たこ 八郎(たこ はちろう、1940年11月23日 - 1985年7月24日)は、日本のプロボクサー・コメディアン・俳優。別名:太古 八郎。プロボクサーとして日本フライ級王座を獲得している。ボクサー現役時の愛称は河童の清作。コメディアンや俳優転向してからの愛称はたこちゃん。座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。本名:斎藤 清作(さいとう せいさく)。宮城県仙台市宮城野区新田出身。仙台市内の農家に8人兄弟の次男として生まれる。少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失う。すぐに病院に行き治療すれば失明はしなかったと言われたが、少年時代は裕福な家庭ではなかったため、病院に行けば親に迷惑がかかると思い黙っていたと後に語っている。仙台育英学園高等学校在学中ボクシング部に入部(1年の時、野球部引退した3年の芳賀勝男が練習に参加していた)、2年生時には宮城県大会で優勝している。その後上京し、様々な職を転々とした後、笹崎ボクシングジムに入門。左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格、プロボクサーとしてデビューした。同ジム同期にはファイティング原田がいたが、フライ級の東日本新人王戦の準決勝で原田との同門対決となったため対戦を辞退している。この辞退に関して、たこの没後、原田は「他の人の前で何と言ったかは知らない。しかし自分の前では、ただの一度も恨み言は言わなかった」と語っている。1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。髪型を河童のように刈り込んだことから『河童の清作』と呼ばれた。また、ノーガードで相手に打たせて相手が疲れたところでラッシュをかける戦術で、漫画『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈のモデルになったとも言われている。左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、相手のパンチをかわさず打たれ続け、さらに挑発的な言葉を相手に投げかけ、相手が打ち疲れ戦意を喪失した後に反撃するファイトスタイルを用いた。ファイティング原田は「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続けた。対戦相手にとってはそれが本当に怖かった」と語っている。しかし、受けた頭部へのダメージによりパンチドランカーとなり引退。最終戦績34勝(11KO)8敗1分(後のレギュラー出演ドラマ「ムー一族」内では「元全日本フライ級チャンピオン 41戦32勝(10KO)8敗1分」と紹介されていた)甥の斉藤清人もまたプロボクサーとなり、1992年に全日本新人王決定戦・フェザー級を制している。引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。元々、由利はたこを弟子にするつもりはなく、ボクサー時代に弟子入りを希望してきたたこに、断る口実として「ボクシングでチャンピオンになったら弟子にする」という条件を出し、その時には王者になるとは思ってもいなかったが、実際に日本王者になり、それならと弟子入りを認めたという。芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。いつも酩酊状態(のような演技)で、「たっこでーす」という決まりの台詞と、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。金粉を全身に塗って走ったこともある。この様なTV画面などでみせる姿は、コメディアンとしての彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたといわれる。俳優としての出演は太古 八郎名義の映画やドラマもある。入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪く、寝小便も度々あったため本人がそれを気にし、家を出て友人宅を泊まり歩いた。受け入れた友人たちも「迷惑かけてありがとう」という彼の素朴で温厚な人柄に触れ、邪険に扱うことはなかった。また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったという。誰からも好かれる芸人であった。その芸風からプロボクサー時代が想像しにくいが、映画『幸福の黄色いハンカチ』での高倉健との喧嘩シーンでは切れのある動きでかつての片鱗を見せた。同映画で共演した武田鉄矢はラジオで「撮影の合間に数人のチンピラに絡まれたことがあるが、たこさんがヌーッと出てきてフッと動いた次の瞬間、チンピラ全員が地面に倒れていた」というエピソードを披露したことがある。1981年1月、成人の日のNHK特集番組内で、現役時代からの親友であるファイティング原田と海老原博幸と共に出演し、新成人代表の岸本加世子から、自分たちの青春時代についてインタビューを受けた。その際のたこの受け答えはしっかりしており、番組中で原田と海老原がスパーリングした時のレフェリー役を務めたたこの動きも非常にシャープなものだった。ある日、酔っぱらっていた姿がとある居酒屋の主人の気を損ねたのか、たこはつまみ出されそうになる。その場に居合わせた立川談志が、「これ河童の清作だよ」と言うと、主人は「うへぇー」と参って、首根っこを掴んでいたたこを思わず離してしまったという。コメディアンとしても有名だったが、プロボクサー時代も日本人でかなり知られたことが窺える出来事であった。そんなたこの面倒をよく見ていたあき竹城は、飲酒が多いことを心配し、「(お酒ばかり飲んでないで)ちゃんとご飯を食べなきゃダメだよ」などと、彼の世話を良く焼いていた。そのため、「たこの情婦」と言われたこともあったという。また、昭和40年代末頃には作家の団鬼六のアシスタントを務めていた。アシスタントといっても、事務所の留守番が主な仕事で、食事、掃除、洗濯等の家事全般を引き受けており、団鬼六は著書の中で「或る意味では彼は私にとって欠くべからざる人間であった」と述べている。但し、大切な碁盤を酔ってタクシーの中に置き忘れたり、将棋の駒を磨くように言われたところ、石鹸を使って水洗いしてしまい、フニャフニャにしてしまうなど失敗も多く、食事も前日の飲み会の残飯などを入れて煮込んだだけの「ちゃんこ鍋」という名のごった煮が多かったという。たこを座長に据えた喜劇一座をプロデュースしたのも団鬼六であった。主にポルノ映画館で映画の前座として公演し、好評を博したが、ポルノ映画が前座に芝居などの公演を行うことを廃止したため、たこの喜劇一座も解散した。東京へ出てきてから何度か引越しを重ねる生活だったが晩年ころになると新宿区の富久町に移りそこに長く住んでいた。人気絶頂期の1985年7月24日午前10時20分頃、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死去(死の直前、その姿を週刊誌に写真を撮られていた。また、その頃にはパンチドランカー症状はかなり改善していたともいわれている)した。この訃報は、当時レギュラー出演していた『笑っていいとも!』の放送中、タモリによって全国に伝えられた。
死の数週間前には、ふらりと実家の仙台に帰省しており、虫の知らせだったのではないかと言われている。その際、仙台放送の公開放送番組『サタデーマガジンα』を観覧しており、観客席に座っていたのを司会者に発見され、紹介されている。たこが亡くなった真鶴は、団鬼六が住んでいた場所であり、たこも遊びに行き、団鬼六の子供と海で遊んだことが何度もあるため、団鬼六いわく「真鶴はたこにとって青春期の憩いの場所であった」といい、亡くなる前に「久しぶりに真鶴の海に行ってきます」と明るい声で電話してきた という。葬儀・告別式の葬儀委員長は、中部日本放送制作の中京ローカルのトーク番組で共演した際に、たこから「もし、俺が死んだら葬儀委員長をやってほしい」と冗談交じりに話をした漫画家の赤塚不二夫が務めた。新聞には「たこ、海で溺死」、弔問に訪れたタモリは「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と、たこの死を悼んだ。出棺の時、赤塚が、たこの額を叩き、「この野郎、逝きやがったな。」と泣き笑いをしていたという。葬儀終了後、師匠・由利の先導(「たこヤロウが好きだった三本締めを…」)で参列者による三本締めによってたこの棺を乗せた霊柩車は式場を後にした。たこの死後、後年、赤塚は週刊プレイボーイにて、「現代の妖精だったね。たこは」とたこを追悼するコメントを残している。アルバム『海静か、魂は病み』にコーラス(叫び声)でたこが参加するなどしている友人の友川かずきは後に、たこの不慮の死を悼み、たこに捧げた曲『彼が居た』を含む追悼アルバム『無残の美』をリリースした。東京都台東区下谷2丁目にある下谷法昌寺に、『たこ(八郎)地蔵』が置かれている。1985年に建てられたこの地蔵は、たこのトレードマークだった髪型と、酒場での喧嘩で拳を使わずかじり取られたとされる右耳を象っている。人気絶頂のうちに突然他界した、たこの霊を慰めようと、1985年秋、由利徹、赤塚不二夫、映画監督の山本晋也らが発起人となって建てられた。たこの墓は故郷の宮城県にあるものの、赤塚らが「東京でもお参りする所があったらいい」との提案から建てられた。胴体の部分には、たこの遺筆による座右の銘「めいわくかけて ありがとう たこ八郎」と刻まれている。
出典:wikipedia
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