ジェイムズ・ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, MBE, , FRCM、1942年6月18日 - )は、イギリスのミュージシャン。シンガーソングライター.世界で最も有名なマルチプレイヤーの一人である。ファーストネームはジェイムズだが、父親も同じファーストネームのためかミドルネームたるポールを主に用いている。『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている。1960年代にロックバンドたるザ・ビートルズ在籍時にジョン・レノンなどと共に数多くの楽曲を作詞作曲しメインボーカルを務めた(レノン=マッカートニーを参照)。ビートルズ解散後はソロ歌手またはウイングス(ポール・マッカートニー&ウイングス)のメンバーとして活動。左利き。世界で最も有名なポピュラーミュージシャン、シンガーソングライターの一人である。ザ・ビートルズ時代には「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表曲と言われる楽曲の多くを作詞作曲した。1960年代半ばに哲学者のバートランド・ラッセルからベトナム戦争について学んだことがグループに政治的関心を持ち込んだとプロスペクト誌に語っている。解散後の1970年代には、ウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上ランクインしている。2000年以降も作品をリリースし続けており、近年ではクラシック音楽も手がけている。ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでは主にベース、(レコーディングではギターやキーボードも)を演奏しているが、近年はコンサートでもギターを演奏しギタリストとしての一面を見せる事も増えている。彼のメロディアスなベースラインは評価が高く、後のロックバンドにも多大な影響を与えたと言われる。他にもシンセサイザー・キーボード・ドラムス・ウクレレ・フラットマンドリン・またトランペットやサックスなどといった管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ソロ・アルバム『マッカートニー』や『裏庭の混沌と創造』ではすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。ジョン・レノンは「世間はポールのギターの腕を過小評価している」と述べており「今(1980年)、みんながやっていることの半分は、ビートルズ時代のポールをそっくり真似たものだよ。」と述べている。また、「人一倍自負心の強いポールが唯一謙虚なもの」とも言っていた。ボーカリストとしての才能も高く、楽器を演奏しながら「リトル・リチャード」などの難易度の高いロック・ナンバーを歌いこなすほか、バラードにおける甘い歌声や、エルヴィス・プレスリーを思わせる唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。1997年に、英国のナイトの爵位を授与、1999年にロックの殿堂入り。また近年では、2010年に、アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。国を代表する一人として2012年ロンドンオリンピックの開会式のトリに、"ヘイ・ジュード"を演奏・歌唱をした。この年に、フランスのレジオンドヌール勲章オフィシエを受章。2013年には、グラミー賞開設40周年を迎えるにあたって、1973年リリースの『バンド・オン・ザ・ラン』が、名誉の殿堂賞を獲得した。1942年6月18日、リヴァプールに生まれる。父は、セールスマン兼アマチュア・ジャズ・ミュージシャン。1956年母・メアリーが乳癌で死去。この年、処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲。後に、1991年のライブ・アルバム『公式海賊盤』にて、初めて音源化された。1957年7月6日、ジョン・レノンに出会う。10月18日にザ・クオリーメンに加入。名門リヴァプール・インスティチュート在学中。西ドイツのハンブルクなどで下積みを経験。スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの脱退などいくつかのメンバー変遷を経た後、ジョン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの4人で1962年、「ザ・ビートルズ」としてパーロフォンよりレコードデビューする。1965年にMBE勲章を授与される。1966年に初訪日し熱狂的に迎えられた。そして日本武道館でコンサートを行う。ビートルズが公演したので日本武道館は日本のミュージシャンにとっての聖地として扱われるようになる。恋人たるリンダ・イーストマン(写真家)が妊娠したので1969年3月12日に結婚。リンダは1998年の死去までポールを公私共に支え続けた。1970年4月10日(金)にポールはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、当時のマスコミからは酷評する声も少なくなかったが、アメリカの「ビルボード」誌で、最高位第1位を獲得し、「キャッシュボックス」誌でも、最高位第1位を獲得した。ポールならではの美しいメロディは随所に散りばめられており、彼のパーソナルな部分を垣間見ることの出来る作品として、また、宅録が定着した現在では、その先駆的作品としても再評価されている。翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれる。妻・リンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様に売れ、イギリスでは、第1位、「ビルボード」誌では、最高第2位を獲得、トップ10内に24週間もランクされるロング・セラーとなり、商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。1971年、ウイングスを結成。1980年1月16日、コンサート・ツアーの一環たる日本公演のためウイングスを随えて成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインが脱退表明し自然消滅していく。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分が下り本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「Coming Up」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。ポールは留置場で看守の警官に頼まれサインを何枚も書いたという逸話があり、このエピソードをパロディ化したのがスネークマンショーの「はい、菊池です」である。1980年12月8日(23時頃)、レノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前でマーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの射殺にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソン、エリック・スチュワート、オービー・トライス、エルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。1982年、マイケル・ジャクソンとアルバム『Thriller』に収録される『The Girl Is Mine』でデュエット。結果的にアルバムは世界で最も売れたとしてギネスに認定された。またポールのアルバム『Pipes Of Peace』でも「Say Say Say』、「The Man」でデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、2015年に『フォー・ファイブ・セカンズ』が全米トップ10ヒットとなるまで、最後の全米トップ10ヒットであった。「アフリカ難民救済」を目的として、1985年7月13日に行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート「ライヴエイド」(LIVE AID)に参加し、イギリス・ステージのトリを飾った。1980年代中盤にはヒュー・パジャムやフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったアルバム(通称「ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム」)は完成を目前にして頓挫してしまう。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年にソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なコンサート活動を開始する。1989年から翌年にかけてワールド・ツアーを行う。のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品をセットリストの約半分を占める割合で演奏した。1990年3月、24年ぶりの日本公演が実現。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。1993年にアルバム『Off The Ground』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本公演も93年秋に行っている。1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。 9月11日のアメリカ同時多発テロ事件による、世界貿易センターの崩壊で亡くなった消防士の追悼&チャリティを目的に、ポールの提唱によって、10月20日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、『』を開かれ、ポールの呼びかけに、 デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー&キース・リチャーズ、エルトン・ジョン、ボン・ジョヴィ)等々、多数のミュージシャンが参加した。2002年、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2003年にはロシアモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を収めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2004年第56回のエミー賞で、10万人を集めたロシア公演の2時間のドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、「マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)」を受賞した。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。また、2005年7月に世界中で同時に行われた、チャリティー・コンサートであるLIVE 8(ライブ エイト)にも参加した。2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『裏庭の混沌と創造』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。5月、米エール大学から、名誉音楽博士号を授与。2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手HPは、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表。HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッドと共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。アメリカでポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家・演奏家に贈られるガーシュウィン賞を受賞。授賞式では、バラク・オバマ大統領から直々に賞を贈られた。2012年2月、ダイアナ・クラールらを迎えて制作したスタンダード・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』をリリース。このアルバムは第55回グラミー賞で最優秀トラディショナル・ポップ・ボーカル・アルバム賞を受賞した。2月9日には個人としてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を獲得。6月4日、英エリザベス2世の女王即位60周年祝賀の『2012』に参加し、コンサートのトリを飾った。7月27日、ロンドンオリンピックの開幕式で、会場を埋めつくした観衆とともに「ヘイ・ジュード」を熱唱。
'12月には、ハリケーン・サンディ被害支援121212コンサートでニルヴァーナのデイヴ・グロールとクリス・ノヴォゼリックらと、共演した。2013年10月、オリジナル作品としては5年ぶりとなる新作『ニュー』を発表。全英・全米では3位、日本では2位(デイリーチャートでは1位)とヒットし、ゴールドディスク(10万枚販売)にも認定された。11月には11年ぶりとなる日本公演を大阪、福岡、東京で実施し26万人を動員した。2014年5月17日、前年に引き続き日本公演が東京と大阪で予定されていたがウイルス感染による体調不良で中止・緊急帰国。1975、1980年に続き3度目の公演中止となった。日本公演直後に予定されていた初の韓国公演も中止となり、6月の米国公演は10月以降に延期となった。7月5日、ニューヨーク・オールバニ公演よりツアーを再開。約三時間40曲を熱唱した。2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した『フォー・ファイブ・セカンズ』が24年ぶりの全米トップ10ヒットを記録。4月には改めて日本公演が京セラドーム大阪、東京ドームで計4回、追加公演として1966年のビートルズ以来49年ぶりの日本武道館で行われた。日本武道館でのライヴは同年7月と10月に日本でTV放送された。2016年8月17日、キャピトル・レコードと再契約することが発表され、さらに同レーベル復帰第1弾となる新作アルバムの制作中であることを明らかにした。ポールはビートルズの解散後に個人として4度訪日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。1975年には初の日本公演が予定されていたものの、訪日直前に法務省によってマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴を基にビザが取り消され、中止となる。5年後の1980年1月16日にも再びウイングスとして訪日したが、成田空港においてて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕・9日間の拘留が行われ、再び公演は中止。事件は本国・イギリスでも大きく報道され、1月17日付のタイムズ紙上には手錠姿で警察へ連行される写真が掲載された。前述の通り、ポールの日本での逮捕はウイングスが自然消滅する切っ掛けとなった。なお、事件後に発売されたアルバム『マッカートニーII』には、「フローズン・ジャップ ("Frozen Jap") 」と“日本人”を揶揄した蔑称をタイトルに付けた(日本では「フローズン・ジャパニーズ」に改題)楽曲が収められた。ポール自身はこの曲に関し「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ」 と述べている。この一件の後にポールは入国管理局のブラック・リストに登録され、日本には永久に入国できないことになっていた。しかし1989年春にビートルズ・シネ・クラブがポール入国許可を求める署名活動を全国的に実施し 、ポールの世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなり、日本での事件から10年後の1990年3月、ビートルズでの公演以来24年ぶりに日本公演を行った。1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び訪日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を行った。2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。2013年11月に11年ぶりに訪日し、京セラドーム大阪で2公演、福岡ヤフオクドームで1公演(同所での公演は20年ぶり)、東京ドームで3公演を行った。MCでは、意欲的に日本語を使う姿勢を示し、大阪弁、九州弁によるトークも披露した。アンコールでは、「福島の被災者に捧げたい」と前置きしイエスタデイを披露した。また、2002年の訪日時と同様に、日本およびイギリスの国旗を振るパフォーマンスを行った。これは、海外のツアーでも必ず行っているパフォーマンスである。なお、これによりポールが東京ドーム公演における史上最年長アーティストとなった。2014年5月に訪日し、東京の国立競技場・日本武道館と大阪のヤンマースタジアム長居で開催予定だったが、後述の急病を受け全公演が開催中止となった。産経新聞の報道によれば、腸捻転により緊急手術を受けていたとも言われる。また、日本ツアー直後に行われる予定であった初の韓国・ソウルのソウルオリンピック主競技場公演も中止となった。2015年4月、2014年の公演が中止となり、その“リベンジ公演”として大阪と東京で改めて日本公演を4回行った。※ウイングス名義のアルバムについてはこちらを参照(チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)※ザ・ファイアーマンは、ポール・マッカートニーとユース(キリング・ジョーク、オーブ)によるプロジェクト。結成当初は、覆面ユニットのインストゥルメンタル・アンビエント・ミュージックのプロジェクトであったが、3作目の『エレクトリック・アーギュメンツ』では、ポール自らがボーカルと作詞作曲を務め、ロック色の強いバンドに生まれ変わっている。また、前2作は、EMIからのリリースであったが、3作目では世界各国のインディペンデント・レーベルと契約。日本では、Traffic Inc.からのリリースとなっている。(イギリスはONE LITTLE INDIAN、アメリカはATO RECORDSからのリリース)(『ラム』に収録された楽曲をオーケストラ演奏でアレンジした作品)Twin Freaks(ザ・フリーランス・ヘルレイザーと組んだリミックス・プロジェクト)メインのレスポールとストラトキャスターは1960年製にこだわっており、おそらく1960年8月にザ・ビートルズとはじめてバンド名が出来たからと思われる。イギリスの女優・ジェーン・アッシャーと1967年に婚約したが、翌1968年に一方的に婚約破棄されている。恋人たるリンダ・マッカートニーが妊娠したので1969年に結婚。現在は写真家として活動している娘、ファッションデザイナーとして世界的に有名になったステラと長男ジェームズを儲けた。リンダと前夫と子・も育て上げた。1993年11月中旬に東京で公演し、11月17日に羽田空港から航空機で福岡空港に移動し相撲観戦のため福岡国際センターに直行。予告なくポールが登場したので場内は騒然とし翌日スポーツ新聞でも取り上げられた。ホテル日航福岡に泊まり11月18日・19日に福岡ドームで公演し「ノットーヤ?」などと博多弁を話す。2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表。前妻リンダの死後に出会った彼女とはその後正式に再婚し、2003年にはベアトリス・ミリーという名前の娘も生まれた。しかし、家庭を重視するマッカートニーと、世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。2006年にミルズとは別居した。ロンドンの裁判所は2008年3月17日における判決で、総額2430万ポンド(約47億円)をミルズさんに支払うよう命じた」と発表した。「ミルズは慰謝料・5450万ドル(約50億円)で不動産の購入・豪勢な海外旅行・寄付活動を行ない、2年足らずで全て遣い切った」と報道される。4年ほど交際しているナンシー・シェベルとの婚約を2011年5月6日に発表。2011年5月、ニューヨークポスト紙によると、婚約者であるナンシーにカルティエの5カラットダイヤモンドの指輪を贈ったことがわかった。この指輪は1925年のビンテージもので値段は65万ドル(日本円で約5,200万円)だという。婚約者であるナンシーはインタビューで「ポールからプロポーズの場所はカリフォルニア州。突然でした。彼が贈ってくれた5カラットの指輪にぞくぞくしました」と述べている。2011年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。プレミアリーグではエヴァートンFCのファンであるが、2008年6月1日にはリヴァプールFCのホームスタジアムであるアンフィールドでライヴを行っている。2013年4月、『サンデー・タイムズ』が「英音楽界での長者番付」を発表し、ポールと、アメリカで運送会社を経営する妻ナンシー・シェベルの合計資産は6億8千ポンドにも上り、長者番付1位を飾る。2013年大阪公演のあと11月14日に新大阪駅から新幹線で博多駅まで移動し大相撲11月場所を観戦。1993年訪福時と異なり日本相撲協会が11月14日午前から「ポール・マッカートニーさんが相撲を観に本日いらっしゃいます」と告知していて画面に何回も登場した。観戦の際には周りのファンの写真などにも気さくに応え、一方で取り組み直前には自分ではなく相撲に集中するように促すシーンもあった。また、この際に懸賞制度に特に興味を持ち、12日目の日馬富士公平 - 栃煌山雄一郎の一番などに自らの名義で懸賞を掛けた。桑田佳祐(サザンオールスターズ)は「ビートルズは本当はポールが一番好き」と述べており、「ロックンロールに関しては世界一」と評する一方で「甘美な曲を作るメロディーメーカー」という解釈には懐疑的な立場をとっている。菜食主義者であり、熱心な環境保護活動家として精力的に活動している。最初の妻の娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETAの会員でもある。また最初の妻のリンダ・マッカートニーも菜食主義者であった。
出典:wikipedia
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