蕨宿(わらび-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて2番目の宿場(武蔵国のうち、第2の宿)。所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡蕨郷(上蕨村、および、下蕨村)と称(「蕨市#歴史」も参照)。現在の埼玉県蕨市中央5丁目から錦町5丁目までがこの地域にあたる。文献上、地名「わらび」の初出は観応3年(1352年)6月29日に表された『渋川直頼譲状写』(賀上家文書)に見える、「武蔵国蕨郷上下」である。地名の由来については諸説あり、「藁火(わら-び)」説と「蕨」説に大別される。「藁火」説では、源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁を焚いてもてなしを受けたことから「藁火」と命名した、などといわれる。「蕨」説には、近隣の戸田郷や川口郷にも見られる「青木」「笹目」「美女木(びじょぎ)」などといった植物由来地名と同様、蕨(ワラビ)が多く自生する地であったことに基づく命名とするもの、僧・慈鎮(じちん)の歌「武蔵野の 草葉に勝る早蕨(さ-わらび)を 実(げ)に 紫の塵かとぞ見る」をもって「蕨」としたと見るもの、などがある(「蕨市#歴史」も参照)。平安時代末期に金子家忠の一族が保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)を落ち延びて蕨本村(法華田〈ほっけだ〉、現・錦町5丁目付近)に住み着き、蕨郷の開発に着手したと伝えられる。戦国時代には蕨城(足利氏一族・渋川氏の居城)があり、市も開かれていたため、宿場として成立する基礎があった。蕨宿は、慶長11年(1606年)頃から元和年間(1615年~1624年)に元蕨(現埼玉県戸田市)から現在地に移されたとされる。蕨宿の成立時期については江戸時代初期の慶長17年(1612年)とする説が有力で、在地有力者の岡田氏が本陣を務めた。道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、4町からなる町並み10町(約1.1km)。宿内人口2,223人(うち、男1,138人、女1,085人)。宿内家数430軒(うち、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠〈はたご〉23軒。問屋場1箇所、高札場1箇所)であった。通常客が利用する平旅籠は問題無かったが、蕨宿の飯盛旅籠および飯盛女(めしもり-おんな)は強引な客引きがひどく、旅人は難儀したという。 そのため、江戸末期には旅人が安心して泊れるよう、平旅籠の講と呼ばれる旅館組合が組織されていた。 なお、戸田の渡し(後述)の川留めに備えて東隣りの塚越村にも本陣が置かれ、二の本陣、あるいは東の本陣と呼ばれた。江戸の昔、蕨宿の周りには用水と防備を兼ねた構え堀が巡らされていた。この堀に面した家々には小さな跳ね橋が設けられていて、早朝下ろされ、夕刻になるといっせいに跳ね上げられた。宿場の出入り口である上下の木戸も同じ時刻に閉じられるので、夜の蕨宿は隔絶された小さな空間となっていた。跳ね橋は、北町の一角に一つのみであるが、今日まで残されている(徳丸家の跳ね橋)。このように防火に怠り無かったがしかし、蕨宿はしばしば大火に見舞われている。それでも古民家などが多数健在で、かつての面影を伝える町並みを残している。 今日では荒川の一部となっている蕨付近の流域は、当時「戸田川」と呼ばれていて、渡し船による往来があった。浮世絵師・渓斎英泉が蕨宿の風景として選んだのはこの「戸田の渡し」であり(右上の画像を参照)、江戸方から板橋宿、志村の一里塚を過ぎた中山道はここを越えなければ蕨宿に辿り着かない。戸田川は平水時、その川幅は55間(約100m)程度であったが、ひとたび大水が出ると1里(約4km)にも広がって渡しは不可能になった。そのような時は当然ながら、平時でも夕刻以降は危険と見なされ、川留めされていた。となれば、上方から江戸へ下る旅人は渡し場の一歩手前にある蕨宿に逗留せざるを得ない。そうして、翌朝早くに出立する客が多かった。また、渡しで揚げられる物資の中継地としても戸田の渡しは重要な位置を占めていて、蕨宿と切っても切れない繋がりを持つ要衝であった。天保13年(1842年)調べの『中山道戸田渡船場微細書上帳』には、総家数46軒、人口220人余(うち、船頭8人、小揚人足31人)、渡し船数13艘(うち、馬船〈馬を運ぶ船〉3艘、平田船1艘、伝馬船1艘、小伝馬船8艘)とある参勤交代などで大通行となるときには、近隣の下笹目村や浮間村から馬船を定助船として徴発していた。渡し船の権利は北岸の下戸田村が握っていたが、その権利を巡って蕨宿との間で争うこともあったという。江戸時代の人々の水運と旅の安全を護ってきた小さな水神社ひとつを名残とし、戸田の渡し碑と大きな案内板が置かれている渡し場跡は、現在の荒川に架かっている戸田橋のおよそ100m下流に位置している。当時と同じ場所を今往く舟はボートやカヌーであり、それらの練習場になっているそうだ。蕨宿界隈を越えて上方へ向かうとこの先しばらくは鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまうため、ここで食べていく客が多く、次の浦和宿とともに鰻で有名な宿場町となっていた。出されていたのは別所沼(現・さいたま市内)産である。また、江戸末期には、蕨郷を含む周辺一帯は綿(ワタ)・木綿製品の生産が盛んとなる。特に蕨郷・蕨宿は綿織物(双子織)の中心的生産地として名を知られるようになり、職人の作業着に用いられる武州藍染めは自然に入った浅葱色の縦縞模様から「青縞」と呼ばれる名物となった。当時、全国から織物の買い継ぎ商が集まったという。日本橋から4里(約15.7km)の地点にあたる戸田村に道中4つ目の一里塚があった。現存せず。日本橋から5里(約19.6km)、辻村にあった道中5つ目の一里塚。当時このあたりは湿地が多く、通行に難があったため、水難除けに弁才天が祀られていた。現在は「辻一里塚公園」として整備され、その一角に「辻一里塚の跡」と刻まれた石碑と弁才天の祠がある。所在地:旧・中山道および国道17号線と東京外環自動車道の交差する地点近く。さいたま市南区辻7丁目4。江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。