黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年2月20日 - 1997年4月10日)は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人として知られる。また、東京藝術大学作曲科講師として後進の育成にもあたった。神奈川県横浜市の生まれ。旧制横浜一中(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から1945年東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学して、橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭に師事した。在学中はブルーコーツ等のジャズバンドでピアニストとして活動した他、既に映画音楽も多く手がけている。1949年卒業、《ルンバ・ラプソディ》を作曲。《ディヴェルテ》が卒業作品として演奏された。研究科進学。1951年研究科卒業。同年最初の国産カラーフイルムによる総天然色映画『カルメン故郷に帰る』で、ブギ調での同名の主題歌作曲を担当する。同年、映画「帰郷」で毎日映画コンクール音楽賞を受賞。同年8月、フランス政府受け入れの留学生として、音楽学校同級生の矢代秋雄、別宮貞雄と共にパリ国立高等音楽院に入学して、トニー・オーバンのクラスで学ぶが、教育内容への反発から、1年で退学し帰国した。1951年には《スフェノグラム》がISCMに入選。1953年、芥川也寸志、團伊玖磨と共に「3人の会」を結成する。以後作曲家として活動をはじめる。デビュー当初はドビュッシーやガーシュイン、ミヨー、ガムラン等の南方音楽やモダン・ジャズの強い影響を受けていたが、留学後はミュジーク・コンクレート、電子音楽、ヴァレーズの音楽様式、ケージの偶然性の音楽やプリペアド・ピアノなど、最新の前衛音楽の様式を次々と日本に紹介する。しかしそれらの西洋前衛音楽へのアプローチは、構造的な理論よりは音響への興味を優先させた。特に電子音楽、ミュージック・コンクレートなどの分野を、当時いち早く日本の音楽界に導入している。1954年11月21日、放送劇《ボクシング》(三島由紀夫台本)文化放送にて放送。同作品で芸術祭奨励賞。1955年11月27日、同年創設されたばかりのNHK電子音楽スタジオで日本最初の電子音楽による習作、《素数比の系列による正弦波の音楽》、《素数比の系列による変調波の音楽》、《矩形波と鋸歯状波のインヴェンション》を製作発表。1956年、4月、クラヴィオリンやミュージカル・ソウを大胆に使用した映画「赤線地帯」(監督溝口健二)について、映画評論家津村秀雄に「週刊朝日」誌上で「音楽の失敗がひびく」と酷評され反論し、論争になる(赤線地帯論争)。4月23日から18日間、カンヌ映画祭に参加。4月24日に「青銅の基督」(音楽黛敏郎)が上映された。6月3-10日、ストックホルムへ。第30回ISCMに入選した《エクトプラスム》演奏に立会う。セッションズから讃賞される。1957年、3月20日、音楽評論家・吉田秀和を所長に20世紀音楽研究所を結成。1958年2月、「気違い部落」(1957)「幕末太陽伝」(1957)によって第12回毎日映画コンクール音楽賞受賞。黛の代表作となった「涅槃交響曲」では、声明を模した男声合唱を取り入れ、さらに鐘の音をNHK電子音楽スタジオで音響スペクトル解析した上オーケストラで再現した。「カンパノロジー・エフェクト」と自ら呼んだこのアイデアは、奇しくも現在フランスの現代音楽シーンの主流を占めるスペクトル楽派の一人トリスタン・ミュライユの管弦楽曲「ゴンドワナ」を約20年先取りするものであった。その後、黛はこのカンパノロジー・エフェクトをテープ音楽などでいくつか試みはしたものの、生楽器音楽・テープ音楽両者の間に直接の交流は行われていない。むしろ、黛の関心はこの曲が示していた音響的な興味へのアプローチよりは、この曲を境に「日本的な」素材・思想への関心へと回帰し、さらに大乗仏教思想、保守的政治思想へと発展した(そのような傾向の代表作として、三島由紀夫『金閣寺』を原作とするオペラがある、また同じ原作の映画『炎上』も音楽担当した)。クラシック関係以外の音楽では『赤線地帯』『豚と軍艦』『天地創造』『黒部の太陽』など、多くの映画音楽を手がけた他、日本テレビの『NNNニュース』のテーマ曲などを作曲している。また、同じく日本テレビのスポーツ番組のテーマ曲である「スポーツ行進曲」(別名:「NTVスポーツのテーマ」、この曲は元々は読売日本交響楽団の演奏のために書かれている。『全日本プロレス中継』のオープニングでも使われ、またプロレスラー・ジャイアント馬場がリング入場の際に使用していたことから「ジャイアント馬場のテーマ」とも呼ばれる。プロボクサーで世界フライ級王者だった大場政夫も入場に用いた)は、日本でも珍しいオーケストラ用行進曲の名作である。その他にも関東UHF局の『朝日フラッシュニュース』のオープニングテーマソングである「朝日ニューストップタイトルのための音楽」や仏教諸宗派のためにカンタータなどの作曲を手掛けるなど、現代音楽の作曲家としても活動した。1964年10月10日よりの第18回夏季オリンピック東京大会開会式の際、式典開幕前に国立霞ヶ丘競技場の場内に流れた電子音楽《オリンピック・カンパノロジー(オリンピックの鐘)》を作曲し、記録映画の音楽も黛が担当した。同年よりクラシック音楽番組『題名のない音楽会』の司会を務め、広く周知された。同番組は、東京12チャンネルで放送開始され、後にNETテレビ(現在のテレビ朝日)に移籍した珍しい経緯がある。1965年、3月、映画「東京オリンピック」(音楽監督 黛敏郎)。、映画「天地創造」の音楽作曲の為にローマ滞在(3月に依頼の電話が入り、何度か打ち合わせにローマへ。4月、5月中旬から8月。9月に10日ほど帰国。10月7日から黛作曲部分の録音が開始、11月末まで作曲と録音が続いた)。5月15日、「君も出世ができる」で第12回アジア映画祭 音楽部門賞受賞(1965)5月28日、《打楽器協奏曲》をローマにて完成。同曲は7月11日アメリカで初演。1967年、2月16日、《BUGAKU》が第15回尾高賞受賞。4月、映画「天地創造」によりアメリカ映画アカデミー賞にノミネート。1967年度ゴールデングローブ賞受賞。1968年、『題名のない音楽会』と『NNNワイドニュース』の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞。1958年には、石原慎太郎、江藤淳、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、永六輔、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保改定反対運動に参加した。1970年代前後に、楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成され論憲・改憲を提唱する「日本を守る国民会議」議長を務めた(現:日本会議)。だが、このような保守的政治運動のために左派色が強い楽壇からは事実上排斥され、後期の作品は生活のために書いた上記の宗教音楽や実用音楽などが主となり、2曲の歌劇(『金閣寺』と『古事記』)などを除き、純音楽の創作は極端に少なくなった。1977年夏に、保守派の活動を通じ親交があった中川一郎(当時自民党国民運動本部長)の要請を受けて、新たに創設された党友組織自由社会を守る国民会議(自由国民会議)の初代代表に就任し終身務めた。なお1992年夏に「国民会議」議長として、宮澤内閣官房長官であった加藤紘一らが中心に進めた今上天皇・皇后の訪中反対国民運動の先頭に立ち、中川や自身の共通の親友石原慎太郎や、中川の長男中川昭一、平沼赳夫(中川の秘書でもあった)らと共闘した。上記や元号法制定運動など、後期の活動はが、1960年代以前の映画音楽などで左翼色の濃い作品にも多く関わっている。1982年、4月22日、オラトリオ「日蓮聖人」初演。10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式での《金閣寺》日本初演。1983年、5月4日、阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。1986年、4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。codice_1劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。1993年、7月16日、オペラ《古事記》完成。7月31日、バレエ《M》初演。10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式での《金閣寺》日本初演。1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院にて逝去した。。墓所は、神奈川県にある曹洞宗大本山總持寺の境内墓地。戒名は「威徳院優嶽叡敏居士」。元女優の桂木洋子は妻。演出家の黛りんたろうは長男。弟に朝日新聞学芸部編集委員だった黛哲郎がいる。(生年順)
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