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蒼龍 (空母)

蒼龍(そうりゅう / さうりう)は、大日本帝国海軍の航空母艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては御召艦蒼龍に続いて2隻目。戦闘詳報には、「蒼竜」の漢字表記も併用されている。なお戦後、この名称は海上自衛隊のそうりゅう型潜水艦の1番艦「そうりゅう」に引き継がれた。蒼龍は昭和9年度(1934年度)に建造が計画され、1937年(昭和12年)に竣工した中型航空母艦である。当初は航空巡洋艦として建造する案もあったが、先行艦(赤城、加賀、龍驤)の運用経験を取り入れ、純粋な航空母艦として建造された。竣工後は日本の主力空母として運用され、太平洋戦争においては日本の機動部隊の主力として真珠湾攻撃などに参加し、ミッドウェー海戦においてアメリカ軍機の攻撃を受け沈没した。ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約によって、帝国海軍の航空母艦は8万1000トンに制限されるようになり、空母4隻(鳳翔、赤城、加賀、龍驤)の排水量を差し引きした残枠は12630トンであった。このうち、1922年(大正11年)竣工の鳳翔は条約で定められた廃艦に出来る艦齢16年に間もなく達する予定であったため、帝国海軍は鳳翔の代艦分8370トンも加えた残枠21000トンを用いた航空母艦2隻の建造を計画した。昭和7年度(1932年度)に設計された基本計画番号G6案では、基準排水量12000トン、20.3cm連装砲3基6門、12.7cm連装高角砲6基12門、艦上機70機を搭載する航空巡洋艦として計画されていた。このG6案が発展した昭和9年度(1934年度)のG8案では、基準排水量10050トン、20.3cm連装砲1基、三連装砲1基5門、12.7cm連装高角砲10基20門、艦上機100機が要求されたが、10050トンの艦体に収めるのは不可能であり、最終的には15.5cm連装砲1基、三連装砲1基5門、12.7cm連装高角砲8基16門、艦上機70機の計画となった。昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)によってこのG8案を具体化する形で建造開始される予定であったが、建造開始直前の1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件の結果、この設計では艦体に比して過大な装備となることが懸念され、最終的には15.5cm砲を搭載しない形に改設計されて建造開始された。これが後の蒼龍である。基本計画番号はG9となった。また、蒼龍建造開始後の1935年に第四艦隊事件が発生したため、更に改設計されている。この時、本艦の溶接構造に異常がないかを確認するため、進水後の船体を二箇所で輪切りにして調査を行った。当初、蒼龍型航空母艦は軍縮条約の枠内で2隻を建造する予定であったが、蒼龍の建造開始直後の1934年(昭和9年)12月に日本はワシントン軍縮条約からの脱退を通告しており、1936年(昭和11年)12月に条約の効力が切れることが確定した。このため、排水量を抑える必要がなくなり、2番艦は蒼龍から更に拡大設計されて建造されることになっている。これが後の飛龍である。なお、蒼龍は軍縮条約の関係各国に対して、排水量10000トン、水線長209.84m、最大幅20.84mと通知された。戦前に公表されていた排水量1万トンという数値からアメリカ海軍内部では、蒼龍型航空母艦は実際は1万6千トンクラスであるのに、小型空母というイメージが根強く残っていた。ミッドウェー海戦で蒼龍を攻撃したSBDドーントレス急降下爆撃機の乗員が戦後に取材されたところ、彼は上空から見た艦の大きさから爆撃したのは大型空母加賀だと思い込んでおり、取材者に蒼龍だったと指摘されると気色ばんで「そんな小さな空母を爆撃したと言うのか」と詰め寄ったという逸話がある。事実、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン攻撃隊は戦闘詳報でいずれも『赤城または加賀を攻撃した』と記録しており、『蒼龍を攻撃した』と報告した飛行隊はなかった。蒼龍は建造に至るまで、航空巡洋艦も検討されるなどの紆余曲折があったものの最終的には先行艦(鳳翔、赤城、加賀、龍驤)の運用経験に基づいて設計されており、日本初の本格的空母として誕生した。だが第四艦隊事件のため船体を輪切りにしたり、また工事中に搭載予定航空機の機種や機数も幾度か変更されたため、艤装には困難が伴った。蒼龍が竣工した頃に日本海軍の空母運用法が確立されており、第二艦隊に配属され、1934年(昭和9年)に制式化された九四式艦上軽爆撃機(後の艦上爆撃機)をもって敵空母を無力化し、制空権を握る任務に就くこととされていた。巡洋艦部隊である第二艦隊に配属される予定であったことから、蒼龍の各種要目は、この任務中におけるアメリカ巡洋艦との遭遇戦を考慮して決定されている。その後の日本空母が34kt前後の速力と、20cm砲に対する防御を求められたのはこのためである。その他の兵装上の特徴としては25ミリ機銃の配置が挙げられる。蒼龍には25ミリ機銃は14基あったが、このうち3基は艦首に搭載された。艦首に兵器を搭載するのは本艦が初めてであった。艦橋は右舷前部にあり、右舷中部に下方排出式の煙突を2つ持つ。エレベーターは3基。後部エレベーター脇には揚収用クレーンを備え、加賀や龍驤に見られた格納庫後端の扉は廃止されている。15万馬力の機関を搭載した蒼龍の最大速力は34.9ktを記録し、日本海軍では最も高速の航空母艦であった。また、排水量制限のために搭載機数は大型空母(赤城、加賀)より少ない。少しでも格納庫スペースを確保するために、ボイラーへの給気や機関室の排気などは船体中央付近の舷側に外付けされた箱型の通風筒で行われており、蒼龍、飛龍の外見上の特徴となっていた。航空関連の艤装としては、艦尾の着艦標識、滑走静止装置などがある。これらは後に日本空母の標準装備となっていくが、建造当初から設置されたのは蒼龍が初めてであった。なお、従来艦上機からの個艦識別用として飛行甲板後端に「サ」の文字が書かれていたとされてきたが、最近では無記入であった説が有力となっている。根拠としては、と、ミッドウェー作戦時の空撮写真にそれらしいものがまったく写っていないことがある。ほぼ同条件で撮影された飛龍はかろうじて「ヒ」の文字が判読できるため、小さすぎて画像が潰れてしまっているわけではない。中型空母としての性能は申し分ないものだったが、他の日本空母と同様にダメージコントロールの面では米英空母と比べると劣っており、3箇所のエレベーターの前後に防火鎧扉が設けられ、炭酸ガスで火災を消火するという方式である。さらに航空機格納庫は密閉式だったため爆風を逃すことが出来ず、喪失の原因となった。こうした欠点は、可能な限り多くの航空機を搭載し、所属戦闘機によって敵機を排除しようという発想からきているものであった。また、竣工から喪失までの間に大きな改装を受けることはなかったが幾度か小改装を施されている。右舷に設置されたマストは、竣工時には艦橋直後の信号マスト1本と、無線マスト25mm機銃の間に無線マスト1本の計2本であったが、1939年の時点では5番高角砲の後部に無線マスト1本が増設されている。他に竣工時にあった2本の滑走静止索のうち、後方のものは撤去され、残った1本の前後に新たに装備され、計3本になった。右舷に設置された艦橋は駆逐艦の艦橋とほぼ同規模の大きさである。1941年に防空指揮所を拡大したという資料が残るというが、確認できる写真が残されていない。1942年には羅針艦橋前面に水面見張所を増設、防空指揮所を更に拡大した改正図が残されているが、こちらも実際に工事を行ったかを確認する写真は残されていない。空母蒼龍は呉海軍工廠にて1934年(昭和9年)11月20日に起工した。書類上では1935年(昭和10年)1月23日に進水したことになっている。実際には12月23日に進水した。12月23日、大野一郎大佐(10月31日まで空母龍驤艦長)は、蒼龍艤装員長に任命される。1936年(昭和13年)4月1日、大野(蒼龍艤装員長)は横須賀海軍航空隊へ転任し、後任は奥本武夫大佐となった。12月1日、奥本(蒼龍艤装員長)は高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長へ転任、後任は別府明朋大佐となった。1937年(昭和12年)8月16日、別府大佐は制式に蒼龍初代艦長に任命された。11月11日の公試では排水量18871トン、機関出力15万2483馬力で34.898ノットを発揮した。12月1日、別府大佐は蒼龍艦長の任を解かれ(後日、別府は空母飛鷹艦長、千代田艦長、大鷹艦長等)、後任の蒼龍艦長には寺岡謹平大佐が任命された。12月29日、引渡し。1938年(昭和13年)11月15日、寺岡(蒼龍艦長)は空母赤城艦長へと転任された。後任の蒼龍艦長は上野敬三大佐となる。12月15日、第二航空戦隊(司令官鮫島具重少将)へ編入された。1939年(昭和14年)10月15日、蒼龍艦長は軍令部課長山田定義大佐に交代する。10月20日、第二航空戦隊司令官も戸塚道太郎少将に交代(鮫島は11月15日より侍従武官)。同年11月15日、準同型艦飛龍の編入にともない、二航戦は空母2隻(蒼龍、飛龍)および第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)という戦力になる。1940年(昭和15年)10月15日、山田(蒼龍艦長)は空母加賀艦長へ転任、後任の蒼龍艦長は水上機母艦瑞穂艦長蒲瀬和足大佐となった。11月1日、戸塚少将は第一航空戦隊司令官へ転任し、山口多聞少将(第一航空連合隊司令官)が第二航空戦隊司令官となる。11月25日附で蒼龍艦長は横須賀海軍航空隊副長上阪香苗大佐に交代する。1941年(昭和16年)3月、ベトナムとタイとの国境紛争を調停すべく南方へ進出中、第二十三駆逐隊(菊月、夕月)の駆逐艦夕月と衝突事故を起こした。蒼龍艦首が夕月左舷中央部に乗り上げ、破口が生じた。両艦とも沈没の危険はなかったが、蒼龍は搭載機をうつしたのち佐世保に戻ってドックに入った。4月、修理を終えた蒼龍は横須賀に回航された。同年4月10日、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)は、新設された第一航空艦隊に編入される。太平洋戦争開戦前の7月には南部仏印進駐作戦の支援を行った。9月12日、上阪大佐(蒼龍艦長)は海軍航空本部教育部長に転任し、赤城艦長長谷川喜一大佐が蒼龍の艦長を兼務することになった。同日附で内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、第12駆逐隊(叢雲、東雲)は空母蒼龍、飛龍と第二航空戦隊を編制予定であった。しかし太平洋戦争の勃発により、第12駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。10月6日、長谷川大佐は赤城・蒼龍艦長の兼務を解かれ、柳本柳作大佐が蒼龍の艦長に任命された。太平洋戦争の開戦にあたり、日本海軍は真珠湾攻撃を計画した。この際、蒼龍は新型の翔鶴型航空母艦や大型空母加賀よりも航続距離が短く、補給を受けたとしても真珠湾まで往復できるか危ぶまれた為、第二航空戦隊司令官山口多聞少将の独断で2隻(蒼龍、飛龍)は、赤城と同様に大量の重油入りドラム缶を艦内に搭載することで参加できる目途が立った。第二航空戦隊所属の艦載機部隊は、艦上攻撃機隊32機が海軍航空隊出水基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、出水海軍航空隊#戦後の出水基地参照)、艦上爆撃機隊36機が海軍航空隊笠ノ原基地(鹿屋航空基地から約5km東にあった)を訓練基地として、そして第二航空戦隊ならび第一航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、佐伯海軍航空隊#戦後の佐伯飛行場参照)を訓練基地として、錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、1941年(昭和16年)11月16日佐世保基地にいた加賀以外の第一航空艦隊(南雲機動部隊)空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、蒼龍には第二航空戦隊旗艦として山口少将が座乗し、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けて、機動部隊旗艦(赤城)に集合した搭乗員達へ真珠湾攻撃の全貌が明かされた際には、母艦に戻った搭乗員達の間で酒宴となり、山口司令官や柳本艦長を胴上げして気勢をあげている。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈と麾下の駆逐艦9隻(第18駆逐隊《霞、霰、陽炎、不知火》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第五航空戦隊《秋雲》)が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を個別に目指した。艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入り、11月26日南雲機動部隊の一翼として単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。12月8日真珠湾攻撃に参加した蒼龍の艦上機の詳細は以下の通りである。九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:分隊長阿部平次郎大尉、雷撃隊8機=指揮官:分隊長長井彊大尉)、零戦8機=指揮官:分隊長菅波政治大尉九九式艦爆18機=指揮官:飛行隊長江草隆繁少佐、零戦9機=指揮官:分隊長飯田房太大尉宣戦布告遅延問題は別にして、ハワイ攻撃は戦術的な成功を収めた。もっとも森拾三(雷撃隊2番機操縦士)によれば、事前説明があったにも関わらず艦攻3-4機がフォード島北岸に停泊していた標的艦ユタを雷撃している。ユタは旧式戦艦を改造した2万トン級標的艦だったため、雷撃機隊員が「戦艦」と誤認したのである。蒼龍は第二波攻撃隊から零戦3機、九九艦爆2機が未帰還となった。南雲機動部隊は所在不明の米空母エンタープライズやレキシントンを捜索しながら日本への帰途についた。江草隆繁少佐は山口多聞少将や柳本艦長を通じて米空母の徹底捜索と撃滅を進言したが、南雲中将や草鹿参謀長は艦隊の保全を優先している。同時期、ウェーク島攻略にむかった日本軍第四艦隊(司令長官井上成美中将:旗艦鹿島)・第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:旗艦夕張)は島を守るアメリカ海兵隊の反撃によって思わぬ苦戦を強いられ、駆逐艦2隻(如月、疾風)を撃沈され撃退された。ハワイからの帰投中だった第二航空戦隊はウェーク島攻略の支援を命じられ、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の8隻(第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第八戦隊《利根、筑摩》、第17駆逐隊第1小隊《谷風、浦風》)は南雲機動部隊主隊から分離、12月18日より南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)の指揮下に入った。。12月21日、零戦9機、九九艦爆14機がウェーク島に空襲を行った。22日の空襲では零戦3機、九七式艦攻16機が出撃した。ウェーク島到達直前、アメリカ軍戦闘機F4Fワイルドキャットの奇襲を受け九七艦攻3機(含1機不時着着水)が撃墜されるが、そのうちの1機は水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇 一飛曹機であった。23日には第一波(零戦6、艦爆6)、第二波(零戦2、艦攻9)が出撃し、上陸した海軍陸戦隊の支援をおこなった。同日、ウェーク島は陥落。12月23日附で南洋部隊の指揮下を離れ、12月29日に日本本土に戻った。1942年(昭和17年)1月18日、蒼龍はパラオ諸島に到着した。蒼龍の航空隊はペリリュー島に移動して待機していたが、この間「アメリカ軍潜水艦7隻出現」の索敵報告により、緊急出動している。実際はイルカの大群の誤認であったという。1月21日、飛龍と共に出港しモルッカ諸島アンボン島の州都アンボン港湾・船舶を零戦9、艦爆9、艦攻9が攻撃した。24日にも同機数がアンボン港湾を襲っている。2月15日、南方部隊に編入されて出撃、オーストラリアに向かった。2月19日、ポート・ダーウィン空襲に零戦9、艦爆18、艦攻18が参加し、カーチスP-40キティーホーク9機を撃墜、艦爆1機が不時着救助された。この空襲ではアメリカの駆逐艦ピアリーなど8隻が沈み、オーストラリアのスループ、スワンやアメリカの水上機母艦ウィリアム・B・プレストンなどが損傷している。同日、九九艦爆9機が連合軍特設巡洋艦を攻撃し、250kg爆弾3発命中を記録して撃沈している。2月21日、蒼龍はスラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾に入港した。3月1日、偵察帰りの九七式艦攻が、クリスマス島南方でフリーマントルに向かう途中のアメリカ給油艦ペコス("USS Pecos, AO–6")を発見、12時55分に空母加賀が九九式艦爆9機からなる攻撃隊(指揮官:渡部俊夫大尉)を発進させ、次いで蒼龍も13時9分に九九式艦爆9機からなる攻撃隊(指揮官:池田正偉大尉)を発進させてペコスに向かわせた。加賀攻撃隊は13時21分にペコスを発見して攻撃態勢に入り、ペコスに直撃弾1発と至近弾8発を与えたが、ペコスも対空火器で応戦して4機が被弾した。加賀攻撃隊は14時39分に加賀に帰投してきた。蒼龍攻撃隊は、加賀攻撃隊がペコスを攻撃中の13時30分に現場に到着。加賀攻撃隊が引き上げていった後に攻撃を開始し、命中弾3発と至近弾1発を与えたが、依然対空砲火はすさまじく5機が被弾した。しかし、ペコスは度重なる被弾で左に15度傾き、やがて艦首を先にしての地点にて15時48分に沈没した。蒼龍攻撃隊は15時1分に蒼龍に帰投し、ペコスの沈没の瞬間は見ていない。同日午後7時、蒼龍艦爆9機が戦艦比叡や重巡利根、筑摩の砲撃をたくみに回避していた駆逐艦エドサル("USS Edsall, DD-219") を爆撃して航行不能とし、撃沈のお膳立てをした。3月5日、蒼龍攻撃隊がジャワ島チラチャップを空襲して商船3隻撃沈、14隻が損傷したあと自沈した。その後、南雲機動部隊はスマトラ島南方で脱出する連合軍艦艇の捕捉につとめた。3月6日午前、山口少将指揮下の8隻(第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、金剛》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》)は南雲機動部隊本隊から分離、掃蕩を開始した。山口司令官は第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)の護衛に17駆第2小隊(浜風、磯風)を残すと、第三戦隊(第2小隊《榛名、金剛》、17駆第1小隊《谷風、浦風》)をクリスマス島砲撃に向かわせた。同日午後1-2時に艦爆6・艦攻2が商船プーラウ・ブラスを撃沈、午後4時に艦爆7機が商船4隻を攻撃、商船ウールガーを撃沈したのみで、決定的な戦果を挙げるには至らなかった。3月11日、スターリング湾に入港する。3月26日、南雲機動部隊(赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)として出撃し、インド洋へ向かう。4月5日のセイロン沖海戦にも機動部隊の一角として参加、英駆逐艦テネドス、仮装巡洋艦ヘクターを撃沈した。さらにイギリス軍東洋艦隊を襲撃した際には、他空母攻撃隊と協同して英空母ハーミーズ、重巡洋艦ドーセットシャー、コーンウォール、豪駆逐艦ヴァンパイア、コルヴェット艦ホリホック、給油艦アセルステーン、ブリティッシュ・サージャントを撃沈した。同海戦での蒼龍艦爆隊の命中率は78%にも及び、各地で華々しい戦果を挙げた。4月18日のドーリットル空襲の際には台湾海峡を航行中だったため、千葉県沖にいたアメリカ軍機動部隊(エンタープライズ、ホーネット)を捕捉することはできなかった。4月22日、日本・横須賀軍港に戻る。この時、第二航空戦隊の旗艦は飛龍に変更され、定期人事異動によって南雲機動部隊の航空戦力は「基礎訓練の修了レベルに到達した者は一人もいなかった。未熟な航空兵は昼間着艦する段階にも達しておらず、熟練搭乗員の中にさえ明らかに腕の落ちた者がいた」という状態になる。6月に入り、ミッドウェー攻略作戦への参加が決定した。出撃前、蒼龍の長沼道太郎機関特務大尉は、床屋から「日本海軍が行けばミッドウェーでも楽勝ですね」とおだてられたという。大和多(艦攻操縦員)は戦後アメリカの作家から「士官が作戦を芸者に聞かせて、そこから漏れた」という話を聞いている。5月27日、蒼龍は日本を出発した。日本時間6月5日午前1時30分、南雲機動部隊からミッドウェー島への第一次攻撃隊が発進する。この時の出撃陣容は各空母共に零戦は稼働半数の9機、攻撃機は第一航空戦隊は九九艦爆の稼働全18機、第二航空戦隊は逆に九七艦攻の稼働全18機を出撃させている。九七艦攻は魚雷ではなく、800kg陸用爆弾を搭載しての出撃である。アメリカ軍基地から発進したF4Fワイルドキャット戦闘機6機、F2Aバッファロー戦闘機19機の迎撃と対空砲火により、蒼龍攻撃隊は全機が被弾して艦攻3機を喪失(不時着2含む)、零戦搭乗員1名が重傷を負った。残る艦攻も1機が飛龍に着艦、即時使用可能艦攻は10機であった。午前5時20分、重巡利根から発進した零式水上偵察機が予期せぬアメリカ軍機動部隊を報告する。この時、蒼龍は十三試艦上爆撃機の試作機を改造した試作偵察機を搭載しており、南雲忠一中将はこの十三試艦爆の投入を命じた。操縦は飯田正忠(飛曹)、偵察は近藤勇(飛曹長)であった。午前5時30分に発進した十三試艦爆は午前8時30分ごろアメリカ軍機動部隊を発見し、蒼龍の被弾後は午前10時30分に空母飛龍に着艦して貴重な情報をもたらしている。なお十三試艦爆はアメリカ軍機動部隊発見を南雲機動部隊に向けて発信し、戦闘詳報にも記録が残っているが、無線機故障により艦隊側では受信していないとされる。十三試艦爆の活躍に対し、戦闘詳報は『敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり』と高く評価した。一方で、艦爆や艦攻搭乗員達は「索敵で日が暮れる」と艦隊司令部への不満を抱いていたという。その後、蒼龍はアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け、回避行動と直衛戦闘機の発進に専念する。またミッドウェー基地攻撃に出撃した艦攻隊の収容も行ったため、アメリカ艦隊に向けた攻撃隊の発進準備は遅々として進まなかった。艦攻の収容に至っては、午前6時50分までかかっている。午前7時以降、南雲機動部隊は米空母ホーネットやヨークタウンから発進したTBDデバステーター雷撃機の攻撃を受け、蒼龍も魚雷を回避する。この状況下、零戦隊も各艦の注意も低空のアメリカ軍機に向けられた。蒼龍戦闘詳報では、直衛零戦の行動や連絡方法について『戦闘機使用電波を制空用・上空直衛用の2種類に分くるる不必要なるのみならず、今回の如き電波転換の暇なき場合、直衛指揮に支障をきたすことあり』『敵雷撃機に味方戦闘機集中の傾向大なり』と問題点を指摘している。日本時間午前7時25-28分頃(現地時間10時25分頃)、蒼龍は米空母ヨークタウン所属SBDドーントレス急降下爆撃機十数機の攻撃を受けた。ちょうどミッドウェー島攻撃から戻ってきた第一次攻撃隊艦攻搭乗員達が、搭乗員待機室で食事を取っている時だった。砲術長が気付いて対空射撃を行うもアメリカ軍機の阻止には至らず、投下された1,000ポンド爆弾三発がそれぞれ三基のエレベータ付近に一発ずつ命中した。一発が格納庫下段、二発が格納庫上段で炸裂する。当時の蒼龍には第一航空戦隊(赤城、加賀)の様に時間の掛る陸用爆弾から魚雷への兵装転換ではなかったものの、第二次攻撃隊として出撃予定の爆弾を搭載した九九艦爆と、帰艦した第一次攻撃隊の九七艦攻に搭載する為に左舷中央部艦底にあった魚雷調整場から格納庫に揚げられていた魚雷18本があった。それらが次々に誘爆を起こし深刻なダメージを与えた。小俣定雄(上機曹、蒼龍機関科電気分隊)は、最初の一弾が主蒸気管を破壊し、罐室が全滅、主機械と発電用タービンが停止したと推測している。撃沈確実と判断したアメリカ軍攻撃隊は警戒艦に目標を移し、駆逐艦磯風に至近弾を与えた。午前7時40分、機関が停止した。蒼龍の機関部では通風孔から炎が噴出し、やむなく復水機の蒸留水を飲んでしのいだ。応急班員は格納庫内での爆弾や燃料の誘爆で死傷し、彼らを手伝う筈の機関部員は火災で機関室に閉じ込められ、被弾と同時に電源が切れたため消火ポンプも作動せず、消火活動ははかどらなかった。日本空母の弱点であったダメージコントロールの低さも災いしたが、被弾の時点でもはや手がつけられず被弾からわずか15分後の午前7時45分に総員退去が下令される。大部分の乗組員は炎に追われ、また爆風で海に吹き飛ばされた。救助にあたった磯風は蒼龍脱出者に対する米軍機の銃撃を目撃している。午前8時12分、重巡筑摩(艦長古村啓蔵大佐)から救援人員を乗せた短艇が到着した。南雲司令部は第17駆逐隊第2小隊(磯風、浜風)に対し、蒼龍護衛と北西への退避を命じる。だが午後2時に磯風から南雲司令部(長良)に対し、蒼龍航行不能と今後の行動指示を乞う旨の返答があった。午後2時32分には、火災が一旦鎮火したという報告が入った。乗員の駆逐艦への移乗を開始し、午後3時2分、17駆第2小隊(磯風、浜風)は蒼龍の生存者を収容した。その後火災が少し収まったので、楠本幾登蒼龍飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始める。直後に再度の爆発が起こり、救出は不可能と判断された。乗組員達は柳本柳作蒼龍艦長に脱出するよう懇願したが、蒼龍の柳本艦長は拒否した。柳本艦長の最期には、艦橋の炎の中に飛び込んだ、ピストルで自決した、など諸説ある。日本時間6月5日午後4時13-15分(現地時間6月4日19時13分)、蒼龍は日没と共に沈没した。磯風の魚雷により処分されたという異説もあり、アメリカの研究者は「南雲の戦闘詳報は事実を隠して『沈没』としか書いていない」と指摘している。浜風に救助された大多和は大爆発と共に蒼龍中央部に水柱があがると、艦尾から沈んだと述べている。午後4時20分、磯風は水中で大爆発が起きたのを確認した。柳本艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死、その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員だった。機関科の脱出者は定員300名中、30名弱でしかなく、弾薬運びなどの応援作業に派遣されて機関室にいなかった新兵が中心だった。搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。直衛隊の零戦数機が飛龍に着艦して戦闘を続けたが、同艦沈没と共に全機が失われた。戦闘詳報による蒼龍の沈没位置は。のちに生存者は磯風から水上機母艦千代田等に移り、日本本土へ戻った。なおアメリカ海軍省は潜水艦ノーチラスの報告から、ノーチラスが蒼龍を撃沈したと長く信じていた。戦後、日本軍側将兵の多数の証言からノーチラスは艦型が似ていた蒼龍と加賀を間違えて報告した事が判明している。だが、ノーチラスが不発とはいえミッドウェー海戦で唯一空母への雷撃を成功させたという偉勲には、変わりがない。

出典:wikipedia

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