日本の道路では、日本における道路について述べる。道路法では国道(一般国道と高速自動車国道)・都道府県道・市町村道(特別区道を含む)のみを「道路」としているが、一般にはそれ以外のものも「道路」と呼ばれる。道路法の規定によらない道路には、以下のものがある。道路交通法や道路運送車両法の規定は、一般の交通の用に供される全ての道路について適用される。また、都道府県道と政令指定都市の市道には主要地方道に指定されている道路がある。道路構造令に基づいて、道路の規模により第一種から第四種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第一級から第五級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。また、通行することのできる交通の種別による分類として、自動車専用道路、自転車専用道路、歩行者専用道路、自転車歩行者専用道路という道路法の専用道路と、道路の一部分を区画して自動車の通行を制限している道路構造令上の歩道、自転車道、自転車歩行者道がある。自動車だけが走れるような構造になっている道路で、以下の条件を満たすものを一般に自動車専用道路という。歩行者や自転車などの通行は禁止される。これらの道路には、高速自動車国道、都市高速道路および上記の条件を満たす一般有料道路、自動車専用道路が該当する。なお、これらの法規の適用を受けない例外的存在として、私道である宇部・美祢高速道路がある。高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は、主に東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社・本州四国連絡高速道路株式会社が建設・管理を行う。また都市高速道路とは、大都市圏およびその周辺地域でひとつのネットワークとして機能する自動車専用道路を指し、その事業主体は下記の都市高速道路会社や地方公社が中心となっている。首都圏・阪神圏の都市高速道路である首都高速道路・阪神高速道路は都府県道または市道であるが、国・地方自治体の設立・出資による特殊会社(首都高速道路株式会社・阪神高速道路株式会社)がそれぞれ建設(一部、路線の存する都府県、市が施工する場合がある)・管理を行う。また国の認可を経て地方自治体が設立・出資する公社による都市高速道路を指定都市高速道路といい、名古屋、福岡・北九州、広島の3都市圏に整備されている。 なお、高速道路株式会社法(2004年6月9日公布)において高速道路とは次のように定義されている。上記の自動車専用道以外の道路を、通常「一般道」と呼んで区別している。古代の人々が農耕を始めて定住した場所には、集落間での交易が始まって往来が頻繁になり、多くの人が歩いた結果、自然発生的に踏み分けられた原始的な道ができた。それ以外の場所では、「獣道(けもの道)」が次第に踏み固められ、川沿いや尾根伝い、低い峠などに主要な道路が形成されて行った。日本書紀の神武東征の件りで、河内国から大和国に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」が、日本の書物の中での道路についての最も古い記述であるとされている。当時の道路が、人が2列で行進することができないほど狭いものであったことが判る。7世紀当初、飛鳥地方に大和政権が誕生し、奈良盆地東縁を通る山辺の道や、聖徳太子が通ったとされる太子道、南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道、これに直行する横大道、竹内街道などが造られた。日本書紀の推古天皇21年(613年)11月の記事に、「難波より京に至る大道を置く」とあり、これが日本における道路整備の最初の記述とされている。当時の京は飛鳥にあり、竹内街道は現在の奈良県葛城市 - 大阪府堺市を結ぶもので、今の国道166号のルートにほぼ相当するものである。律令制が制定されて広域地方行政区画として五畿七道が定められると、日本で最初の計画的な道路網の整備が始められるようになり、646年、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった。駅路の全長は6500kmまでにもおよび、30里(約16km)毎に駅が設けられて、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた。駅路は京(畿内)を中心に放射状に作られ、特に山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」として重点的に整備した。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の総称としても用いられた。この内、京と大宰府とを結び最重要視されていた山陽道と西街道の一部が「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ。 これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなどして、できるだけ直線的に平坦になるように作られていたため、集落からは遠く離れたところを通っていた。この直線的な道路の傾向は、ローマ帝国におけるローマ街道でも見られる。奈良時代には行基の指導により、平城京と各地を結ぶ奈良街道などが整備されたほか、神社や寺院が各地で建立されたため、高野街道、熊野古道などの信仰の道が生まれた。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って東海道が重要視されるようになった。この時代には、関東武士が鎌倉へ集結するため関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれた。戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため領内の道路整備や峠の開削が行われた。特に武田信玄は、棒道と呼ばれる軍事的な輸送目的の道路を積極に整備している。領国の境には関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていったが、そんな中、織田信長は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引き継がれることになる。織田信長・豊臣秀吉は天下統一のため、国の境にあった関所を廃止した。江戸時代に入り、幕府は一般旅行者や諸国大名の参勤交代のため全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である。五街道は4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「脇往還」または「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。また、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。五街道は1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のため順次整備が始められ、1604年(慶長9年)に日本橋が五街道の起点と定められた。1659年(万次2年)以降になると、五街道と脇街道は幕府の道中奉行の管轄とされた。それ以外の街道は勘定奉行が管理をしていたが、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせた。これは、五街道・脇街道以外の街道が外様大名の大藩の領地であることにも関係がある。軍事・警察上の必要から街道の要所には関所を配置して検問が行われたほか、一里(約4km)ごとに一里塚が設けられ、一定間隔ごとに開設した宿場には本陣・脇本陣、旅籠などが立ち並んだ。江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて一般民衆の通行も多くなったが、旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、馬や駕籠は使われていたものの、まだ馬車は無く交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは今日ほどはひどくなかった。日本を訪れていた西欧人の旅行記などには、この当時の日本の道路の印象について書かれており、ヨーロッパの道路と違い整備状態が実によく行き届いていたことを示す評価がなされている。平戸や長崎には、オランダ人の手によって、石畳による日本初の舗装道路が作られた。明治維新によって、道路交通の制約が大きく緩和された。1869年(明治2年)、全国諸道の関所が廃止されて制度面での交通障害が除かれた。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870年に和泉要助が考案した人力車が軽便な交通機関として急速に普及した。さらに都市では上流層が馬車を用いるようになり、主要都市間や都邑近傍には乗合馬車が運行されるようになった。日本にも馬車が輸入されて導入されるようになると、それまで徒歩に耐えられる程度に砂利を敷き砂で固めてあった当時の日本の道路は、馬車の通行によってすぐに傷んでたちまち悪路と化し、あまりのでこぼこ道に、馬車が横転する事故も発生していた。1876年(明治9年)の太政官布告第60号により、道路は国道・県道・里道の3種類に分けられ、江戸時代以来の主要な街道は国道に指定されて番号が付けられた。しかし、河川への架橋や山岳地帯における道路整備の促進は、技術・資金の制約から困難で、遅々として進まなかった。また当時の日本には、長大な永久橋の架橋や、長大トンネルの掘削、道路舗装などに関わる技術基盤が乏しかった。明治政府も長距離の交通手段としては、当時においてはより速度や輸送力に優れていた鉄道の建設を優先し、また沿岸部では内航航路が輸送に占める比重も大きかった。道路の中では限られた幹線が馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎなかった。それでも、鉄道建設が明治時代中期以降まで遅れた地域では、新道開削が大規模に行われた例も見られた。よく知られるのは、明治10年代に三島通庸が相次いで県令(県知事)を務めた山形・福島での道路整備である。三島は県民に労働力と費用供出を強制し、文字通りの力業で道路建設を急速に推進した。その使役ぶりは官憲による強圧を伴うもので苛烈を極め、三島は「鬼県令」として恐れられた。福島・山形両県を結ぶ50kmの新道「万世大路」(1881年全通)は、当時日本最長のトンネルである栗子山隧道(全長約870m)を含む馬車通行可能な道路で、三島の建設した道路の中でも最も有名な例と言える。日本に初めて自動車が導入されたのは、1903年(明治36年)のことである。当時の日本の道路は全くの未舗装で、東京の都心部も舗装されていなかった。このため、雨が降ればたちまち道路は泥沼と化し、車のタイヤが泥にのめりこむのは当たり前で、でこぼこ道にたまった水溜まりを通り抜ける車がはねた泥水は、通行人に浴びせられることも日常茶飯事であった。初めてのアスファルト舗装が行われたのは明治の終わりごろだといわれており、まだこの当時の舗装技術は未熟だったため、簡易舗装的なものだったと考えられている。道路整備が明治末期に至っても著しく不十分であった事実は、日本陸軍の軍用トラック試験でも窺い知ることができる。1908年に初の軍用トラックとして導入したフランス製ノーム(1.5t積車)2台で同年7月、東京-青森間往復の長距離走行試験を敢行したが、道路の劣悪さに終始悩まされた。当時の地方の道路は、ほとんどの場合江戸時代と大差ない狭隘な泥濘路であり、自動車の通行など全く想定外だったのである。7月21日に東京を発ったが、1日20里(約80km)と見積もったスケジュールは、トラックの故障と、速度を上げられない悪路、車両交通を想定しない脆弱狭隘な木造橋、渡し舟に車両を載せる手間を要する未架橋の大河などによって著しく阻まれた。峠越えでは急勾配と狭隘路が障害になり、時には自力で登坂できずに、チェーンブロックを用いて乗員総出でトラックを引きずり上げた。例外的に走りやすかったのは三島通庸が整備させた福島県内の区間だった。北上するに連れてますます悪路の度がひどくなり、青森まで行けるか大いに危ぶまれたという。岩手県以北は特に道路状況が悪く、工兵隊の緊急出動による道路補修でやっと通過した区間すらあった。青森に到着したのは予定から1週間遅れの8月7日で、実に半月以上を要したことになる。当時既に全通していた東北本線の列車であれば、この時点でも2日間で走破できたルートである。復路も時間を要し、ようやく東京に帰還したのは8月21日のことであった。西武グループの大番頭、中嶋忠三郎によると、日本で最初の自動車用道路は、西武が私財を投じて箱根に建設したものだという。西武の創業者である堤康次郎は、結局自分が作ろうとしているものは、「道路」であり、「道路の向こうに宝の山がある」と言う言葉を残している。当時、自動車の数も少なく、日本中を自動車が走るようになるとは想像も出来なかった時代であり、堤は先見性があったといえる。国立学園都市構想や軽井沢開発においても当時としては極端に道幅の広い道路を建設した。1919年(大正8年)に道路法が初めて制定され、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種に分類され、国道も再編成が行われた。軍港や基地に達する国道路線が多く置かれ、軍事国道と呼ばれる国道も設置された。国道に関しては、建設費および改修費は国が負担し、その他の道路は地方公共団体が負担することになっていた。1920年(大正9年)、日本初の道路整備長期計画である「第1次道路改良計画」が策定される。しかし、その3年後に関東大震災が発生し、帝都復興が優先された結果、地方道路の整備は更に遅れてしまった。日本初となる本格的な舗装道路、つまり現在でいう本舗装が誕生したのは、1926年(大正15年)に完成した東京・品川 - 横浜市間の約17kmと、兵庫県尼崎市 - 神戸市間の約22kmの道路であった。この時代には、ドイツのアウトバーンを参考に、産業・軍事用の高速道路計画と主要道路の改良策も検討されたが、1941年(昭和16年)、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入すると、戦争が最優先され道路整備は実現不能なものとなっていた。戦前までは都市部以外の国道の整備は進んでいなかった。敗戦国となった日本に対し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官は、1948年(昭和23年)に道路網の維持修繕五ヵ年計画の策定を要請し、1952年(昭和27年)に改正道路法が制定された。自動車の普及とともにその重要性が認識しされはじめ、1954年(昭和29年)に「第一次道路整備五か年計画」が発足し、政府も道路整備に本腰を入れ始めるようになった。自動車保有台数が100万台を突破していたため、政府は国内初の高速道路・名神高速道路の実現可能性を探るために、世界銀行が派遣したアメリカのラルフ・J・ワトキンスを長とする調査団に調査依頼したところ、1956年(昭和31年)に出されたワトキンス報告書には日本の道路事情の悪さが痛烈に指摘されており、これが戦後日本の道路整備を推進するきっかけとなったといわれている。ワトキンスが来日した当時は、日本政府の道路整備支出予算は国民総生産(GNP)の0.7%に過ぎなかったが、10年足らずの間に大幅に拡大されて2%を突破し、その後も2%台を維持した。1964年(昭和39年)東京オリンピックを1つの契機として、高速道路や都市高速道などが整備されていき、その前年の1963年(昭和38年)には日本初の高速道路である名神高速道路が誕生した。また、この頃からモータリゼーションの進行で自動車の台数が急増していき、交通事故死者が激増して社会問題となり、昭和40年代は交通戦争という言葉まで生まれた。公害も深刻化していたため、本格的に自動車や道路の対策が行われることになる。バブル景気の時代に入ると道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。高速道路など高規格幹線道路のネットワークは全国を網羅し、それを補助する地域高規格道路も整備が行われた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴う負債が多くの自治体で問題となっている。また、交通事故による死者数はピーク時1万5千人を超えていたが、2007年には高度な医療体制の確立や、エアバッグや衝突安全ボディーなど自動車の安全装置の充実、自動車台数の減少などによって5千人以下となった。日本では、車などが左側通行、歩行者が右側通行である。かつては人も馬・車も道路の左側を通る習慣があったとされ、これは刀を左に挿した侍が擦れ違う時、刀が触れないようにするためという俗説がある。明治に入り、新政府はイギリスに範を取り左側通行を正式に採用している。戦後、GHQが、アメリカ合衆国と同じく車が右側通行、歩行者が左側通行の対面交通とするよう指導したが、日本の道路設備を右側通行にするには多額の費用と時間が必要ということが判明したため、車の左側通行は維持し歩行者のみ右側通行とすることとなった。これは1950年頃から実施された。アメリカ合衆国の施政下にあった沖縄県では、1978年7月30日まで車が右側通行だった(730)。
出典:wikipedia
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