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菊池武夫 (陸軍軍人)

菊池 武夫(きくち たけお、1875年(明治8年)7月23日 - 1955年(昭和30年)12月1日)は、日本の陸軍軍人、政治家、国粋主義者。貴族院議員(男爵議員)。陸軍中将功四級男爵。熊本県菊池郡出身。暗黙の了解だった天皇機関説を帝国議会で最初に取り上げ攻撃し、軍部や国粋主義者を台頭させ大日本帝国を結果として崩壊させた人物。菊池氏は中世以来の肥後国の名族で、南北朝時代は南朝に属した。菊池氏(米良氏)は明治になって他の南朝功臣の子孫と並んで華族に列せられた。父は旧米良領主の男爵菊池武臣。武夫の次男武親は陸軍に進み、少佐(陸士53)まで昇進した。陸軍士官学校、陸軍大学校を経て日露戦争に従軍。歩兵第11旅団長・奉天特務機関長を務めた後、陸軍中将で予備役に編入となった。予備役編入後は1931年(昭和6年)から貴族院議員(互選による男爵議員)として帝国議会に議席を持った。1934年に商工大臣中島久万吉が雑誌「現在」に執筆した「足利尊氏」において中島が「逆賊」である尊氏を礼賛しているとして議会において糾弾し辞任においこんだ。1935年(昭和10年)には美濃部達吉(当時東京帝国大学法学部教授)が唱え、当時の憲法学の通説だった天皇機関説を攻撃し、「天皇機関説は国体に反する緩慢なる謀反」「美濃部は学匪」などの批判を展開して国体明徴運動の契機を作った。菊池は軍人出身であって法律学の専門家ではなく、天皇機関説の趣旨を全く誤解して美濃部を批判しており、美濃部が1935年2月貴族院本会議で天皇機関説を説明するのを聞くや「それならよろし」と呟いたと言われるが、その後、3月になり再び貴族院で美濃部を批判する質問をしている。また、菊池の批判をさらに誤解した一部の右翼が、美濃部に対して「いやしくも天皇陛下を機関銃に例えるとは何事か」などと大掛かりな批判運動を展開し、結果、美濃部は貴族院(1932-35年、勅選議員)から追われた。一方の菊池も、1939年(昭和14年)の第8回伯子男爵議員選挙で落選した。1941年(昭和16年)には亜細亜大学の前身となる興亜専門学校を設立し、初代校長と運営母体の財団法人興亜協会の初代理事長を務める。終戦後は連合国軍最高司令官総司令部よりA級戦犯容疑で逮捕されるが、不起訴処分となって釈放された。

出典:wikipedia

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