LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

J・D・サリンジャー

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger, 1919年1月1日 - 2010年1月27日)は、アメリカ合衆国の小説家。ニューヨーク市マンハッタン生まれ。『ライ麦畑でつかまえて』などで知られる。晩年は一切作品を発表せず、公にも姿を見せない隠遁生活を送った。1919年1月1日、ニューヨークで生まれる。父はポーランド系ユダヤ人の実業家・ソロモン、母はスコットランド=アイルランド系のカトリック教徒の娘マリー(彼女は結婚後夫と同じユダヤ教に改宗、名もユダヤ風にミリアムと改めている)。また8歳上の姉ドリスがいる。父は食肉やチーズを販売する貿易会社の経営をしており、一家は裕福だったといわれる。1932年にマークバーニ校(ボーディングスクール)に入学。この頃は演劇に関心を持っており、入学面接では「(興味があるのは)演劇と熱帯魚」と答えている。しかし、学業不振を理由に1年で退学処分となってしまう。その後ペンシルベニア州のヴァリー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに入学し卒業まで過ごす。この学校は「ろくでもない子供を叩き直す」という厳しい教育方針だった。また田舎の保守的な学校であり、ユダヤ人に対する差別意識があったようだが、卒業まで無事過ごす。卒業後、家業を継ぐため親戚のいるヨーロッパに渡る。帰国後は様々な大学を転々とするが、1939年にコロンビア大学の聴講生となり、ホイット・バーネット(トルーマン・カポーティやジョゼフ・ヘラー、ノーマン・メイラーなど数々の新人作家の作品を自らが創刊した文芸誌『ストーリー』で最初に掲載し世に紹介したことで知られる)の創作講座に参加する。バーネットの授業に参加して大きな影響を受けたようで、処女作『若者たち』 (The Young Folks) が初めて掲載された雑誌は『ストーリー』 (1940年3-4月号) である。わずか25ドルではあったが生まれて初めての原稿料を受け取った。また、これがきっかけで小説が他の文芸紙にも掲載されるようになる。1941年に『マディソン街のはずれの小さな反抗』 (Slight Rebelion off Madison) が『ザ・ニューヨーカー』に掲載が決まる。12月中に掲載される予定となったが太平洋戦争の開戦による影響で作品の掲載は無期延期となってしまう(結局5年後の1946年に掲載される)。ちなみにこの短編は、作家の分身とでもいうべきホールデン・コールフィールドが初めて登場した作品である。1941年から、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールと交際しており、軍務に就いてからも文通していたが、ウーナは1943年に突如チャールズ・チャップリンと結婚してしまう。1942年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して入隊する。2年間の駐屯地での訓練を経て1944年3月英国に派遣され6月にノルマンディー上陸作戦に一兵士として参加し激戦地の一つユタ・ビーチに上陸する。フランスでは情報部隊に所属する。8月、パリの解放後新聞特派員としてパリを訪れたアーネスト・ヘミングウェイを訪問する。『最後の休暇の最後の日』 (The Last Day of the Furlough) を読んだヘミングウェイはその才能を認めて賞賛したという。しかしヘミングウェイのタフな精神とは相容れなかったようである(『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの台詞を参照)。しかしドイツとの激しい戦闘によって精神的に追い込まれていき、ドイツ降伏後は神経衰弱と診断され、ニュルンベルクの陸軍総合病院に入院する。入院中にドイツ人女性医師シルヴィア・ヴェルターと知り合い結婚。1945年11月除隊。12月に『ライ麦畑でつかまえて』の原型となる作品『僕は狂ってる』 (I'm Crazy) が雑誌『コリアーズ』に掲載される。1946年、シルヴィアとの結婚生活は終わりを迎え生活も大きく変化した。ヤッピーのような生活を送り、またニューヨークのボヘミアンとも多く交流を持つようになる。1949年頃、コネチカット州ウェストポートに家を借り執筆生活に専念、『ライ麦畑でつかまえて』の執筆を開始した。1950年1月、『コネチカットのひょこひょこおじさん』 (Uncle Wiggily in Conecticut, ナイン・ストーリーズ収録作品) を元に作られた映画愚かなり我が心 (My Foolish Heart) をハリウッドのサミュエル・ゴールドウィンが全米公開するが映画の評判は芳しくなく、サリンジャーもこの映画を見て激怒する(それ以来自分の作品の映画化を許可することはなかった)。1950年秋『ライ麦畑でつかまえて』が完成する。当初ハーコードプレスから作品は出版される予定だったが、「狂人を主人公にした作品は出版しない」と出版を拒否。結局作品はリトル・ブラウン社から刊行、大きな反響(詳しくはライ麦畑でつかまえてを参照)を呼んだ。文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかしホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年50万部が売れているという。しかしこの成功によって、ニューヨークで静かな生活を送ることは次第に難しくなっていった。結果、ニューハンプシャー州はコネチカット河のほとり、コーニッシュの土地を購入、原始的な生活を送り(家にはライフラインがなかったらしい)、地元の高校生達と親しくなり、交流を深めることになる。しかし、その関係も長くは続かず、親しくしていた少女の1人が高校生向け記事を書くことを条件にしたインタビューの内容をスクープとして地元の新聞に載せてしまう。このことに激怒し、社会から孤立した生活を送るようになり、高校生達との縁を切ってしまう。1955年にラドクリフ大学に在学中のクレア・ダグラスと結婚。一男一女を儲けるが、1967年に離婚。次第に発表する作品数を減らしていく。1953年に『バナナフィッシュにうってつけの日』をはじめとする短編集『ナイン・ストーリーズ』を、1961年には『フラニーとゾーイー』を、1965年に『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を発表するが、1965年に『ハプワース16、1924年』を発表したのを最後に1冊の新刊も発表することはなかった。1972年、当時18歳だったジョイス・メイナードと短期間同棲。1990年頃からは約50歳年下の看護婦と結婚生活を送っていたという。晩年は滅多に人前に出ることもなく、2メートルの塀で屋敷の回りを囲ませその中で生活をしていた。サリンジャーには世捨て人のイメージがつきまとうようになり、一度小説を書き始めると何時間も仕事に没頭し続けており、何冊もの作品を書き上げている、など様々な噂がなされた。実際にはサリンジャーは、町で「ジェリー」と呼ばれて親しまれ、子供たちとも話をし、毎週土曜に教会の夕食会に参加するなど、地域に溶け込んで暮らしていたという。住民の間では私生活を口外しないことが暗黙の了解だった。1985年、作家・評論家のイアン・ハミルトンが、テキサス大学でサリンジャーの書簡多数を発見し、これを元に伝記を書いたが、校正刷りの段階でサリンジャーがこれに異議を申し立て、ハミルトンは二度書き直したものの、サリンジャーはニューヨークの法廷に姿を現し、一審でハミルトン側が勝ったが、二審で覆り、ハミルトンはサリンジャーの書簡を引用しない版(『サリンジャーをつかまえて』海保眞夫訳)を刊行した(サリンジャー事件)。『ライ麦畑でつかまえて』の続編であるという『』がスウェーデンの出版社から出版されると知り、その著者であるなる人物と Nicotext とを相手取り、2009年6月1日に著作権侵害で提訴した。訴状は「続編はパロディではないし、原作に論評を加えたり、批評したりするものでもない。ただ不当な作品にすぎない」として、出版の差し止めを求めた。2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュにある自宅にて老衰のため死去。下記の日本語訳作品は現在入手可能な主要なものであり、他にも複数の版元から日本語訳が出版されている。1965年にサリンジャーが発表した最後の作品として雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたが、米国では単行本化されていない。サリンジャーが雑誌に発表した30編の短編のうち、9編を選んで編まれた短編集が『ナイン・ストーリーズ』であり、それ以外の短編は米国では単行本化されていない。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。