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黒川郡

黒川郡(くろかわぐん)は、宮城県の郡。令制国下では陸奥国(のち陸前国)に属す。 以下の2町1村を含む。1878年(明治11年)に行政区画として発足。郡域は、上記2町1村および富谷町の、3町1村の状態が発足時より長らく続いたが、2016年(平成28年)10月10日に富谷町が単独市制し富谷市になったことで、黒川郡から離脱、発足以来初めて郡域が変更となった。現在の郡域は、上記2町1村。旧来の黒川郡の中心は、北の大松沢丘陵と南の松島丘陵に挟まれた吉田川水系沿いの平地に拓かれた水田地帯と、奥州街道の宿場町を起源とする微高地沿いの大郷町以外の町村役場があるあたりであった。1970年(昭和45年)に黒川郡の国勢調査人口は戦後最少となるが、この頃から仙台市の郊外化(ドーナツ化現象)進行により、仙台市との境界に近い松島丘陵上に住宅地が造成され始め、郡全体の人口は増加に転じた。1975年(昭和50年)には「仙台北部中核都市構想」が策定され、1976年(昭和51年)12月9日に東北自動車道の黒川郡内区間が開通すると、高速道路に沿うようにして工業団地の造成が始まった。黒川郡4町村は1983年(昭和58年)に制定されたテクノポリス法により仙台市および泉市(現:仙台市泉区)と共に「仙台北部地域」に指定され、さらに1985年(昭和60年)には同法に基き策定された「仙台北部中核テクノポリス構想」の一部として、「仙台北部中核都市構想」へと位置づけ直された。近年は、仙台都市圏の一部として郡内の人口比率も旧来の中心地より新興地帯である南部の占める割合が高くなってきている。また、セントラル自動車(現・トヨタ自動車東日本)や東京エレクトロンが進出して機械工業が集積してきたため、東北地方における重要な工業地区となりつつある。平安時代の『和名類聚抄』には、新田・白川・駅家の3郷が記載されている。幕末時点では全域が仙台藩領であった。『旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点に存在した49か村は以下の通り。高城代官所は宮城郡高城本郷に在り、宮城郡のうち高城13か村・桃生郡深谷のうち宮戸島1か村・黒川郡のうち大谷11か村を管轄。1889年(明治22年)4月の町村制施行にともなう明治の大合併によって、黒川郡内には10町村が成立した。昭和の大合併の際、県が提示した試案は郡内西部を南北2つ、東部を1つの計3自治体に再編するというものであった。東部3か村は試案の通り1954年(昭和29年)7月1日に合併し大郷村となったが、西部では大衡村が独立を望んで合併に反対、富谷村は県試案を支持したものの、他の5町村は西部7町村全て統合する大規模合併を主張したため交渉が決裂し、結局大衡村と富谷村の2村を除いた1町4村が合併して1955年(昭和30年)4月20日に大和町が成立した。その後も大衡・富谷両村は県から残置町村に指定されず、1957年昭和32年(昭和32年)には宮城県知事から、1960年(昭和35年)には内閣総理大臣から重ねて両村に対して大和町と合併せよとの勧告がなされたが、両村ともこれを拒否し、黒川郡は1町3村となって昭和の大合併を終えた(のちに大郷・富谷が町制施行し3町1村となる)。平成の大合併の際には宮城県が黒川郡の現行4町村を統一する案を提示したほか、富谷町を仙台市に編入する案も出されたが、人口の激増によって単独市制施行の見込みが生じている富谷町はこれらの案を拒否し、平成の大合併による自治体の統廃合は発生しなかった。

出典:wikipedia

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