日本プロ野球における、プレーオフ制度(プレーオフせいど)について解説する。1リーグ時代は1年1ステージによる長期戦形式ではない時代があり、その年の優勝をかけたプレーオフが行われた。予選リーグは7チームの18回総当り(1チーム108試合)を行い、上位4チームが決勝リーグとしてさらに4回総当り(同12試合)を実施。上位4チームの成績は予選と決勝の総合成績で決定したが、下位3チームとの成績を単純に比べられないこと、さらに「下位球団の切り捨てだ」という批判が出たことにより、1年で廃止された。決勝リーグも公式戦に含まれるため、厳密にはプレーオフではない。人気低下などプロ野球再編問題に伴って導入された年間26回総当り(同130試合)を前・後期各13回ずつ(65試合)に区切り、それぞれのステージ優勝を決める。前期と後期でステージ優勝チームが異なる場合、5戦3勝制による優勝決定戦を開催した(同一チーム完全優勝の場合は施行せず)。ホームゲームに関しては、第1・2戦は前期1位チーム、第3-5戦は後期1位チームのそれぞれのホームスタジアムで行った。年間順位はプレーオフの勝者が1位で、2位以下は前後期通算の勝率順とした。このため、プレーオフに負けたチームがプレーオフに出場しなかったチームの前後期通算勝率を下回り、年間順位が3位になったこともあった(77年及び81年のロッテ)。また同制度初年度73年の南海(前期優勝)は前後期通算勝率では3位であるが、リーグ優勝である。この時期のプレーオフ制度は前期と後期にシーズンを分けていることから「2シーズン制」といわれることもある。なお、個人賞に関しては前後期130試合の成績のみで決定し、プレーオフでの成績は加算されない。(2004-2006年の上位3強順位決定戦、及びそれを発展させた2007年以後のクライマックスシリーズの方式も同様)※「開催球場」は、前者は第2戦まで、後者は第3戦以降の開催球場※年間最高勝率球団たるプレーオフ敗退球団は73年阪急、75年近鉄、79年阪急、82年日本ハム年間26回総当り(同130試合)を行い、1位と2位のゲーム差が接近した場合(5ゲーム差以内)に、最大5試合のプレーオフを含めた変則1シーズン制を採用(勝率はそのプレーオフ開催分を合わせたもので計算)したものの、この3年間の優勝チームがすべて5ゲーム差を超える独走だったので実際には行われず「幻のプレーオフ」といわれる。年間27回総当り(同135試合)のレギュラー・シーズン(事実上の予選リーグ。2005・06年は年間20回総当り(同100試合)とセントラル・リーグとの交流試合(同36試合)の合計136試合)の上位3チーム(Aクラスを確保したチーム)がステップラダートーナメントによるプレーオフに進出。2004・05年と2006年では方式に違いがあるので、ここでは2004・05年の方式を記し、2006年の変更点については後述する。2004・05年のレギュラー・シーズンの1位はともに福岡ソフトバンクホークス(2004年は福岡ダイエーホークス)だったが、両年とも2位とのゲーム差は4.5と、あと0.5ゲームの差で1勝のアドバンテージがつかなかったことが災いし、第2ステージは2回とも2勝3敗で敗退。このため、1位通過チームと1stステージ勝利チームとの不公平性などが内外で議論を呼んだ。また、2004・05年ともに第1ステージ勝利チームが日本一となったことで、セ・リーグ優勝チームとの不公平性も議論された。この結果、2006年シーズンでは以下の変更が行われた。また、レギュラー・シーズンでの順位が同率となった場合、以下の順番で順位を決定することになった。これにより、2004・05年の方式における「例外」は以下のように変わった。なお、2007年からこの形式を模し、セ・パ両リーグでクライマックスシリーズが開始されることが決定し、2004年からパ・リーグのみで行われたプレーオフ制は3年間で終了となった。※チーム名に続く括弧内はレギュラーシーズンの順位。勝利チーム名のうち、当シリーズ優勝(日本シリーズに出場)したチームは太字で示す。星取表の「A」において、☆はアドバンテージによる1勝を表す。セントラル・リーグでは以前、公式戦全日程終了時点で勝率(もしくは勝利数)が複数球団において同率(同数)1位だった場合、3試合(2戦先勝)制のプレーオフを実施する旨を定めていたが、過去実施に至ったケースはない。1990年から2000年までは引き分け再試合制度が実施されていたため、プレーオフ実施の必要が生じる可能性が高かったが実現しなかった(当時の実例は次節にて後述)。また2001年から2006年まで6シーズンの間は、公式戦全日程終了時点で勝利数1位のチームと勝率1位のチームが異なる場合にもプレーオフを実施する旨を定めていたが、こちらも結局実施には至らなかった。日本プロ野球では2005年まで、各リーグ公式戦の全日程終了時点で複数球団の勝率(もしくは勝利数)が全く同一の状態で1位に並んだ場合には、プレーオフを実施してリーグ優勝球団を決定する旨が取り決められていた。またセントラル・リーグでは一時期、勝率1位の球団と勝利数1位の球団が同一でない場合にもプレーオフを実施する旨を取り決めていた(上述)。このようなケースでプレーオフを実施する可能性が生じたことは過去に何回かあったものの、実際にプレーオフを実施するに至ったケースは1回もない。下記にこれらケースが生じたシーズンについて概説する。この年はグレートリングが65勝37敗2分け(勝率.637)、巨人が64勝38敗2分け(勝率.627)で最終戦を迎えることとなったが、巨人が勝ってグレートリングが敗れると65勝38敗2分け(勝率.631)で並ぶため、プレーオフが実施されることになっていた。しかし、巨人がセネタースに敗れたため、グレートリングが中部日本戦を待たずに球団史上初の優勝を決めた。パシフィックは、この年戦前からの既存チームでプレーしていた白石敏男(元巨人)と藤井勇(元阪神)を入団させたが、両選手の帰属を巡って巨人と阪神が提訴し連盟が調査中だった。その最中にも拘らず試合に出場させたとして没収試合を4試合経験した。これによりパシフィックがグレートリングからあげた1勝が負け扱いされた。これがパシフィックの負け扱いにされていなければグレートリングの最終成績は64勝39敗2分け(勝率.621)で巨人と同率となり、プレーオフが実施されていたことになる。この年は予選リーグ18回+上位4強決勝リーグ4回の通算成績で優勝を争うという変則的なリーグ戦だったが、南海ホークスと毎日オリオンズが同勝率でシーズン終了となる可能性があった。120試合を終了した時点で、南海は75勝44敗1分け(勝率.630)、一方毎日は75勝45敗0分け(勝率.625)で本来なら南海優勝であるが、順位決定に際して「最終順位の変動をきたす恐れのある試合は再試合を行う」という取り決めから、このシーズン南海が唯一引き分けた大映との間で再試合を行うことになった。仮に南海がこの試合に敗れた場合、南海・毎日とも75勝45敗(勝率.625)で並んでしまい、優勝決定戦に持ち越される可能性があったが、南海がこの大映戦を制してパ・リーグ初の2連覇を飾った。なお、この方式は決勝リーグ進出を果たせなかったチームからの苦情等で、この年限りで廃止された。この年は序盤から独走だった南海と西鉄ライオンズが熾烈な優勝争いを繰り広げ、10月中旬の時点でも優勝チームが決まらず、西鉄が残り4試合の時点で南海は85勝61敗4分け(勝率.582)でシーズンを終了。82勝60敗4分け(勝率.577)の西鉄は残り4試合全てが近鉄バファローズとホームの平和台野球場での対戦であり、4試合の成績で1敗1分けまたは2敗ならば南海の優勝、3勝1敗ならばプレーオフ(3試合2勝制)、3勝1分けまたは4連勝ならば西鉄の逆転優勝という状態になったが、西鉄は4連勝で逆転優勝。この年は10月6日に首位の南海が79勝51敗3分け(勝率.608)で全日程を終えたが、同日時点で2位の西鉄が75勝51敗8分け(勝率.595)でまだ逆転優勝の可能性を残しており、残り4試合に西鉄が全勝すればプレーオフという状況だった。しかし、西鉄は初戦となる10月9日の東映戦に1-2で敗れ、南海のパ・リーグ3連覇が決まった。この年は2連覇を目指す阪急と2年ぶりの王座奪回に燃える南海がともに残り1試合の段階で79勝50敗(勝率.612)で並んでいた。最終戦はともに10月11日で、阪急が西宮での東京オリオンズ戦、南海が日生での近鉄戦で、両チームの最終戦の結果が同じだった場合にプレーオフが行われる可能性があった。プレーオフは10月13日から3戦2勝制で行われる予定になっており、実施の場合日本シリーズ開幕も10月16日からに延期されることになっていた。まず先に始まった西宮で阪急が9回裏に矢野清のタイムリーで同点に追いつき、延長11回に矢野が今度はソロ本塁打を放ち、東京に3-2とサヨナラ勝ち。気の早い阪急ナインはこの時点ではまだ優勝が決定していないにもかかわらず西本幸雄監督を胴上げしたが、西宮の試合が終わった8分後に日生で南海が近鉄の鈴木啓示を打ち崩せず敗れ、阪急がリーグ2連覇を達成した。南海の監督の鶴岡一人はこの最終戦後に監督を退任。在任期間23年間であった。この年は一時阪神を除いた5球団が24勝・2ゲーム差以内にひしめくという混戦から広島と中日が抜け出したが、9月30日時点で68勝48敗2分け(勝率.586)の広島を、中日が3.5ゲーム差(67勝54敗1分け、勝率.554)で追いかける展開となっていたものの、前年から引き分け再試合制度が導入され、しかもまだ直接対決を6試合残していたため、その後の成績如何では広島と中日が同率でシーズンを終える可能性が残っていた。しかし、10月3日からの直接対決2連戦で広島が連勝して優勝に大きく前進。9日からの直接対決2連戦も1勝1敗で乗り切った広島が13日の阪神戦(ダブルヘッダー第2試合)で優勝を決めた。この年は同リーグで最もプレーオフに近かったケースである。10月になってもヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに自力優勝の可能性が生じていたが、まず広島が優勝争いから脱落した。この時点ではヤクルト・阪神・巨人の3チームが同率で並ぶ可能性が残されていた。そこで、セ・リーグ史上初の事態に備えるため、1回目の「プレーオフ委員会」が招集され、2チーム同率のときは3戦2勝制のプレーオフ、3チーム同率のときは1試合ずつ対戦相手を変えて2敗したチームが脱落、2チームが脱落するまで繰り返す「三つ巴戦方式」(大相撲の巴戦とは条件が異なる)のプレーオフを行うことがまず決定された。その後巨人が脱落。この時点での成績はヤクルト68勝60敗1分け(勝率.531)、阪神が66勝62敗2分け(勝率.515)で、残り2試合で甲子園での直接対決となった。ヤクルトが1勝すればヤクルトが優勝、阪神は2連勝しなければプレーオフに持ち込めない状況となった。そこで2回目の「プレーオフ委員会」が招集され、「3戦2勝制とし、第1試合は甲子園、第2試合は神宮とそれぞれのホームで1試合ずつこなし、もし1勝1敗の場合の決勝戦=第3試合、あるいは雨天中止の予備会場は日本シリーズが10月17日開催に迫っていることなどを踏まえ、東京ドームを借りて行う」という取り決めが定められた。しかし、その2連戦の最初の試合でヤクルトが勝ちリーグ優勝。セ・リーグ初のプレーオフは行われなかった。この年は巨人が独走し8月18日に早くもマジック25を点灯させ、24日には中日に9.5ゲーム差をつけたが、翌日からの20試合で4勝16敗と急失速。この間を14勝7敗で乗り切った中日に、9月末の時点で66勝59敗(勝率.528)と並ばれてしまった。残り試合はともに5試合。10月1日・2日はともに白星を重ねたが、4日のヤクルト戦で中日が1-4で敗れ、翌5日には巨人がヤクルトに6-0で勝った。このため巨人が6日のヤクルト戦で勝ち、中日が6日の阪神戦と8日の巨人戦に連勝して、両チームがともに70勝60敗(勝率.538)でシーズンを終了するか、あるいは巨人が6日のヤクルト戦で負け、中日が6日の阪神戦に負けて8日の巨人戦に勝ち、両チームがともに69勝61敗(勝率.531)でシーズンを終了するかで、プレーオフに持ち込まれる可能性が出てきたため、セ・リーグは臨時のプレーオフ委員会を開催した。しかし、6日の試合で中日は阪神に10-2で勝ったものの巨人がヤクルトに2-6で敗れた結果、残り1試合で両チームが69勝60敗(勝率.535)で並んだため、8日の直接対決が雌雄を決する一戦となり、プレーオフは実現しなかった(当時は引き分け再試合制度があったため、両軍が8日の対決で引き分けた場合、再試合が実施されることになっていた)。なお、最終戦は6-3で巨人が勝利した。この年は序盤から広島が独走したが、7月6日の時点で11.5ゲーム差をつけられていた巨人がメークドラマと呼ばれる猛烈な追い上げを見せ、10月5日の時点で残り2試合で75勝53敗(勝率.586)とし、優勝に王手をかけていた。しかし、巨人と同じく猛烈な追い上げを見せた中日は、同日現在残り3試合で72勝55敗(勝率.567)であり、直接対決も2試合残っていた(つまり、巨人の残り2試合はともに中日戦であった)ことから、中日が残り3試合に全勝すれば両チームが75勝55敗(勝率.577)で並ぶため、プレーオフが実施されることになっていた。しかし、巨人が10月6日の直接対決第1ラウンドに勝利して優勝を決め、プレーオフは幻となった。なお、この試合がナゴヤ球場最後の公式戦であった。セ・リーグではこの年から勝利数1位球団と勝率1位球団が異なる場合はプレーオフを開催することになっていた。このため、新聞紙上では勝率1位が確定した時に0になる「勝率1位決定マジック」と勝率1位と勝利数1位が確定した時に0になる「優勝決定マジック」の2つが登場したが、勝率1位決定マジックが0になったのに優勝決定マジックが0にならなかった場合にプレーオフが開催されることになっていた。その初年となった2001年は巨人が75勝63敗2分け(勝率.543)でシーズンを終えたが、ヤクルトは10月4日時点で74勝55敗6分け(勝率.574)であった。この時点でヤクルトは5試合を残していたが、仮に残り5試合に全敗すると74勝60敗6分け(勝率.552)となり、ヤクルトの勝率1位は決まっていたが勝利数では依然巨人が上回るため、ヤクルトが残り5試合で1勝もできなかった場合にプレーオフが実施されることになっていた。しかしヤクルトは10月6日に横浜を下して優勝を決め、プレーオフは実施されなかった。なお、2001年の順位決定は勝率ではなく勝利数を優先し、勝利数が同じ場合は勝率順で決定していたが、ファンから不評を買ったため2002年から元の勝率優先に戻した(但し前述した勝利数1位ながら勝率3位以下のチームが優勝できないシステムに変更された以外、プレーオフ制度の変更はしていない)。また、この年はこのルールだったことが災いし、勝率で横浜を上回っていた広島が勝利数で下回ってしまい、横浜が3位(69勝67敗4分、勝率.507)、広島が4位(68勝65敗7分、勝率.511)という事態が発生してしまった。この年は9月8日時点で阪神が72勝49敗5分け(勝率.595、残り20試合)で首位にいたが、中日も69勝52敗1分け(勝率.570、残り24試合)で追っており、成績如何では阪神が勝率1位となっても中日が勝利数1位でシーズンを終える可能性があった。そのため、プレーオフ委員会が9月9日と15日に開催され、10月15日から17日まで1回戦甲子園、2回戦以降ナゴヤドームという日程で開催されることが決定した。しかし9月10日に阪神に勝率1位決定マジック15、13日に優勝決定マジック13が点灯。29日に阪神の優勝が決まり、セ・リーグ初のプレーオフはまたも幻となった。
出典:wikipedia
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