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フォークロック

フォークロック (Folk Rock)は、音楽の分野のひとつで、フォークとロックの要素が結合された楽曲、演奏様式を指す。しかし、その演奏法や歌唱法、また、楽曲の旋律や歌詞の度合いによって、フォーク、あるいはロックのいずれか一方へと捉えられることもあり、明確な分類の定義は無い。生みの親の一人に挙げられるボブ・ディランは、「フォークロック」という言葉そのものを毛嫌いしている。フォークロックは、1960年代半ば、北アメリカで生まれた。当初、フォークロックと呼ばれた楽曲の特徴は、北アメリカの民俗音楽、あるいは、当時のシンガーソングライターの楽曲をレパートリーとし、ハーモニーを生かした歌唱と、従来の楽器に加え、電気楽器をあまりエフェクターをかけずに用いた演奏であった。この北アメリカでの動きに触発され、ケルト圏で様々なフォークロックの様式が見られるようになった。スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュ等、各地域の民俗音楽とロックの融合が図られたのである。これは、フォーク(民俗音楽、ポピュラー音楽いずれからも)、ロック、それぞれのミュージシャンが取り組んだ。そして更には、ヨーロッパの他の地域におけるよく似た傾向の分野や活動も含めて、フォークロックと捉えられていくようになる。但し、ブルースやアフリカ地域の音楽、ケイジャンによる音楽、また、ヨーロッパ以外の地域の民俗音楽の影響による場合は、あまりフォークロックとは呼ばれず、ワールドミュージックに分類される傾向にある。フォークは社会性の強い歌詞に特徴があったが、表現の幅を広げ、聴衆への伝達力を増すためロックの手法を大幅に導入した。当初、聴衆の側から"音楽的堕落"、"世俗への迎合"といった反発があったことから、当時のフォークの位置づけが窺える。結果、深い人間洞察や社会の有り様を詩的に活写した優れた作品を生み出し、社会的な視点からの製作姿勢、深みのある歌詞などは他のロックミュージシャンにも多くの影響を与えた。フォークロックは、主に次の3つが背景となっている。このうち始めの2つは、ウッディ・ガスリーとピート・シーガー、及び、1930年代の人民戦線運動から生まれた文化に強く影響を受けている。都市を拠点としてフォークソングを歌い始めたのは、アルマナック・シンガーズであった。このグループは、1930年代後期から1940年代初期にかけて、ガスリー、シーガー、リー・ヘイズ他、メンバーを替えつつ活動した。第二次世界大戦下を経て1947年に、シーガーとヘイズは、ロニー・ギルバート、フレッド・ヘルマンと組み、ウィーヴァーズを結成する。ウィーヴァーズは、レッドベリーの「アイリーン」をカバーし大ヒットさせ、この分野は一般大衆の間に広がっていった。文学でこの頃に勃興したビート・ジェネレーションはジャズと密接な関係を持つ一方その後フォーク系ソングライター達に影響をもたらす。1950年代初期の赤狩りに巻き込まれてしまったのだが、彼らの音作り、及び、民俗音楽や社会問題を題材とした楽曲は、キングストン・トリオ、チャド・ミッチェル・トリオや、あまり政治的では無かったカレッジ・フォーク・グループ(例えばブラザーズ・フォー、フォー・フレッシュメン、フォー・プレップス、ハイウェイマンのようなグループにも影響を与えた。全ての楽曲を通してみられるハーモニーとレパートリーは、フォークソング、そして、トピカルソング、社会性の強い歌)の始まりといえる。多様化するフォークリバイバル運動はジャグ・バンド音楽やブルースなどの見直しが行われニューヨークグリニッジ・ヴィレッジではおもに学生達によるジャグ・バンドや西インド諸島方面の音楽カリプソなどをハリー・ベラフォンテらが持ち込み、ネイティブ・アメリカンから1962年にがデビュー、音楽に限ったフォークロア(民俗学)に拡大している。1955年アラバマ州モントゴメリーで州法の人種分離法抗議から先鋭化する公民権運動にピート・シーガーとその若手ハリー・ベラフォンテらはこの市民活動で一役買うことになった。1965年7月25日ニューポート・フォーク・フェスティバルでボブ・ディランがエレキ・ギターを持って演奏、賛否騒動が発生する。3つ目のブリティッシュ・インヴェイジョンについてはほぼビートルズがきっかけでチャド・ミッチェル・トリオに参加歴があるロジャー・マッギンが1964年夏にザ・バーズを結成した理由がわかり易い。フォークロックという音楽志向より打楽器などリズム楽器を伴うバンドスタイル、演奏形態のゆるやかな変化である。グリニッジ・ヴィレッジの学生らジャグ・バンドからヤングブラッズ、ラヴィン・スプーンフル、シカゴ・ブルースに影響されたダニー・カルプ、アル・クーパーらのブルース・プロジェクトが結成されいずれも電気楽器が伴った。ブリティッシュ・インヴェイジョンが起こらなければフォークとロックが交差することは無かったという意見はビートルズやローリング・ストーンズにその他多くのバンドがロックンロールの創造的な媒体として幅広い可能性があることをアメリカに改めて認識させた、とするもので一見フォークリバイバル運動とは無関係にみえるザ・ビーチ・ボーイズなど萌芽は既にみられた。イギリスのバンドは1950年代のエルヴィス・プレスリー、バディ・ホリーら先駆者の衝撃後、エヴァリー・ブラザースやリッチー・ヴァレンスなどカントリー音楽、ケイジャン音楽チカーノ音楽などヨーロッパの影響があるミュージシャン達の楽曲を受け入れこの逆上陸か返礼的発展に立会い、その一つではバディ・ホリーにバンド名を因むホリーズが登場している。この大西洋を挟む切磋琢磨は1960年代後半アメリカではビートルズとそのブリティッシュ・インヴェイジョン影響からバンド結成ブームを巻き起こしガレージロックと呼ばれる一群を、イギリスでは成功者の後を追ってアメリカ同様に様々なバンドが登場している。ニューヨークのビート・ジェネレーションムーブメントは現代文学から詞の表現に変化をもたらし、ボブ・ディランを中心として演奏表現の拡大が志向された。ディランや主にニューヨークで活動していたフォーク系のソングライター達、またスコットランドのドノヴァンは、1960年代中頃より「シンガーソングライター」と呼ばれ始めた。そして、ディラン達の作る楽曲の多くが、アメリカに留まらずイギリスにおいても、フォークロックのレパートリーとして用いられていくことになっていくのである。フォークとロックの融合が積極的に行われるようになり顕著なものでは作家でビート詩人の素人バンド、ザ・ファッグスが結成されたり1964年から65年にかけて、アニマルズの「朝日のあたる家」、バーズの「ミスター・タンブリン・マン」、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」などのヒット曲が生まれ、フォークロックは北アメリカにおける主要な音楽ジャンルとなった。アメリカ合衆国で最もフォークロックが活動的であったのは1960年代中頃から1970年代中頃であった。これはヒッピー現象とほぼ時を同じくする。ボブ・ディランやそれ以前のウッディ・ガスリーらのミュージシャンのフォークソング、フォーク・リヴァイヴァルにおけるボーカル・グループ、ブリティッシュ・インヴェイジョンのロック、これらの要素が融合されていき、ハンク・ウィリアムズらの古いカントリーからの影響も見られるようになった。しかし、ブリティッシュ・インヴェイジョンが起きる前のアメリカにおいて、全くフォークロック様式が見られなかった訳ではない。例えば、ロック初期に活躍したバディ・ホリーの活動後期の作品にはフォークロック様式とみられているものがある。これらの作品は、ディランやバーズのようなミュージシャン達に強い影響を与えている。また、エヴァリー・ブラザーズのようなカントリーに影響を受けたポピュラーなミュージシャンの作品にもフォークロック様式を見ることができる。いずれも、発表時点で特に新たな音楽の分野と見られていたのではなかったが、ブリティッシュ・インヴェイジョンが起きた後、フォークロック様式であったことを認識されるにようになった。また、ブリティッシュ・インヴェイジョンに応えて、60年代後半の一時期に斬新なポップ・サウンドを作ったとされるザ・ビーチ・ボーイズは、フォークロックのジャンルに含まれることは無いが、フォークロックがブームであった1966年に、1920年代の西インド諸島に伝わる民謡「スループ・ジョン・B」をカバーしヒットさせた。1940年代は労働運動とその集会や対ファシズム抗戦鼓舞にイアン・マッコール(Ewan MacColl )、A. L.ロイド(A. L. Lloyd )らが活躍していた。1950年代は伝承の民謡に若手でシャーリー・コリンズ(Shirley Collins )など、グループでアイルランドのダブリンからダブリナーズ()、スコットランドのザ・コリーズ(The Corries )などおもにパブやフォーク・クラブで演奏活動していた。保守的なフォーク音楽の世界に若手参入者が増えるにつれ、アメリカのフォーク・リヴァイヴァルからブルースやカントリーなどの楽曲が伝播しイギリス国内では廃れてしまった労働歌の再演や大英帝国でかつての植民地に伝わる楽曲などを取り上げたが演奏する場面場所は限られニューヨークで興ったビート・ジェネレーションに共感する作家たちの進歩的な交流会など、研究会と称する集いでジャズの合間で私的な披露ばかりだった。フォーク以外の出来事でイギリスジャズ界でクリス・バーパー(Chris Barber )のバンドに在籍するロニー・ドネガンが試行したジャグ・バンド風アレンジスキッフルが大人気になり、その模倣でアマチュアバンド結成も流行し、一方同じバンドにいたシリル・デイヴィス、アレクシス・コーナーらは訪英したB.B.キングらに衝撃を受けブルースに傾倒し、コーナーは1961年ブルース・インコーポレイテッド(Blues Incorporated )を結成する。ジャズからスキッフルとブルースへの動きはイギリス・ロックの原点として知られクリフ・リチャード、ビートルズやブリティッシュ・インヴェイジョン(ブリティッシュ・ビート)とそれ以降にも影響が及んだ。この流れは大御所マッコール、ロイドが君臨する保守的なフォークにも影響し、アメリカの現代カントリー音楽やフォークを取り上げる機会とアマチュアバンド結成ブームはギターでコーラスのフォークグループに変化をもたらした。1958年結成のイアン・キャンベル・フォーク・グループ(Ian Campbell Folk Group )は前身がスキッフルバンドでモダン・フォーク、トラディショナル・フォーク(民謡)、ジャズなどのミュージシャンが参加した。アレクシス・コーナーらのブルース・ギターは60年代イアン・A・アンダーソン(Ian A. Anderson ・ジェスロ・タルのイアン・アンダーソンとは別人)、デイヴィ・グレアム、のちペンタングルを結成するバート・ヤンシュとジョン・レンボーンがソロやデュオに影響を与え同時にイギリスのフォーク・リヴァイバルに不足していたブルースとギター奏法の進歩を補完した。クリフ・リチャードはスキッフルバンド仲間を集めたドリフターズを率いそのメジャー・デビュー作「Move It」はポップスチャートで1958年11月に3位を記録する大ヒットになった。翌年バックバンドのドリフターズはザ・シャドウズに改名しグループ単独で世界的な成功を収める。折からエレキ・ギター・インストゥルメンタル音楽ブームではとりわけ編曲能力演奏力は高くザ・シャドウズは直近のブリティッシュ・ビートにおいて演奏とバンドの楽器構成の「お手本」となった。ボブ・ディランらを刺激したアメリカ発文学ビート・ジェネレーションはモダン・ジャズを伴いモッズ文化きっかけの一つになったが戦後若者の「アメリカナイズ」傾向にあっては微々たるもので、フォークやロックの関りは本国アメリカ同様1960年代以降深まった。1950年代末には舶来フォーク楽曲の演奏場所や機会は増え、かつての文学同人会から離れつつあったがリヴァプールでは文学と音楽の交流に仕切りが低く演劇も盛んで「リヴァプール・サウンド」の礎になり後年の1967年若手達による同人会のリヴァプール・シーン(Liverpool Scene)から詩の朗読レコードが発表、その後会の名そのままで1968年にザ・リヴァプール・シーンをバンドとして発足、詩人マイク・ハート()、エイドリアン・ヘンリ()にフォークのアンディ・ロバーツ(、平行してソロ活動)らミュージシャンで詩詠唱、ジャズ・ロック、フォーク・ロック、フォークなど幅広い音楽志向を持ち1972年まで活動した。詩人ではピート・ブラウン()がジャズ・ロックで自身のバンドやクリームに、キース・リード()はプロコル・ハルムの楽曲青い影など、ピート・シンフィールド()のキング・クリムゾンなどの活動がある。1964年アニマルズの「朝日のあたる家」以降、おもにフォーク・ミュージシャンによる取り組みでは、前出のドノヴァンが1965年デビュー、1966年(イギリス発売は1967年)ドノヴァンはアルバム「サンシャイン・スーパーマン」を発表。この年からプロデュースを担当するミッキー・モストが初期サイケデリック・ロックの影響をここに持ち込みアレンジに工夫を凝らした。この前後はアメリカからフォークミュージシャンが放浪でイギリスを訪れポール・サイモンがデビューソロ作を発表するなど交流が進んだ。ママス&パパスのキャス・エリオットがニューヨーク時代に参加したビッグスリー一員だったティム・ローズは永住してしまった。カナダ人フォークシンガー、ボニー・ドブソンが1961年が作詞作曲した「モーニング・デュー」はアメリカでフォークミュージシャンの間で人気曲となりグレイトフル・デッドがオリジナルに沿って1967年のアルバム「太陽賛歌」で取り上げたがジェリー・ガルシアの歌唱などバンド初期に付き纏ったスタジオ録音の不慣れなどから原曲を生かし切れずに終わった。ティム・ローズはこの楽曲に魅了され歌詞の追加許可をドブソンから得て1964年からTVやラジオなどで演奏し、イギリス渡航後の1967年にはビート、リズムを強調した編曲で録音した(但し録音場所はアメリカ。)。ローズの情緒的な歌唱とロックアレンジから人気曲になりジェフ・ベック・グループでロッド・スチュワートもこのアレンジを基にしてエピソード・シックスなど多数のバンドがカバーした。渚にてから着想し核戦争勃発後の世界終末が詩われたものでローズが再発表したこの頃には原作者ボニー・ドブソンもイギリスに滞在していた。1965年にはアメリカのエレクトラ・レコードがイギリス現地法人を設立する。エレクトラから開設準備を依頼され渡英したアメリカ人ジョー・ボイド()はアメリカのフォーク・ミュージシャン達と関係が深く、ニューポート・フォーク・フェスティバルの運営スタッフを務めた経験もあった。エレクトラはアメリカン・フォークなどを直接販売しイギリスのおもにフォーク・ミュージシャン発掘を計画したがボイドは活況を呈するロンドンの音楽事情に感激し個人事務所ウイッチシーズン・プロダクション(Witchseason Production)を立ち上げエレクトラとは一定の距離を保ち独立した。ボイドは契約したミュージシャン達のアルバム・プロデュースとレコード会社を取り次ぎ、インクレディブル・ストリング・バンドはエレクトラから、フェアポート・コンヴェンションがアイランド・レコード、ドクター・ストレンジリー・ストレンジ()をヴァーティゴ・レコードとエレクトラに固執することはなかった。1966年6月にエレクトラから発売されたオムニバス・アルバム「ホワッツ・シェイキン()」のイギリス側プロデュースをボイドが担当した。ブルース・ロックのセッション・アルバムでアメリカはラヴィン・スプーンフルなどのバンド、イギリスはボイドの呼びかけでこのアルバムにエリック・クラプトン&ザ・パワーハウスが結成されポール・ジョーンズ()、スティーヴ・ウィンウッドらが参加した。1966年12月、トテナム・コート・ロード()にボイドはジョン・ホプキンス()と共同でライブハウス「UFOクラブ()」を開店、ピンク・フロイド、ソフト・マシーンにフェアポート・コンヴェンションなどのサイケデリック・ロック・バンドが出演している。1968年ペンタングル結成。フォークソロ歌手ジャッキー・マクシー()とそのギタリストバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーンにドラムスとウッドベースのリズム担当はジャズ奏者でアコースティック楽器を電気増幅で音量を大きくした、ジャズ色のあるアレンジでトラディショナル・ブリティッシュ・フォークやオリジナルを演奏した。1962年創業でフォーク作品中心に販売していたトランスアトランティック・レコード()と契約、この頃はイギリスで「エレクトリック・フォーク」(Electric Folk)とも呼んでいた。1967年デビューのフェアポート・コンヴェンションは当初アメリカのフォークロックを取り上げメンバー編成から「イギリスのジェファーソン・エアプレイン」と称された。フォークソロ歌手サンディ・デニーの加入から変化しイアン・キャンベル・フォーク・グループに在籍した経歴を持つ民謡奏者のデイヴィッド・スウォーブリック()を加えて1969年アルバム「リージ・アンド・リーフ(Liege & Lief )」を発表する。民謡研究家が設立した英国民族舞踊民謡協会にアシュリー・ハッチングス()は通いトラディショナル・ブリティッシュ・フォーク(民謡)を大胆にアレンジしサイケデリック・ロックの影響を含むアルバムはディラン以降のフォークロックと異なる流れでイギリス独自のフォーク・ロックを提示した。しかしアンプなど電気増幅で音量を上げた「エレクトリック・フォーク」と異なり、ロックの要素が強い改変に世論の否定的な反響を心配し1965年7月25日ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキ・ギターを持ったボブ・ディランの賛否騒動を踏まえ、事前にフォーク音楽評論家から判断を仰ぎ慎重を期したという。1970年スティーライ・スパンは、フェアポート・コンヴェンションを脱退したアシュリー・ハッチングスがアイルランドの夫妻でのちフォーク・デュオのゲイ&テリー・ウッズ()ととイングランド人で同じくマディ・プライア&ティム・ハートに呼びかけ5人で結成した。フェアポート・コンヴェンションのアルバム「リージ・アンド・リーフ」から歌唱やコーラスを発展させたデビュー・アルバム「ホーク!ザ・ヴィレッジ・ウエイト()」を発表したが直後にゲイ&テリー・ウッズが脱退、ハッチングスは伝承民謡若手大家の一人であるギター奏者マーティン・カーシー()を加入させ「プリーズ・トゥ・シー・ザ・キング()」を1971年に発表。トラディショナルフォークの基本に則ってアレンジはドラムスによるロック・ビートを排除し「エレクトリック・フォーク」では使わないエフェクター導入のエレキ・ギターなどでトラディショナル・フォークを荒々しく演奏し再現した。ハッチングスが英国民族舞踊民謡協会で得た知識と継承者マーティン・カーシーの実験作で内容は「モダン・トラディショナル・フォーク」でといったフォークダンス音楽などでロックのビートは無くフォーク・ロックとは言い難いものとなった。1972年前作の延長にあたる「テン・マン・モップ()」発表後ハッチングスとカーシーは脱退、スティーライ・スパンはマディ・プライアを中心にドラムス担当を加入させトラディショナル・フォークをロック寄りにしたフォーク・ロックを展開した。1972年以降アシュリー・ハッチングスはトラディショナル・フォークのセッションアルバム「モーリス・オン」を発表し、自身のバンドでアルビオン・バンド(またはアルビオン・カントリー・バンド )を結成しモダン・トラディショナル・フォークをさらに追求している。マーティン・カーシーは再び伝承民謡でソロ活動の基本に戻り、平行してアシュリー・ハッチングスらのセッションやブラス・モンキーに参加し現在に至る。また、イギリス海峡を渡ったブルトンにおいても、フォークとロックの融合が起きた。1970年代にそれはマリコルヌやアラン・スティーヴェル()の作品に見ることができる。そして、インクレディブル・ストリング・バンドのようなイギリスのフォークロックにおける様々な試みは、やがて、プログレッシブ・ロックへ繋がっていく。ルーマニアにおいては、1962年に結成されたトランシルヴァニア・フェニックスは、1972年に始まった政府のロック弾圧に対する妥協策として、民族音楽のロックへの導入を試みたが、チャウシェスク政権下では追放されていた。しかし、フォークロックは生き残り、ルーマニアのスピタルル・デ・ウルジェンツァとモルドバのズドッブ・シ・ズドッブらは、民族音楽とロックを融合した楽曲を発表している。スペインのニュー・フラメンコ、北アフリカのポップを指向したライ等にフォークとロックの融合を見ることができる。アイルランドでは、ポーグスとドロップキック・マーフィーズがアイルランド民謡とパンク・ロックを結び合わせた。トルコでは1960年代、イギリスのシャドウズからロック・エレキ・ギターが伝播し1970年代から1980年代にかけてフォークロックが盛んであった。国民的歌手とされたバルシュ・マンチョ()、ソロフォーク歌手セルダ()がロックバンドを従え、ギタリストのエルシン・コライ()はバラライカなど民族楽器をエレキ・ギターに置き換える実験音楽からアプローチした。フォークでは国粋主義、マルクス主義陣営下のミュージシャン達は、激しい政治紛争の地において、アナトリア半島やバルカン半島、ユーラシア、黒海沿岸の多くの民族から感化を受けたのである。ノルウェーでは、ゴーテが、ノルウェーの伝承文学のひとつであるスティーヴ(stev、即興詩)とロックの融合を演じている。タイもトルコ同様シャドウズに影響を受けロック音楽は「シャドウ」と称した。1970年代トップバンドの一つだったジ・インポッシブルズ初期はサイモン&ガーファンク版ではないスカボロー・フェアを取り上げタイのローカル音楽モーラムやと欧米のポップスを取りれたアレンジで演奏している。フォークロックの広義拡大解釈で1971年イギリスのスティーライ・スパンが発表した「プリーズ・トゥ・シー・ザ・キング()」以前に1960年代イギリスのシャドウズ、ザ・ベンチャーズなどロック・エレキ・ギターのインストロメンタルが流行した頃ロック楽器による現地民謡の演奏が数多く残されている。日本では1967年3月寺内タケシ「勧進帳」、1965年11月ザ・スパイダース「越天楽ゴーゴー」など。南米ではチリ1963年結成Los Jaivasやタイ1970年頃P.M.5(Pocket Music 5)、1978年?ROYAL SPRITESのアルバム前項目トルコのエルシン・コライ()も作品によってこの範囲にある。一般的にはフォークロックに分類されていないが、その傾向が見られるミュージシャンとバンド。

出典:wikipedia

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