ユンカース Ju 87 シュトゥーカ(Junkers Ju 87)は、ドイツにおいて第二次世界大戦中に使用された急降下爆撃機である。愛称の「シュトゥーカ」(Stuka)とは、急降下爆撃機を意味する「Sturzkampfflugzeug」(シュトゥルツカンプフフルークツォイク)の略で、本機が急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。日本語では「スツーカ」とも表記されている。第二次世界大戦以前の1935年秋に初飛行を行っているにもかかわらず、後継機に恵まれなかったこともあって大幅なバージョンアップも無く終戦まで使用され続けた機体である。逆ガル翼の複座機で固定脚が外見上の大きな特徴で、急降下爆撃機らしいガッシリとした武骨なフォルムをもつ。急降下爆撃の機動に耐えるため機体構造が頑丈で、整備も容易であったため反復攻撃をこなす事ができる実用性に富む機体であった。逆ガル式の翼が生み出す下方視界の良さと、安定した急降下性能のため、精密な爆撃を行うことができ、急降下時にサイレンのような音を立てることから連合国側からは「悪魔のサイレン」の異名で恐れられた。後に機体に小型プロペラにより駆動されるサイレンを取り付け、標的となった陣地などの敵兵を恐慌へと追いやり地上部隊の進撃を爆撃と心理面で援護することになる。しかし、大戦も後期になると逆に航空優勢な連合軍に対してサイレンの効果が薄れたためサイレンを取り外し、台座だけが残っている記録写真もある。頑丈、すなわち重い機体構造という急降下爆撃機の特性ゆえの弱点があり、低速、鈍重で防弾設備が貧弱だったため、空戦能力は低く制空権を確保した状態での攻撃にしか適さなかった。また、燃料搭載量にも機体の重さのしわ寄せがいき、航続距離が短く行動半径が狭かった。開戦当初のJu 87は大きな戦果を上げたのだが、ドイツ空軍上層部は能力を過信し、「急降下爆撃こそが至上の爆撃である」と誤った認識をもった者も多かった。特に、ドイツ空軍最高司令長官ヘルマン・ゲーリングの"急降下爆撃熱"はひどかったと言われている。そのため、戦略爆撃機He 177を含めた水平爆撃を任務とする機体の多くに急降下爆撃能力を求めたり、戦略爆撃機、後継機の開発を怠るなど開発に悪影響を与えた。また、その認識の甘さはバトル・オブ・ブリテンでの大損害を生む原因ともなった。1942年頃から陸上では単発爆撃機は活躍の場を失いつつあり、ドイツ空軍でもFw 190FやGなどの対地襲撃機・戦闘爆撃機型が登場しているが、旧式化したJu 87もダイブブレーキを外し、襲撃機として生産され続けていた。Ju 87と言えば急降下時のサイレン音が有名であるが、元々はサイレンを特別に取り付けていたわけではなく、急降下時に発生した風切り音がそのように聞こえただけであった。その後、威嚇効果の高さが認められ、B型やD型の一部の主脚根本に、プロペラに風を受けて駆動させるサイレンをとりつけた機体が生まれた。この風斬音は「ジェリコ(エリコ)のラッパ」とドイツ兵たちに呼ばれ、スペイン内乱時には空爆に不慣れなスペインや英仏の兵士に恐れられた。なお、ジェリコのラッパのジェリコとは古代パレスチナの都市名で、旧約聖書のヨシュア記でユダヤ人の指導者のヨシュアの命で人々が一斉に吹いたラッパのこと。この音でジェリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。1941年以降はあえて隠密性を破壊する「ラッパ」は使用されなくなっているが、連合軍兵士に風説として流れた。開発はユンカース社。主任設計者はヘルマン・ポールマン(Hermann Pohlmann)。モックアップは1934年。1935年にドイツ航空省(RLM)による競争審査に勝利し正式な生産命令を得た。対抗機種は、アラド社・ハインケル社・ブローム・ウント・フォス社のそれぞれ Ar 81(試作3機のみ)・He 118(生産機数不明、4号機は日本陸軍に、5号機は日本海軍に売却)・Ha 137(試作1機。開発途中で終了)Ju 87の試作機は3機製作され、それぞれV1-V3の番号があたえられていた。V1は双尾翼でダイブブレーキがついていないのが特徴で、試験中にキリモミ状態になり墜落し失われている。最初の量産型Ju 87A型は1937年から生産が開始され、スペイン内戦で実戦投入され多くの戦果をあげた。また、同年、改良が行われたB型も生産されスペイン内戦に続けて投入された。1939年にはじまるポーランド侵攻や開戦当初の電撃戦(ブリッツクリーク)において非常に大きな戦果を挙げた。陸軍支援のためフランス軍戦車に対して急降下爆撃を行ったが効果は薄く、機銃でエンジン部分を狙った方が確実に損害を与えることが出来た。1940年の対イギリス戦(バトル・オブ・ブリテン)では、防弾性能の低さと制空権を確保していない地点への投入によりスピットファイアやハリケーンなどのイギリス軍機に多数が撃墜され、大きな損害を出した。また、航続距離の不足から、英本土内陸の目標を攻撃することが出来なかった。以後さまざまなタイプに発展しながらも、(少なくとも外見的には)大きな改変は無く終戦までに5,709機が生産されることになる。1940年以降は主にアフリカ戦線、地中海戦線、東部戦線に配備された。東部戦線においては絶大な対地戦闘能力を発揮してドイツ陸軍を支援し、地中海では英空母「イラストリアス」を大破させるなど対艦攻撃にも活躍した。しかし大戦後半になると、本機の性能では連合国軍戦闘機が遊弋する昼間の作戦行動は自殺行為となり、夜間行動型に改修されて使用された。なお、本機に代わって地上支援任務についたのは Fw 190 の戦闘爆撃機型であった。Ju87はその操縦の容易さからも前線のパイロット達に好まれ、各シリーズ、特に後期にはG-1型を愛用したハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、終戦までに519両(630両との説もある)もの戦車を破壊し、"スツーカのルーデル"の異名を得たという。他にもシュトゥーカ乗りには単独(複座なので二人一組)で大きな戦果を挙げたパイロットが多い。プランはあったが機体が製作されることはなかった。プランはあったが機体が製作されることはなかった。D型をベースとした複座式の練習機。すでに旧式化していたJu 87はG型で対戦車攻撃機として新しい役割を担うこととなった。これはJu 87の実用化された中では最終型であり、東部戦線で使用された。1943年以降のドイツの軍備の弱体化に加え、凄まじい数のソ連戦車が出現していた状況下で、ユンカース社はこの脅威に対抗しうる戦力として既存の設計をうまく適用させた。Hs 129Bは有能な対地攻撃機ではあったが、Hs 129Bの大きな燃料タンクは敵の対空砲火に対して脆弱であり、ドイツ航空省は「できるだけ早期にHs 129Bの代わりとなる兵器が必要である」と述べた。ソ連戦車を主な標的とするJu 87 Dの更なる発展型として、Ju 87 Gの開発は1942年11月に始まった。11月3日に、エアハルト・ミルヒはJu 87の改良型を採用することに異論を唱え、完全に設計し直す必要があると問題提起した。しかし採用された設計は既存の設計を流用つつエンジンをJumo 211 Jに交換し、30mm機関砲を2門搭載したJu 87だった。また、この設計では1,000kg爆弾を自由落下式で運用する能力も持たせていた。さらに、低空での攻撃の際に地上の対空砲火から乗員を保護するための防御装甲をイリューシンIl-2シュトゥルモヴィークの防御装甲を参考にして装備させた。スツーカのエースであるハンス・ウルリッヒ・ルーデルは37mmFlak 18機関砲を2門搭載することを希望した。この案は、翼下に機関砲をガンポッド方式に搭載し、ガンポッド内に砲弾を収めるBordkanone BK 3.7として採用された。この装備は20mm MG 151/20 機関砲に対抗する装甲を備えたソ連戦車でも十分に破壊可能な能力を持っていた。このガンポッドはJu 87 D-1, W.Nr 2552に搭載され「グスタフのタンクキラー」と呼ばれた。1943年1月31日に初飛行を行い、テストパイロットはハンス=カール・シュテップ大尉が勤めた。同じ対戦車攻撃機として運用されていたBK 7.5 75mm砲を搭載したJu 88 P-1が多くの問題を抱えていたこともJu 87Gの量産に拍車をかけ、1943年4月、最初の量産型Ju 87 G-1が前線に送り届けられた。2門の37mm機関砲は主翼下のガンポッドに搭載され、1門で12発、合計24発のタングステンの徹甲弾を搭載していた。この最初のG-1数機はオットー・ベイス中佐の率いる対戦車攻撃実験隊へ配属され、ブリヤレスク方面の戦闘で初陣を飾った。この初陣にはルーデル大尉も加わった。本機はこの特徴的な機関砲から「大砲鳥」(カノーネンフォーゲル Kanonenvogel)の愛称で呼ばれ、ルーデルを筆頭とするドイツ空軍スツーカ・エースの手によって大きな成果を挙げたが、反面、無理に搭載した37mm砲による重量過多と安定性の欠如から、ルーデルをして「操縦が恐ろしく難しい機体」と言わしめた。戦闘前にかなりの数のD型に37mm機関砲が取り付けられG型として運用された。1943年6月に、RLMは20機のJu 87 G型を発注した。遅い飛行速度と大きな主翼による低い失速速度は、上陸用舟艇や、地上の戦車、トラックのような移動速度の遅い目標を攻撃するのに有効であった。A-1(武装は除く)G-2(武装は除く)2機が完全な状態で保存されているほか、各地に残骸が残されている。
出典:wikipedia
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