才コンテスト」「第4回ABC漫才・落語新人コンクール」(現:ABCお笑いグランプリ)に出場するも落選の連続、一部の芸人達からは評価されていたものの新人賞レースでは同期生に遅れる形となった。地道な芸能活動の頃、1983年4月21日大阪市難波にある阪急ファイブ8F・オレンジルームでハイヒール、銀次・政二と共に「花月のような笑いからかけ離れた笑い」「アンチ吉本・アンチ花月」とテーマを掲げたコントライブ「ごんたくれ」(全3回)の第1回公演を開催。この「ごんたくれ」は後の心斎橋筋2丁目劇場の笑いの原型を開拓させたイベントでもあった。ダウンタウンは当時、漫才を中心に活動していたが、コントはこの時期に始めている。また、「松本・浜田」「ひとし・まさし」「ライト兄弟」などで活動していたが、喫茶店でたまたま開いた雑誌の文字からコンビ名をダウンタウンに改名、同年6月6日になんば花月上席(6月6日 - 6月10日)で劇場デビューを果たす。1984年、ダウンタウンは再び新人賞レースに出場。前年に本選で落選した「NHK上方漫才コンテスト」の第14回大会では優秀賞、同時期には「ABC漫才・落語新人コンクール」第5回大会で漫才の部・最優秀新人賞を獲得、見事2大会で受賞を果たした。当時の花月三館(なんば花月・うめだ花月・京都花月)は漫才ブームが過ぎ去り、客層が若年層よりも年配層が多くを占めており納得する笑いが取れず模索していた時期に、養成所時代から2人のマネージャー的存在であった大崎洋(現在は吉本興業代表取締役社長)が才能はあるが注目度が低かったダウンタウンに対して「彼ら(ダウンタウン)の場を作ってやらんといかん」 と大崎が発起人となり、当時大阪・心斎橋に南海電気鉄道が賃貸契約していた劇場「南海ホール」で笑いのターゲットを若年層に絞り、ダウンタウンを中心に集まった若手芸人と共に、1984年7月12日「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」(通称「心劇」)を毎週末に開場する。1985年春、ダウンタウンにとって大きな転換期を迎える。5月のうめだ花月上席(5月1日 - 5月20日)の舞台にて、出番があったダウンタウンの漫才を舞台袖で出番待ちをしていた紳助・竜介の島田紳助がたまたま目にしたダウンタウンの漫才を前に自分達の限界を感じ、当日に吉本興業本社に出向きコンビ解散を告げる。同年5月20日に、紳助・竜介解散会見にて紳助の口から「阪神・巨人やサブロー・シロー、ダウンタウンには勝てない」と紳助は当時無名に近かったダウンタウンの名前を挙げ、この発言がキッカケで徐々に名が広まるようになる。その直後の1985年秋、太平サブロー・シローがメインを務めた関西テレビの深夜番組「今夜はねむれナイト」内の3分程度のコントコーナー『ダウンタウン劇場(シアター)』でテレビレギュラー番組を獲得、ラジオ大阪では若者向けのラジオ番組「おっと!モモンガ」の金曜日の司会者として抜擢され、南海ホールでの定期的ライブ「心斎橋筋2丁目劇場」も徐々に反響を呼ぶようになり多くの若者から支持を受けるようになった。1986年初頭には南海ホールで定期的に開催していたライブ「心斎橋筋2丁目劇場」は入場出来ない程の観客が詰めかけるようになり、劇場からは非常階段、130R、今田耕司、東野幸治などの新たな芸人達が活躍するようになっていた。同時期に南海ホールの経営が吉本興業になった際、「大阪にもスタジオアルタのようなホールを創ろう!」と企画が持ち上がり、総工費約2000万円をかけて改装するのが決定。同年4月12日に南海ホールとしては最終公演となる「心斎橋筋2丁目劇場」が開催された。5月16日に正式に「心斎橋筋2丁目劇場」(通称「2丁目」「2丁目劇場」)としてリニューアルオープン。笑いに敏感な大阪の若者達が連日劇場に足を運ぶようになり、オープンから3ヶ月後の8月6日に大阪城野外音楽堂で当時の2丁目劇場主要メンバーで行ったライブ「おさわがせ2丁目探険隊 来てもた大阪城」を開催すると、約1000人もの観客が集まり大成功を収めた。2丁目劇場リニューアルから一年たった1987年4月6日、毎日放送でダウンタウンがメインで平日夕方の帯番組「4時ですよーだ」が放送開始。この番組を機にメインであったダウンタウンの人気が爆発、同年9月27日には大阪厚生年金会館(現:オリックス劇場)で「DOWNTOWN SCANDALS」というコンサートを開催すると会場は若年層の女性ファンで超満員であった。その人気に肖って、当時の吉本若手タレントでは珍しく写真集の発売や歌手としてデビューアルバムも発売させる。このダウンタウン人気で吉本総合芸能学院の1987年度(第6期生)・1988年度(第7期生)の生徒数が第6期生以前の総数よりも増加する現象も起こった。関西で爆発的な人気を獲得したダウンタウンはその勢いで東京へも活躍の場を広げる。1988年10月13日に、フジテレビ系で若手お笑いタレントを総称した俗称「お笑い第三世代」の、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコと共にコント番組「夢で逢えたら」が関東ローカル(後に全国ネット)としてスタート。同時期にはダウンタウンの東京進出の足掛かりとなった2丁目劇場東京公演「おでかけでっせ、ラフォーレまっせ」をラフォーレ原宿で不定期に開催させる。吉本興業側から東京進出命令が下り、1989年9月29日に「4時ですよーだ」が最終回を迎え10月には本格的に東京進出を遂げる。この東京進出以前にもダウンタウンは「笑ってる場合ですよ!」「ひょうきん予備校」「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」「ひょうきんミニ放送局」「初詣!爆笑ヒットパレード」(以下、フジテレビ制作)などの東京発のバラエティ番組にもレギュラー・ゲスト出演していたが、「4時ですよーだ」もあり本格的には進出はしなかった。東京進出後の同年10月3日、日本テレビ系で「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が火曜深夜枠で放送開始(後に日曜23時台に昇格)、「ガキの使い」は数々の企画と過激なものからシュールなものまで様々なバリエーションの企画が受け、現在では大晦日に年越し特番として番組の人気企画笑ってはいけないシリーズを放送、『NHK紅白歌合戦』の裏枠での民放最高視聴率を叩き出している。1991年12月8日、3度の特番放送を経てフジテレビ系の日曜夜20時台のゴールデンタイムで「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送開始。「ごっつええ感じ」ではダウンタウンが得意とするシュールなコントで全国的に不動の人気を獲得し、全盛期には視聴率20%を越える人気番組へと成長。1993年10月21日には読売テレビ制作の全国ネット番組「ダウンタウンDX」が、1994年10月17日にはフジテレビで音楽番組「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」が放送開始。お笑いに留まらず多方面へと活躍の幅を広げた。浜田は東京進出後に数々のドラマに出演・主演などの俳優業にも分野を広げ(ADブギ、人生は上々だ、竜馬におまかせ!など)、1995年3月15日には浜田は小室哲哉と音楽グループ「H Jungle with t」を結成し、第1弾シングル「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を発売するとオリコンチャートで7週連続1位を獲得し、CDセールスは200万枚の大ヒットとなった。同年の大晦日放送第46回NHK紅白歌合戦にも出演。一方松本はお笑いの活動を続け、1994年には入場料1万円のライブ「寸止め海峡(仮題)」、1995年には日本武道館で初のお笑い芸人の1人単独ライブ「松風'95」が行われ独自の笑いを生み出し続けていった。1993年から1995年にかけて、松本が週刊朝日に連載していたエッセイ(オフオフダウンタウン)が単行本化される。題名は『遺書』『松本』で、それぞれ250万部、200万部を売り上げた。1995年には芸能人長者番付で松本人志が1位、浜田雅功が2位となった。1997年11月、番組改編期でもない11月に「ダウンタウンのごっつええ感じ」が突如打ち切りとなり、それを受けダウンタウンのバラエティ番組の傾向が変化していく。(詳細はダウンタウンのごっつええ感じ#突然の放送終了参照)。2001年4月21日に日本テレビ系で浜田主演のドラマ「明日があるさ」が放送開始。このドラマの主要メンバーで構成された音楽グループ「」を結成し、「明日があるさ」をリリースすると、同年の大晦日放送の「第52回NHK紅白歌合戦」にも出場した。2001年10月12日、突如打ち切りとなった「ごっつええ感じ」が「ダウンタウンのものごっつええ感じスペシャル」として一夜限りの復活を遂げるが、視聴率は9.0%で、同時間帯の他局の番組に惨敗しただけでなく同時間帯視聴率は民放各局で最低という不本意なものとなり、これ以降ダウンタウンとして10年間、地上波テレビ放送ではコントを披露することがなかった。2004年11月17日、作詞:松本人志、作曲・バックコーラス:槇原敬之、歌:浜田雅功として「チキンライス」を発売。2011年11月5日、NHK総合で松本出演のコント番組「松本人志のコントMHK」のレギュラー放送第1回目のゲストとして相方である浜田とコントを披露。ダウンタウンとしてコントを披露するのは2001年放送の「-ものごっつええ感じスペシャル」以来である。2012年4月8日、吉本興業100周年特別公演にダウンタウン、今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一などで、かつて花月で行われていた興行「ポケットミュージカルス」を復活。公演内容は「ごっつええ感じ」の男性陣で構成された人気コントキャラエキセントリック少年ボウイオールスターズによる「「エキセントリック少年ボウイ」のテーマ」や浜田が「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント」を熱唱するという豪華なラインナップとなった。2013年2月5日〜3月2日、吉本興業100周年記念公演「吉本百年物語 アンチ吉本 お笑いレボリューション」で、ダウンタウンが若手時代に活躍していた劇場『心斎橋筋2丁目劇場』を舞台化。この公演でダウンタウンを間慎太郎(浜田雅功)、趙珉和(松本人志)が演じる。2013年3月29日、読売テレビ制作・日本テレビ系で放送されている『ダウンタウンDX』のテレビ放送では未放送である、ダウンタウンの前説をDVD化した『ダウンタウンの前説 vol.1』『ダウンタウンの前説 vol.2』を発売。2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で、一部ネットなどで不仲説が囁かれていた、とんねるず(石橋貴明・木梨憲武)と1994年「FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル」以来約20年ぶりの共演を果たし、同じく不仲説が囁かれていた、爆笑問題(太田光・田中裕二)とは1990年1月1日放送の『初詣!爆笑ヒットパレード』以来24年ぶりの共演となった。また、当番組には戦友でもあるウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)とも、コンビとしては、1998年「いろもん豪華特別版」以来16年ぶりに共演している。ダウンタウンの笑いについて松本は熊本地震 (2016年)発生直後の「ワイドナショー」で「やっぱり笑いって、仕掛ける方も仕掛けられる方も、ある程度の余裕がないと、成立しないものだと思うんですね。笑いって緊張と緩和と言うけど、これだけ極度の緊張の中で、中途半端な下手な笑いをするとね、怒りが生まれるのは当然だと思うんですよ。許される笑いと、許されない笑いというか。例えばダウンタウンの笑いは、こういう時は不謹慎ですね。ダウンタウンは、こういう時は出る幕はないと思いますね」と述べており、東野幸治が「どういうタイプなら?(出ていいのか)」と聞くと、松本はウッチャンナンチャン、「笑点」、「笑っていいとも!」などを挙げている。ダウンタウンとしての出演番組を記載。ピンでの出演作品は浜田雅功と松本人志の出演の項目を参照。
出典:wikipedia
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