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ナゴヤ球場

ナゴヤ球場(ナゴヤきゅうじょう)は、愛知県名古屋市中川区露橋二丁目にある野球場。1996年までプロ野球球団・中日ドラゴンズの本拠地球場で、1997年のナゴヤドーム完成後は、中日ドラゴンズ二軍の本拠地球場および練習場となっている。ナゴヤドームと同じく「ナゴヤ」はカタカナ表記であって、漢字表記の「名古屋球場」ではない。これは、名古屋市の市章が漢字表記の8を丸で囲ったようなデザインの為、漢字ではなくカタカナなら字画が8であるという事から。1948年、当時本拠地球場を持たず試合の度に各地(主に東京都の後楽園球場、兵庫県の甲子園球場と阪急西宮球場)を転々としていた中日ドラゴンズの運営会社「株式会社中部日本野球倶楽部」が増資されるのを機に、空襲によって焼失した軍需工場跡地へ球場を建設することが決まる。昼夜兼行の突貫工事で着工から2ヶ月足らずの12月2日、収容人数23,000人(ないしは、25,000人)総木造スタンドの中日スタヂアム(ちゅうにちスタヂアム)が完成。略称は中日球場(ちゅうにちきゅうじょう)。杮落としは同日開催された「プロ野球オールスター東西対抗戦」であった。翌1949年より、ドラゴンズが当時日本野球連盟(日本のプロ野球統括組織。後の日本野球機構)で暫定導入していたフランチャイズ制度上の本拠地球場として使用される。球場経営は当初同年8月13日に設立された「株式会社中日スタヂアム」が行っていたが、1950年5月25日に大リーグに倣い球団と一体化(中部日本野球倶楽部を吸収)して「名古屋野球株式会社」(なごややきゅう)となった。しかし球団と球場の一体経営は効果が出ず、1951年1月25日に球団経営を分離して再度「株式会社中日スタヂアム」へ改称した。設計にあたっては当時のクリーブランド・インディアンスの本拠地であったミュニシパル・スタジアムを参考にしたという。第1号本塁打は1948年12月2日に行われた東西対抗戦で、阪神の藤村富美男が左翼へ打ち込んだものであった。客席は今日のスタンドというよりは見世物のやぐらや足場に近い代物で、木造のため観客が足を踏み鳴らすとガタガタと大きな音がした。更に観客が弁当の空き箱などに加え、タバコの吸殻を捨てた事によるボヤが度々発生した。この為スタンドの各所には消火用のバケツと箒が用意されていた程で、球場側も火災の発生には神経質になっていたことが窺い知れる。ところが1951年8月19日の午後4時前、名古屋ドラゴンズ(現・中日ドラゴンズ)対巨人19回戦の3回裏名古屋攻撃中に、ネット裏スタンド、内野指定席上段から火災が発生した。火は折からの強風にもあおられ瞬く間に燃え広がり、午後5時40分の鎮火までに球場がほぼ全焼した他、正面スタンド入口脇の球場事務所、熊谷組の事務所、駐輪場、周辺の民家4戸、工場3棟も全焼してしまった。満員の観客(この中には後に中日の選手・監督となる高木守道がいた)、両軍の選手、関係者から内野席を中心に死者4名、治療を受けた重軽傷者318名、治療を受けずに(受けられずに)帰宅した負傷者多数を出す大惨事となった。この日の名古屋先発で戦時中に空襲を経験していた杉下茂は、火の手を見た瞬間「ああ百年目、俺ももうだめだ」と思ったという。出火の原因は床板の隙間から下に落ちたタバコの吸殻が床下にたまっていた紙屑に引火した為と見られる。この火災の為に中日球場が使用不能となったことにより、8月19日以後の球団主催公式戦の日程は鳴海球場を中心に刈谷、浜松、四日市、松阪、滋賀県の彦根、神奈川県の茅ヶ崎の各球場にそれぞれ振り替えられて開催された。火災の3ヵ月後となる11月15日に実質新築となる再建工事を着工、翌1952年4月5日にネット裏に2階席を備えた鉄筋コンクリート造の新スタンドが完成。収容人数は、30,000人となった。また、この年より日本プロフェッショナル野球協約の条文(第38条)としてプロ野球地域保護権(フランチャイズ制度)が導入され、正式に協約上の本拠地球場となった。再建後最初となる名古屋戦(このシーズンから2年間、中日は「名古屋ドラゴンズ」を名乗る)の相手は火災時と同じ巨人であった。中日の他に近鉄が準本拠地として主催ゲームを開催、毎日も1953年に3試合公式戦を開催している。1953年6月20日、日本では後楽園、大阪、西宮に次いで4番目となる照明設備が完成し、同年6月25日の名古屋対広島戦で初ナイターが開催された。なお照明設備は1963年にはカクテル光線化されている。1955年はスタンド増築により、収容人数が35,000人へ増加。この他、1962年から試合のない日にはゴルフ練習場としても利用されるようになった。また1965年には株式会社中日スタヂアムが球場経営の他に多角化経営の一環としてホテル等の土地・建物の運営も手がけるようになり、岐阜県吉城郡上宝村(現:高山市)に「中日ロッジ」をオープンさせた。1973年4月にはレフトスタンド上段(バックスクリーン左側)にコカ・コーラのネオン広告を組み込んだ電光掲示板が完成、試合中には打者の打率等を表示した。1973年5月、運営会社である株式会社中日スタヂアムが中日スタヂアム事件により倒産。球場閉鎖も取りざたされたが、以後の試合開催は中日ドラゴンズが肩替わりすることでこの危機を乗り切る。しかし中日ドラゴンズだけでは球場設備の管理が行き届かなくなった為1975年10月1日、ドラゴンズの親会社である中日新聞社をはじめ、中部日本放送、東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)、中部電力、東邦瓦斯、名古屋鉄道、松坂屋(現・大丸松坂屋百貨店(J.フロント リテイリング傘下))、トヨタ自動車など地元大手企業の出資によって、同球場の新しい受け皿会社として「株式会社ナゴヤ球場」が設立され、同時に球場名も現名称に改称された。この改称時に一部改修が行われ、スコアボード下部中央に「トライビジョン」が設置され、また、安打数・失策数が7セグメントディスプレイによる電光掲示となった。1977年にはライトスタンド後方には風向・風速を表示する「ファイティングタワー」と名付けられたネオンサインが設置された。これはトヨタ自動車のネオンサイン広告入りだったが、観客の歓声によって点灯する部分が上下に変化するものであった。1980年にはレフトスタンド後方にスピードガンで測定されたピッチャーの球速を表示する「スピード表示電光掲示板」が設置された。また、テレビ中継がバックスクリーン視点になったのに対応して、バッターボックス後方のフェンスにパロマの広告が付けられた。この頃、電子オルガンも設置されゲーム中に演奏されていたが、1986年頃に使用中止。1987年には大規模な改装により、8基あった照明塔が6基に集約され内野スタンドも大幅に増築(収容人数そのものは増やさず席間のみ拡張)され、内野スタンド入口はデッキ式となり二層化された。翌1988年にはフェンスの色がそれまでの緑色からドラゴンズカラーの青色に、広告の文字も黄色から象牙色に改められた。また電光掲示板もドットの細かいものに更新されている。同年に中日がリーグ優勝を決めた際に一部ファンがグラウンドへ乱入したこともあり、翌1989年に外野フェンス直後に昇降式のネットが取り付けられた。1980年代には夏の高校野球愛知県予選の会場として使用され、工藤公康(現・ソフトバンク監督)など後にプロになった選手も高校時代にこの球場でプレーしたこともあったが、熱田神宮公園野球場の改修後は行われなくなった。スタンドが老朽化したことやナゴヤドームの完成(翌1997年2月)に伴い、一軍公式戦での使用は1996年10月6日の中日対巨人最終戦が最後となった。一軍本拠地時代の晩年、本塁打が出た場合にはホーム、ビジターに関係なく祝福する音楽が流れ、ドラゴンズの選手の場合は球団マスコットのぬいぐるみ、ビジターチームの選手の場合は花束が渡されていた(ホームランファンファーレは二軍本拠地となって以降も使用。なおナゴヤドームでも2012年8月の「レジェンドユニホームシリーズ」で限定使用された)。1997年から一軍はナゴヤドームに本拠を移し、ナゴヤ球場は二軍(ウエスタン・リーグ)の公式戦と練習用に使用(しばらくは、野球以外の各種イベントにも使用)されることとなる(1999年途中までは、同県知多郡阿久比町の名鉄阿久比グラウンドも使用)。また、1月1日付で株式会社ナゴヤ球場も「株式会社ナゴヤドーム」へ改称され、3月12日に開場するナゴヤドームとナゴヤ球場の両スタジアムを管理・運営する企業に移行した。オフィスもナゴヤドーム(本社)とナゴヤ球場の双方に設置された。一軍撤退後、段階的に解体や改修(後述参照)を重ねていった。なお、ウエスタン・リーグ公式戦やファーム交流戦の観戦は有料だが、中日紅白戦や秋季練習、社会人野球との交流戦などでは無料となるケースもある。1998年の5月23日から6月1日にかけて外野側4基の照明塔が撤去され、オフにはナゴヤドームのグラウンド規格に合わせて外野スタンド前列を削りグラウンドを拡張し、フィールド面積や外野フェンス高さをナゴヤドームと同一とし、ナゴヤドームがイベントへの貸し出し等で使用できない場合でも、実戦感覚で練習できるように配慮した。また、ナゴヤドームの芝部分は人工芝だがナゴヤ球場は選手の肉体面の負担も考慮し、引き続き外野は天然芝、内野は土(ファウルグラウンドの一部は人工芝)のままとなった。2000年オフにはレフト外野席が完全に解体され、スタンド跡地は中日新聞社傘下の折込広告を扱う「中日総合サービス」のナゴヤ球場営業所が建てられた。2001年オフには、内野二階席と三塁側内野席高層部および内野照明塔が取り壊され、三塁側内野スタンド跡地には選手寮と室内練習場が立てられた。同市西区にあった選手寮「昇竜館」と室内練習場は、球場への移動が不便で選手から不満の声が上がっていたが、ナゴヤ球場に練習設備が集約されたことで、朝から晩まで練習に取り組めるようになった。また、バックネット裏内野スタンド後方には「ナゴヤ球場神社」が設けられている。ネット裏の2階席部分、3塁側上段部分とナイター設備が撤去され、収容人員は大幅に減少した。スタンドが小さくなったため、球場外周の一部には防球ネットが設置されている。スコアボード(電光式+磁気反転式メッセージボード)は1992年の球場改修時に設置されたものを改修し、スピードガン表示はレフトスタンド後方からボード右端に組み込まれた。なお、一軍本拠地時代の収容人員は公称35,000人だったが、この改修により、約9,000人にまで減少した。2006年オフから、秋季キャンプをそれまでの沖縄に代えて、実施している。2007年7月からは全席禁煙となった。2009年春には文化庁から登録有形文化財への登録を打診されたが、自由な改修や改築が不可能になることもあってこれを固辞した。2009年9月20日から2010年4月下旬までを予定として、総工費8億円をかけて耐震補強を目的に内野スタンド(正面入り口、バックネット裏内野スタンド、球場事務室など)の改修工事を行う事となり、1塁側内野スタンド上段部およびライト側外野スタンドは撤去された。これに伴い、収容人数が約9,000人から5,000人に減り、室内練習場・合宿所が隣接している3塁側がホームチーム、1塁側がビジターチームのベンチに変更された。新スタンドでは新たに車椅子での観戦エリアが8席分確保され、車椅子対応の多目的トイレやベビールームも設置された。また、内野スタンド外壁は1948年建設当時の石垣を再使用している。改修以前は、正面入り口から入ると、正面に階段があり、そのまま客席に向かうようになっていたが、改修で正面に事務所出入り口を設け、客席には側面に設けられたそれぞれ2か所の階段で上っていく。売店も階段手前から階段上がった客席側の通路に移転した。なお、この改修完了までの間、2010年春季教育リーグとウエスタン・リーグ開幕から約1ヶ月前後の試合はナゴヤ球場が使用できないため、主催試合は一軍本拠地のナゴヤドームをはじめ、蒲郡・春日井・岡崎・四日市・長良川各球場で行われ、5月11日の対ソフトバンク戦から同年シーズンの使用を開始した。2010年9月はファウルグラウンドを全面人工芝化(後述)。2011年はボールカウントを「SBO」方式から国際標準の「BSO」方式に変更した。2012年3月にはスコアボードを全面改良(後述)。フェンス部の広告は二軍本拠地となった以降は消滅していたが、2014年頃より順次復活している。本来は野球場だが、先述のゴルフ練習場のほか、コンサート会場、後述のボクシング会場や、サッカー場など異なる用途に使用される場合がある。本球場でノーヒットノーランを達成した投手は5人いるが、大脇照夫(国鉄)、金田正一(国鉄、完全試合)、中山義朗(中日)、近藤真一(中日)というセ・リーグの4投手は全員が所在地の愛知県出身である。また、国鉄の2人はいずれも対中日戦のダブルヘッダー第2試合で達成、中日の2人はいずれも左腕投手で8月の対巨人戦で達成(ちなみに金田と後述の山下も8月に達成している)と共通するところが多い。なお、パ・リーグの投手では近鉄の山下登(兵庫県出身)が対高橋戦で達成している。高橋にとっては唯一の無安打無得点試合である。中日スタヂアムとして完成した当初、阪急西宮球場において、フィールド内での組立バンクによる競輪開催(西宮競輪。2002年廃止)が成功を収めたことから、西宮球場と同じくフィールド内に組立バンクを設置して競輪開催をする構想があった。だが、最終的には名古屋市財政局からの強い要望により、この構想はなくなり、競輪場としては新たに名古屋競輪場が建設された。本球場ではジェット風船の使用が可能である。一方、ナゴヤドームではその使用が通常時禁止となっており、中日が本拠地をそちらに移した後、中日ファンはビジターや地方球場のみそれを使用している。

出典:wikipedia

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