北岳(きただけ)は、山梨県南アルプス市にある標高3,193mの山。日本第二の高峰である。富士山に次ぐ日本第二の高峰であり、火山でない山としては日本で最も高い。日本百名山、新・花の百名山及び山梨百名山に選定されており、同じく日本百名山の一峰の間ノ岳、日本二百名山の農鳥岳とともに白峰三山を構成する。「南アルプスの盟主」とも呼ばれる。野呂川 (早川の支流) の源流の山であり、山体は他の県と接しておらず山梨県内に含まれる。全山古生層の堆積岩から成る。山体の東側斜面は北岳バットレスと呼ばれる岩壁があり、登攀対象ともなっている。古くから、北岳、間ノ岳、農鳥岳一帯の山体は、「白い雪をかむった山」という意味で白根山または白峰山と呼ばれた。平安時代前期の和歌集『古今和歌集』では「"君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは"」と詠われ、平安期の『後拾遺和歌集』では、「"いづかたと甲斐の白ねは知らねども、雪降るごとに思ひこそすれ"」と詠まれた。鎌倉時代に成立した軍記文学『平家物語』では「"北に遠ざかりて雪白き山あり、問へば甲斐の白嶺といふ"」と記された。江戸時代後期に成立下甲斐国地誌『甲斐国志』では、「南北に連なりて三峯あり、其北の方最も高き者を指して今専ら白峯と称す」と記された。南北に連なる白峰山の、一番北にあることから北岳と呼ばれるようになった。現在では三つの峰それぞれを1つの山として取り扱っているが、これらの山々を合わせて白峰三山(しらねさんざん)と呼ぶこともある。また、江戸時代に制作された甲斐国絵図類においても白根岳は富士山や八ヶ岳とともに冠雪や雲上表現、登山道の省略など神格表現で描写されており、甲府盆地を抱く特殊な霊山として認識されていたと考えられている。1964年(昭和39年)6月1日には、赤石山脈の多くの山域が南アルプス国立公園に指定され、山の上部はその特別保護地区、山腹は特別地域となっている。1980年(昭和55年)には北沢峠を越える南アルプススーパー林道が開通し、その後長野県と山梨県の両方向から、登山及び観光用のバスが運行されるようになった。2004年(平成16年)10月15日には国土地理院が最高点の標高を3,193mに改定。それ以前標高3,192mと公表されていたが、山頂の三等三角点 (3,192.m)より南の岩盤の方が約80cm高いことが確認されたためである。1871年(明治4年)に、巨摩郡芦安村(南アルプス市芦安)の修験者である名取直江が、広河原から白根御池を経由して登頂し、里宮・中宮・奥宮を造り開山したとされる。これ以後、北岳登頂が多くの人物によってなされてゆく。1902年(明治35年)8月23日には、イギリス人宣教師のウォルター・ウェストンが登頂し、1904年(明治37年)に日本を再訪問した際に再登頂した。この時、間ノ岳と仙丈ヶ岳にも登頂した。1905年(明治38年)には伊達九郎らが、白根御池から稜線ルートにて登頂。日本山岳会初代会長である小島烏水は1908年(明治41年)7月に登頂し、山頂に寛政7年(1795年)の年号が彫られた石祠を確認した。積雪期に初登頂が成されたのは1925年(大正14年)3月22日のことである。 当時京都三高山岳部であった西堀栄三郎・桑原武夫ら4人が成し遂げた。北岳バットレス登攀の動きも積雪期初登頂から少しして見られるようになる。初登攀は1927年(昭和2年)の7月18日。京都大学の高橋健治ら4人が第5尾根より無雪期に初めて登攀した。初登攀から7年後の1934年(昭和9年)12月27日には、立教大学の浜野正男、榎本忠亮が東北尾根より積雪期の初登攀をした。7つの岩稜の中で最後まで残されたのが積雪期中央稜である。この登攀が行われたのは戦後になってからで、1958年(昭和33年)に奥山章、芳野満彦らが積雪期初登攀を成した。中央稜の初登攀は松濤明によって1942年7月30日に成された。松濤はこの時20歳、飛騨山脈南部の槍ヶ岳北鎌尾根にて死亡する7年前だった。1962年(昭和37年)、野呂川林道(後の南アルプススーパー林道の一部)開通により、山麓の広河原までのアクセスが向上。登山客が増加するきっかけとなった。登頂を目指して活発に登山が行われた明治大正時代、1924年(大正13年)に登山者のための山小屋が造られた。それから54年後の1978年(昭和53年)7月には、山梨県が北岳山荘を建造した。登山を趣味とする皇太子の浩宮徳仁親王は国内の多くの山へ登っているが、北岳には1987年(昭和62年)8月11日に登頂した。白峰三山縦走の際にこれを果たした。また、浩宮徳仁親王はこの年の7月に日本山岳会に入会した。赤石山脈の北部に位置し、白根山系の北端となっている。山脈の主要山系である赤石山系とは野呂川を挟んで隔たっている。北岳の南方の稜線上には同じ白根山系に属する間ノ岳、農鳥岳、白峰南嶺の山々が連なっている。東側には池山吊尾根、北側には小太郎山のある小太郎尾根が延びる。北岳を含む白峰三山の稜線は赤石山脈の主稜線からは外れており、間ノ岳の西に位置する三峰岳で派生した支脈である。また北岳は野呂川の源流となっており、周囲を取り囲むように流れている。山体は中生代の地層の堆積岩から構成される四万十層群に属する。赤石山脈自体がこの四万十層群に属するという傾向がある。北岳山頂部はやや険しい山容を示すが、これは石灰岩やチャート、海洋玄武岩などの岩石が構成するメランジュとなっているためである。これらの岩石は硬く侵食を受けにくく、よって赤石山脈ではあまり見られない鋭い峰を造る。後述の北岳バットレスも石灰岩とチャートで構成され、なだらかな尾根の続く赤石山脈において、周囲とは異なった岩石が構成要素となっている。また、北岳バットレスの岩石は海洋性のものであり、隆起前に堆積した海洋生物の化石が観察される。一方、小太郎尾根はなだらかな山容を示し、これは泥岩や砂岩などの岩石が構成要素となっているからである。地形には、褶曲構造が多く見られることが特徴として挙げられる。褶曲構造は内的営力による造山運動が形成の原因である。一方3kmほどしか離れていない間ノ岳では圏谷(カール)が見られる。これは、外的営力による侵食運動が形成した氷河地形の一つである。他にも小太郎尾根には二重山稜が見られる。赤石山脈の北部に位置し、以下が近接する主な山である。南アルプスの最高峰で、以下が周辺の各山域の主要な山との位置関係である。北岳バットレスとは、北岳の東側斜面にある高さ約600メートルの岩壁である。命名は20世紀初頭の人である小島烏水によるとされており、戦前から攀じられてきたアルパイン・クライミングのクラシックルートである。主に石灰岩やチャートから構成されていて、大樺沢二俣から眺めることが出来る。2010年10月10日未明、第4尾根で大規模な崩落が発生し、登攀は禁止となった。北岳を源流する河川は、富士川水系早川の支流である野呂川。北岳を取り囲むように流れており、北岳の山体を西側から左俣沢、東側から大樺沢として削っている。左俣沢沢の上流部には落差10m程の左俣大滝がある。また、同じく早川の支流である荒川も北岳を源流としているといえる。荒川の源流は西農鳥岳が主であるが、北岳南側にある北沢も荒川に流れ込んでいるためである。山梨県道37号南アルプス公園線は、奈良田温泉方面から野呂川に沿って広河原まで延び、広河原から北沢峠方面に南アルプス林道が延び、この林道は南アルプス市の登山観光用バスに利用されている。北沢峠は野呂川の支流である北沢峠と天竜川水系の三峰川支流の戸台川との分水嶺である。北岳の山頂付近から延びる池山吊尾根、小太郎尾根、西尾根は野呂川で終端となる。北岳を含む赤石山脈は、夏に降雨量が多いため、上部の森林限界のハイマツ、コケモモを除いて、コメツガやシラビソなどの針葉樹林に覆い尽くされている。森林限界の下部には、ダケカンバ、カラマツが多い。残雪が消えた山頂直下南東斜面の石灰岩質の場所では、北岳の固有種であるキタダケソウが咲き始める。キタダケソウが世の中に紹介されるようになったのは1934年からである。他に、高山植物の代表的な固有種であるキタダケトリカブト、キタダケキンポウゲ、キタダケナズナ、キタダケヨモギなどが自生する。キタダケソウ(環境省の絶滅危惧Ⅱ類)と共に、絶滅が危惧されている高山植物にタカネマンテマ(環境省の絶滅危惧ⅠA類)がある。北岳の名を冠し保護が盛んに叫ばれているキタダケソウよりも深刻な状態にあり、盗掘などが原因で個体数が減少している。2010年では100株以下に数を減らしていると考えられている。各登山道周辺では以下の種が分布している。山域には10種以上の「キタダケ」を冠する和名の種が自生している。多くの種は環境省や山梨県など各県のレッドリストに指定されている 。北岳の風景
出典:wikipedia
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