松江市(まつえし)は、島根県の東部(出雲地方)に位置する市。同県の県庁所在地である。
2012年(平成24年)4月1日に特例市に移行した。また、2018年(平成30年)4月1日の中核市移行を目指す。北は日本海に接する島根半島と宍道湖と中海に挟まれた地域に広がる都市。松江藩の城下町を中心に発展してきた山陰最大の人口を擁する中心都市であり、鳥取県の米子市とともに中海・宍道湖経済圏の中核を担う。宍道湖から中海に注ぐ大橋川によって市街地は南北に二分され、北側が橋北(きょうほく)、南側が橋南(きょうなん)と呼ばれる。1914年(大正3年)まで大橋川には松江大橋が架橋されていただけであったが、現在は西から順に宍道湖大橋・松江大橋・松江新大橋・くにびき大橋の4大橋が市街地に架橋されており、くにびき大橋の東側に松江だんだん道路の縁結び大橋(2012年3月24日開通)が、河口付近に中海大橋が架橋されている。宍道湖畔、大橋川の両岸に築かれた町であることや松江城下の堀川の保存状態も良いことから「水の都」とされ、水郷水都全国会議の第1回会議は松江市で開催された。日本海側気候であり、冬は曇りや雨、雪の日が多い。ただし、大陸からの距離が比較的近いために雪雲がそれほど発達せず、また宍道湖や中海に囲まれる海洋性の影響から気温は比較的高く、年間降雪量は89㎝と同じ山陰の鳥取市の214㎝や米子市の133cmと比べると降雪量は少ない(松江市をはじめ、島根県の日本海沿岸部は豪雪地帯には指定されていない)。過去最深積雪は1971年2月4日の100cmで唯一の積雪1m超えである。近年では2011年1月1日に積雪56cmを記録し久々に大雪となった。春から秋にかけては比較的好天の日が多い。夏は蒸し暑い。乃白町の田和山遺跡、大庭町の茶臼山周辺に点在する古墳群、大草町の出雲国庁跡、竹矢町の国分寺跡など、古代から奈良時代の多くの遺跡が松江市南部の意宇川下流域、中海周辺で発見されている。縄文時代からの遺跡も中海、宍道湖周辺には多い。国宝の本殿を有する神魂神社は出雲大社の元の地である。最古の埴輪も発見され、風土記以前からの朝酌の市など、中海圏域が古くからアジアとの玄関口として栄えただろうことを窺い知ることができる。また黄泉比良坂など神話に出てくる地も多く残る。中海から来て大橋川にいたるところの「矢田の渡し」は風土記の時代からいまだ現存し動いている。出雲王朝ー大国主命や事代主神から大和王朝に権力が譲られたという「国ゆずり」の神話による「青柴垣神事」「諸手船神事」は今も美保関町で行われている。室町時代は出雲守護を代々継承した京極家の守護所が置かれた。戦国時代には京極家分家の尼子家(安来市)が台頭したため支配下におかれる。本格的に開発が進んだのは、堀尾吉晴が1607年 - 1611年の足かけ5年をかけて松江城及びその城下町の建設を行って以降のことである。1634年(寛永11年)京極忠高が若狭小浜藩より転封となり松江藩主となる。城下は近世都市として整備され山陰の都として栄えた。江戸時代中期以降は親藩松平家(松江藩)の城下町として盛えた。中でも有名な藩主が「松平不昧公」の異名を持つ松平治郷である。明治時代になると、松江は島根県の県庁所在地となった。小泉八雲が訪れたのもこの時代である。松江市は山陰地方の拠点都市の1つであり、鳥取県の米子市と共に鳥取・島根両県を統括する支店が多く置かれているほか山陰地域で展開する企業の本社も多い。データは2005年。銀行政策金融機関協同組織金融機関日本郵政松江市立の小中学校については こちら を参照のこと。太字の小学校は標準服の着用が求められる(但し平常時に限り私服登校を認めているところもある)。中心となる駅:松江駅2005年3月31日の合併により、新制による松江市が発足した。このため、住所表記が以下の通り変更された。また、大字は表示しない。2011年8月1日に東出雲町も合併したが、同様に住所表記が以下の通り変更された。
出典:wikipedia
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