彦根市(ひこねし)は、滋賀県の北東部に所在する市である。滋賀県北部、東部の中心となる都市である。旧坂田郡鳥居本村と旧愛知郡稲枝町を除き、かつては犬上郡に属していた。彦根市域を含む旧・犬上郡は古より近江国の交通の結節点であった。中世から近世にかけては、全国に信者を持つ多賀大社(在・犬上郡多賀町多賀)の参詣道(高宮村も経由)が隆盛し、江戸時代初期に整備された中山道の宿場町としては彦根市域では鳥居本宿(元・坂田郡内、現・彦根市鳥居本町)と高宮宿(元・犬上郡内、現・彦根市高宮町)が置かれ、なかでも鳥居本宿は中仙道中近江国内で随一の賑わいを見せた。現在の市街地の近郊に佐和山城を築城した豊臣秀吉の重臣石田三成が関ヶ原の戦いで敗れたのち、江戸時代には、徳川家譜代の大名である井伊家の知行するところとなり、琵琶湖に面した山に築城された彦根城を中核として佐和山藩改め彦根藩が置かれた。この彦根藩および彦根城は、西日本の外様大名に睨みを利かせる幕藩体制上きわめて重要な役割を、さらなる前線に位置する播磨国の姫路藩および姫路城や備後国の備後福山藩と共に担ったが、福山城を除く2つの城は想定し得る外様大名による謀反が起こらなかった(あるいは、抑え込まれた)ために攻められること無く、太平の世に存在し続けた。そのような彦根藩のお膝元にあって、大藩がひしめく京都周辺でも有数の城下町として彦根は発達を見せた。近現代では、市制施行以来数十年間は大津市に次ぐ県下第二の都市であったが、平成の大合併後の人口では、大津市・草津市・長浜市・東近江市に次いで県下第5位となった(2010年4月時点)。しかし、地方気象台(彦根地方気象台)、国立大学(滋賀大学)、裁判所支部などといった各種機関が現在も市内に集中し、滋賀県東部における商工業の中心地である。大規模な都市空襲を受けなかったことから近世以来の城下町や宿場町の町並みが比較的保存されており、2009年(平成21年)1月19日には亀山市・金沢市・高山市・萩市と共に第1回歴史まちづくり法(国土交通省)に認定されている。現代では、ほぼ日本国内に限ってであるが、毎年7月に松原水泳場で開催される「鳥人間コンテスト選手権大会」や、マスコット「ひこにゃん」を通じても、広く知られている。面積196.84km²(琵琶湖における市町境界の確定に伴い、2007年10月1日から)。琵琶湖に面するが、内陸部に位置しており、伊吹山地が近接しているため、気候は内陸性気候である。気象庁の区分では滋賀県北部に分類されているが、彦根市は中部と言うべき位置にあり、積雪は他の県北部の市町村に比べて少ない。日本海側気候であるが、滋賀北部のほかの地域と比べると雪の量は少なく、豪雪地帯にも指定されていない。また、観測所が琵琶湖に近いこともあり、気温の日較差・年較差が滋賀県内のほかの地点より小さい。旭森地区・稲枝地区・亀山地区・河瀬地区・城西地区・城東地区・城南地区・城北地区・城陽地区・高宮地区・鳥居本地区「彦根」という地名は天照大神の御子であるアマツヒコネ(天津彦根命;アマツヒコネノミコト)とイクツヒコネ(活津彦根命;イクツヒコネのミコト)2柱のうちの後者が活津彦根明神として彦根山(彦根城が築かれた、琵琶湖岸の山)に祀られたことに由来するとされる。"cf." 彦根神社創建年(1734年)。文政12年(1829年)、彦根城下で呉服商・古着商を営んでいた絹屋半兵衛が、伊万里焼の職人を招き、彦根油屋町の古着商・島屋平助と彦根藩御蔵手代・西村宇兵衛を誘って共同で彦根城南(芹川沿い)の晒山(晒屋地区)に「絹屋窯」を開き、湖東焼の創始者となった。ただし、晒山には何らかの問題があったらしく、場所を佐和山山麓の餅木谷に移して築いた窯で成功させたのが始まりとされている。窯はその後、経営難に陥って半兵衛一人で営まれることとなるが、研鑽を重ねて品質を高め、第14代藩主・井伊直亮治世下の天保13年(1842年)、藩直営となった。湖東焼は直亮と次の第15代藩主・直弼の治世下で最盛期を迎えるが、幕府大老を兼任していた直弼が江戸城桜田門外で暗殺された後は彦根藩内の空気も一変し、政情不安の煽りで職人のほとんどが離散してしまう。残った地元生まれの4名だけでは存続も叶わず、藩窯は2年後に閉鎖を余儀なくされた。それ以降は民窯として複数の窯が存続していたものの、それらも1895年(明治28年)までに全てが閉鎖され、湖東焼は途絶した。湖東焼の復興を願う機運が高まりを見せたのは昭和末期のこと。これを図る人たちは滋賀県と彦根市の賛同を得て「湖東焼復興推進協議会」を発足させ、1986年(昭和61年)に窯を築いて試作を始めた。さらに2005年(平成17年)7月27日には、同協議会は滋賀県の認証を得、新たにNPO法人「湖東焼を育てる会」として発足した。 現在の彦根市では全域で近畿方言(関西弁)の一種である近江弁が話され、そのなかでも湖東方言に分類される。湖東方言は京都色が強い湖南方言と特殊な湖北方言の中間的な方言であり、湖北方言圏と隣接する彦根市・犬上郡は湖東地方南部と比べて湖北方言との共通面が多い(近江弁#方言区画参照)。また市山間部で交通の便が悪かった武奈町や男鬼町の方言は平野部と異なる特徴を持ち、多くの古語が残されていた。彦根周辺の方言の特徴としては、間投助詞「なあし」(「なあ」の上品な表現。主に高齢女性が使用)や終助詞「ほん」(柔らかな強調や念押しを表す)などが挙げられ、彦根を中心に湖北から湖東にかけて広く使われてきた。また旧城下町では「おみ(=お前)」や「たのみましょう(=ごめんください)」など、武家言葉に由来する独特の表現があった。平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減を見ると、1.95%増の111,915人であり、増減率は県下19市町村中7位。京都や大阪の住民が滋賀県をベッドタウンとする現象が進捗する現在、彦根市の人口も増加傾向にあるが、その増加率は県南部の都市と比べるとゆるやかである。琵琶湖に面した彦根地方は、古来、鮎に代表される琵琶湖産淡水魚と、鮒寿司に代表されるその水産加工品を特産としてきた。また、紅かぶら、彦根梨、彦根りんごでも知られる。中世から近世にかけての代表的特産には、彦根の仏壇(彦根仏壇)や陶磁器(湖東焼)、鳥居本宿の薬(赤玉神教丸など)や道中合羽(鳥居本合羽)などがあったが、このうち、彦根仏壇と赤玉神教丸は現代にまで受け継がれている。彦根市は工業都市でもあり、工業生産額は滋賀県でも上位である。この分野では、バルブ(彦根バルブ)、ファンデーション(彦根ファンデーション)が地場産業として挙げられる。市中心部には銀座商店街や市場商店街など複数の商店街が形成されており、第二次世界大戦前や戦後の高度経済成長期には市内や周辺農村部からの集客で賑わった。現在そうした既存商店街はロードサイド・郊外型商業施設の発達などで活気を失っているが、活性化に向けた様々な方策が模索されている。彦根市内に重要施設を置く、主な企業。特筆性のある企業のうち、創業地が現在の彦根市内にあるものを、創業時期の古いものから順に挙げる。企業名を五十音順で記載し、立地施設名などを添える。頒布地域に彦根市を含む地域新聞を、おおよそ対象地域の狭いものから順に挙げる。なお、『京都新聞』は広域新聞であり、これを含まない。滋賀県に空港は無く、彦根市に最寄りの空港は、名神高速道路彦根ICより約1時間40分の距離にある大阪国際空港(兵庫県伊丹市)又は約2時間の距離にある中部国際空港(愛知県常滑市)である。。※その他、東海道新幹線(JR東海)が米原駅 - 京都駅間で当市を通過している。一般県道は数が多いため、主要地方道のみ掲載。石垣、堀、排水溝、西の丸と伝わる曲輪の建物(瓦や杭など)、武家屋敷跡などが発掘調査で確認された。「彦根城天守 附櫓及び多聞櫓」と「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」("cf." 1624, 1955) は国宝である。建造物、彫刻、工芸品、古文書など、国の重要文化財も多く、また、彦根城跡(埋木舎を含む)は特別史跡である。玄宮園と楽々園は合わせて名勝に指定されている。
出典:wikipedia
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