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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年)9月29日に任命された多治比縣守である。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である。延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。また「征夷大将軍」は「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていった。鎌倉中期から明治維新まで、武人である武士が政権を握っていたことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることから、天皇には世俗的な実力はなくとも、権威は維持することとなった。建久3年(1192年)源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸時代末期まで約675年間にわたって征夷大将軍を長とする武家政権が続いたが、慶応3年(1867年)徳川慶喜による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年)10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。また、天慶3年(940年)に藤原忠文が、元暦元年(1184年)に源義仲が、征東(大)将軍に任じられているが蝦夷征討を目的としたものではない。なお、征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹、また征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)、征東軍監、征東軍曹などの役職が置かれた。源頼朝は当初、東国武士団を統轄する武家の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位を持たない下級貴族出身の軍事貴族であった。。その頼朝の政権構想には、先例として平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権の印象が練られたのではないかといわれている。建久元年(1190年)、頼朝は、権大納言右近衛大将(右大将)に任官され、公卿身分となって自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、東国での独立を志向するには不向きだった。そこで頼朝は任官から半月も経たずして権大納言と右大将の職を辞任し、公卿としての特権のみを手元に残した。「前右大将」という名目を鎌倉政権の歴代首長の地位としていく構想もありえなくはなかったと思われる。だが、右大将では形式上の官職こそ高いが、すでに好敵手だった源義仲が征東大将軍だったことに比べると、中央近衛軍司令官という性格上、積極的に地方の争乱を武力で鎮圧する地位ではない。また奥州藤原氏の鎮守府将軍と比較すると「武士の自治」という重要な積極的要素が欠けていた。そこで頼朝が注目したのが、「征夷大将軍」という官職であった。これは軍政(地方統治権)という意味では鎮守府将軍と同様である。かつ、坂東(関八州のこと)の兵を率いて奥羽の蝦夷(この場合は奥州藤原氏)を征伐するという目的からしても、鎮守府将軍より故実からして格上でもある格好の官職であった。つまり、を、全て纏め上げて公的に担保するのが征夷大将軍職であった。ただし、征夷大将軍職は奥州藤原氏を討つための奥州合戦においてこそ必要とされた官職であって、実際に任官した建久3年(1192年)においては、既に頼朝にとって必要性はなくなっていたという説もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執しておらず、2年後には辞官の意向を示している。また源頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官されており、征夷大将軍職を宣下されたのはその3年後である。さらに比企能員の変に際しては総追撫使・総地頭の地位の継承が問題となっており、将軍職は対象とされていない。従って、この段階では将軍職は、武家の棟梁の絶対条件ではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。一方、源実朝の家督継承に際してはまず将軍職が宣下されている。だが近年、これらの通説を覆す新史料が発見された。『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかったのである。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている。また、源頼朝が征夷大将軍を望んだものの、後白河法皇に阻まれたとされる事情については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は源義経の使者が、頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、後白河法皇が源義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、法皇から与えられるはずであった全ての官職を辞退して、叙位のみを受けたことが記されている。この事態を説明するには、後白河法皇が既に終わった合戦の戦功として頼朝に征夷大将軍と同義の征夷将軍を与えようとしたものの、頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わってから久しい当時において、後白河法皇・源頼朝が共に征夷将軍(=征夷大将軍)を名誉的な官と見なして、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職として認識してはいなかった可能性がある。更に寿永以後、頼朝が実際に征夷大将軍に補任されるまでの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できないとされる。その場合、鎌倉殿の持つ権限の根拠は特定の官職に依るものではなく、寿永二年十月宣旨や文治の勅許等、頼朝以来の代々の鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝以来3代の征夷大将軍補任の実態は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている鎌倉時代以降、源頼朝が「征夷大将軍」の位を得て幕府を開いて後は、幕府の政治力が徐々に高まっていった。しかし、鎌倉時代を通じては、朝廷も全国支配を行う政府として存続し続けた。一方、鎌倉幕府においては執権職を独占した北条氏が覇権を握り、征夷大将軍は名目上の武家の棟梁ではあるけれども、実際は北条氏の傀儡となった。室町幕府が成立すると、3代将軍足利義満の時期に、義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、「征夷大将軍」は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。この時期以降、朝廷は単なる形式だけの政府で、幕府こそが日本全土を統治する実質上の政府となったと言える。南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に平氏や藤原氏、そして皇族も就任しており、平氏を自称していた織田信長は天皇によって征夷大将軍に推任されている(三職推任問題)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。豊臣秀吉は近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。秀吉は自ら征夷大将軍就任を断っており、また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の家職と認識されており、源氏云々とは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った足利義昭が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行われなかったとする見方もある。

出典:wikipedia

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