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王貞治

王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督。福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長。日本プロ野球名球会顧問。レギュラーシーズン通算本塁打868本を記録し、巨人のV9に貢献。1977年、初めて国民栄誉賞を受賞した人物であり、2010年には文化功労者として顕彰された。一本足打法(世界のフラミンゴ)と呼ばれる独特の打法で通算本塁打数、当時のシーズン本塁打数の日本記録を打ち立てるなど、ON砲として並び称された長嶋茂雄とともに、巨人の「V9」時代の顔として国民的人気を誇った。王の記録したシーズン公式戦通算本塁打868本は日本プロ野球記録であり、ハンク・アーロンが保持していたメジャーリーグ通算本塁打記録の755本塁打を抜いた事で知られるほか、数々の日本プロ野球記録を保持する(記録の詳細については後述)。現役引退後は巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を歴任した。2008年シーズン終了と同時にソフトバンクの監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日に取締役会長に昇進。第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督であり、第2回大会では監督相談役、第3回大会では特別顧問を務めた。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問、読売巨人軍OB会前会長、日本プロ野球名球会顧問、(ハンク・アーロンともに提唱された世界少年野球大会を主催する)世界少年野球推進財団理事長、外務省より委嘱の野球特別大使、「ふるさと清掃運動会」実行委員長を務める。中華民国二等景星勲章授与。東京都名誉都民、目黒区名誉区民、福岡市名誉市民、宮崎市名誉市民。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(浙江省青田県(現・浙江省麗水市青田県)出身。1922年渡日)の王仕福、日本人(富山県氷見市出身)の登美(旧姓: 當住)の次男として生まれる。5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は諸説あり、取り上げられても泣かない程の未熟児であるので両親が出生届の提出を躊躇したという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のため出生届の提出が遅れたなどの説がある。命名についても、実家近くの寺院の僧侶が名付けたという説や、母・登美の愛読書の作中人物の名を採用したという説がある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は1歳3か月で死亡した。一方の貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかず、四歳でやっと丈夫になれた」と本人が述べている。太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。当時は、異国人の子供はいじめられてしまうケースが多かったが、王いわく「自分は中学生の時点で175cm前後あり、実際に肩幅もよかった。もっと実際の話をすれば、好戦的で喧嘩も強いと認められていた。だからいじめられなかった」とのことである。後に師匠となる荒川博との出逢いは、区立本所中学時代、当時毎日オリオンズの現役選手だった荒川が、犬の散歩をしている際通りがかった隅田公園今戸グラウンドで王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、王は「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えた。荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った(荒川自身も左打者だった)。それを聞いた王はすぐに左打ちを実践したところ、左中間をライナーで破る二塁打を打ち、以後は左で打つようになった。荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。また、王は早熟した肉体をもっており、中学生でありながら身長176cmと長身だった。王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えたのを受けて、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の母校)はどうかな?」と勧めた。すると王が「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたという。小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。父・仕福は自分の出身地が医師と電気が全くなかったことから長男・鐵城を医師に、二男・貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが第一志望だった進学校の都立墨田川高校に落ち、荒川の母校である早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と振り返っている。また、荒川との出会いがなければ、都立墨田川高校受験失敗後、野球をやろうと思って早稲田実業高校に行くこともなく、巨人への入団もなかったと述べている。早実高等部時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場。2回戦では1年生ながら先発登板を果たしたが、強豪・県立岐阜商業高校相手に1-8と敗れている。1年生の秋よりエースとなる。久保田高行総監督・宮井勝成監督の指導のもと、ノーワインドアップ投法を身に付け、投球に安定感が増した。1957年二度目の甲子園参戦の春の甲子園で準決勝まで3試合連続完封。4月7日高知商業高校と対戦した決勝戦では、8回に3点を奪われて4試合連続完封を逃したものの、5対3で完投勝利し、優勝を果たす。この試合では、王の左手中指と人差し指のマメがつぶれ、血染めのボールを投じての完投劇であった。関東に初めて選抜優勝旗をもたらし、人気を集めた。2年夏の甲子園では2回戦の寝屋川高校戦で延長11回を完投し、ノーヒットノーランを達成。延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っている。2年生の年、早実は国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は中華民国(台湾)国籍)のため出場できなかった(なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている)。王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。今振り返ってもそういうこともあったな、程度。甲子園大会でそういう規定があったら悔やんでも悔やみきれなかっただろうけど」と語っている。3年生時の選抜大会では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った(当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。金属バットの使用が認められるのは1974年からである)。3年生の夏は、東京都大会の決勝戦で明治高校と対戦、1対1で迎えた延長12回表に4点を奪いながらその裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し、5季連続の甲子園出場は果たせなかった。この時、早実の野球部長の音頭により、甲子園本大会に向けて大阪に出発する明治高校ナインを早実野球部員全員で東京駅にて見送った。もともと王は父の意向もあって大学進学を考えており、高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため断っている。王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っている。プロ野球の各チームが熱心に誘ったが、特に熱心だったのが王に縁の深い甲子園を本拠地とする大阪タイガース(阪神) であった。新聞は「王、阪神へ」と大きく報道。親も高卒選手の多い阪神を薦めていたため、当初は前述の事情もあってスカウトに参戦していなかった巨人が急きょ「大学に行くと聞いていたので獲得に乗り出さなかったが、プロに行くならぜひうちへ」と獲得参戦してきた。もともと東京で生まれ育った王は「プロに行くなら巨人」と考えており、気持ちは非常に揺れ動いたという。しかし、最後は自分の気持ちを貫き、巨人入団を決めた。兄・鉄城が同意してくれたことも心強かったという。に契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によって1が空いていたため、それを付けることになったというのが実情である。プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。当初は投手として入団したが、監督の水原茂に「王、お前はピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。当時エースの藤田元司は王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と述べている。また、前年に引退して同年からコーチになった川上哲治は、「何というか、球筋がやさしいんですね。"おおっ"っていうのがない。しかしバッティングはすごかった」と語っている。川上によれば、王のバッティングは構えからスイングまで全く顔が動かず、新人ながら基本が完成していたという。当時二軍監督だった千葉茂は練習後に王と入浴した際、「王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう」と感じ、水原に「ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます」と野手起用を進言した。王自身は「(自分が投手として通用しないことは)薄々感づいてはいた。だけど、やはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、『おまえ、明日からは野手だ』と言われた時は正直に言えば寂しかった」と語っているが、川上の引退直後であり、その後継一塁手としての期待は大きかった。ライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいで、その与那嶺もキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、4月11日に国鉄スワローズとの開幕戦では高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。同結果は長嶋茂雄の初試合4打席連続三振とよく比較される。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続き、バットを956グラムから938グラムに軽くしていた。4月26日後楽園球場での宇野光雄率いる国鉄との6回戦(ダブルヘッダー第2試合)スコア0対0で迎えた7回表二死、敵失で出塁した坂崎一彦を一塁に置いて王に第3打席が巡ってきた。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕戦こそ金田の前に敗れたがその後8連勝するなど開幕ダッシュに成功、国鉄戦もこの日の第1試合を含め4連勝中と余裕があり、また、走者が得点圏ではなく一塁で、この日の王の打順は8番で次打者が投手だったため代打を温存したかった事情もあり、王をそのまま打席に送った。王は国鉄の村田元一が2ストライク1ボールからの4球目に投じた内角低めのカーブをすくい上げ、打球はライトスタンド最前列に落ちた。守備では伊藤芳明が4安打完封して、試合は巨人が2対0で勝利した。公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)。これが王の記念すべき1号本塁打となった。同年6月25日の天覧試合では、7回に2対4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ランを放った。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打の第1号である。しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は打率.161・7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られるなど、後に本塁打王と呼ばれるとは思えない成績だった。ただし、主力選手でも遠慮していた水原監督の隣の座をいつも占め、「監督、今の一塁手のプレーにはどういう意味があるのでしょうか?」と堂々と質問したり、記者から「(不振の)重圧はありませんか?」と尋ねられても、「別に。使っているのは監督さんですから」と答え、新人としては異例の姿勢だった。また、期待はずれの成績にもかかわらず、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで1度も契約更改でもめることはなかった。の更改は2年連続三冠王にもかかわらず現状維持であったが、それでも文句を言わずサインしている。プロの水に慣れた2年目は打率.270・17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手・木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。3年目の、川上が水原の後を継いで監督に就任。川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、打率.253・13本塁打と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。この年中日に入団し、ルーキーながらエースとして活躍した権藤博は王について「速球はある程度対応してくるけど、カーブを投げておけば簡単に空振りして尻餅をついていた。かわいいもんだと思った」と語っている。高卒3年目としてはそれなりの成績だったが、契約金の額や首脳陣の期待からすれば物足りない数字だった。大きな期待がかかりながら伸び悩む王には、阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話も持ち上がっていた(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。1961年シーズンオフ、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する。荒川就任は、読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの であり、川上は榎本喜八を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。川上は、王について「3割、25本塁打は十分打てる素質がある」と見込んでおり、その見込みに対して成績が思うように伸びない理由は、練習をちゃんとしないために結果が出ず、そのために自信を持てず、更に練習に身が入らない、という悪循環のためだと考えた。川上が荒川に最も強く期待したのは、王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。61年の秋季キャンプで久々に王を見た荒川は「なんだ、こんなスイングではドッジボールでしか当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川は同時に「これだけ(打ちにいく際に、手足の動きがバラバラで不安定・一定でないため、簡単にスイングを崩される)悪い打ち方 でも、.270打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。荒川は、「バックスイングに入る始動が遅いから、打つときにバットの出が遅れるんだ」と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。そのうちのひとつが「一本足打法」だったが、この時はいくつか試した打法のひとつに過ぎず、ほんの2・3日練習しただけだった。王は右足を上げた時に手首を回す悪い癖があったので、最初からステップした状態を作っておけばその悪癖を修正できるというのが荒川の狙いであった。シーズンが開幕。川上は王への期待を込め、開幕戦(4月7日、対阪神)で公式戦では初めて王を4番で起用した(公式戦以外では、前年の日本シリーズ第1戦、第2戦にて王を4番で起用していた)。シーズン3ヶ月経った時点では9本塁打という成績で、6月後半は極度の不振に陥っていた。自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だった。シーズン半ばの7月1日、試合前の監督コーチ会議にて、別所毅彦ヘッドコーチが八つ当たりぎみに「王が打てないから勝てないんだ」と荒川に言い、荒川も頭に血が上り、思わず「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返してしまった(荒川は後年『三冠王を取らせる』というのは咄嗟にホラを吹いてしまったものだったと語っている)。しかし別所は揚げ足を取るように「そのホームランだけでもいいから打たせろ」と怒鳴った。困り果てて頭に血が上った荒川は、血相を変えて部屋を飛び出し、王をつかまえて「今日から一本足で打て。三振を怖がるな」と凄まじい形相で命じた。なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている。1962年7月1日の対三原脩率いる大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー(15・16回戦、川崎球場)は、前日夜半から当日昼までの降雨の影響等により試合開始が30分遅れた。前夜の試合(14回戦)では22歳の王を3番打者に起用したが2打数2三振1四球に終わり、チームも中2日の左腕鈴木隆に抑えられて安打は須藤豊のテキサスヒット1本のみ、四球は2つで完封され、6安打完投の藤田元司を援護できず、9回裏の先頭打者森徹の本塁打により0対1でサヨナラ負けを喫していた。そのため、同日の巨人は試合前の打撃練習を10分間延長。更に第1試合で王を1番に起用し、王は一本足打法を敢行した。王は先発のルーキー右腕稲川誠から第1打席2ストライク0ボールからの3球目外角カーブを右前単打、3回表の第2打席初球内角低めのストレートを右翼席へ先制の10号ソロ本塁打(通算第47号、16試合68打席ぶり)、3番手の左腕権藤正利から6回表の第4打席二死満塁2ストライク3ボールでカーブを中堅左に単打して走者一掃の活躍を見せ、結果は5打数3安打4打点だった。試合は王(3回表ソロ)・森祇晶(4回表ソロ)・塩原明(5回表ソロ)・藤本伸(8回表3ラン)の計4本塁打を含む13安打の猛攻と中村稔投手の2塁を踏ませぬ3安打完封とで、巨人が10対0で勝利した。第2試合でも王は1番に起用されて結果は4打数無安打であったが、2回に遊撃手・8番打者の藤本が1死満塁の場面で島田源太郎から右前へ先制2点適時打を放ち、7回に宮本敏雄が秋山登から左翼へソロ本塁打を放った。投手陣は宮田征典(3イニング)から堀内庄(6イニング)の継投で、フランシス・アグウィリーの3安打のみ・7回右翼へのソロ本塁打での失点のみに抑えて守りきり、チームは3対1で連勝した。後に荒川は「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった1日で王の運命が左右されたことになる。ただし、この頃の王はフォームを変えることが珍しくなく、7月1日の試合におけるフォームの変化については、翌日の新聞は巨人の親会社である読売新聞をはじめほとんど報じていない。7月に入り王が立て続けに2本、3本と本塁打ペースが上がってきたところで「そういえば変な打ち方しているぞ」と騒ぎ始めたという。開幕の4月から6月まで9本塁打だった王は、7月の1ヶ月だけで10本塁打を放ち、一気に本塁打の量産ペースを上げた。王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、練習に打ち込むようになった。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家・羽賀準一のもとに弟子入りして居合を習うと共に、日本刀による素振りの指導を受けた。特に有名なエピソードとして、「天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る」という練習があった。これは一本足打法の弱点を克服させるためであった。一本足打法は、投球のタイミングをずらされると通用しなくなるという弱点があった。7月1日に一本足打法を披露したものの、その後に国鉄の金田正一に同弱点を見破られ、早くも壁にぶつかることになった。例えば、金田は速球を投げる素振りをして、スローボールを投げる等で打つタイミングをずらす投法に出たのである。荒川も弱点は把握しており、弱点が見破られるのは想定内と考えていた。そこで一本足で立って、巧妙な投球であっても対応できる訓練を王に課した。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。このような王の練習がどれ程のものだったかは、当時チームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ。まさにすさまじい練習だった。あんな命がけの練習をする選手は今いない(広岡)」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな! そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、みている自分たちまで叱られているような気がしてきて、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」と語っている。南海時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん(野村の愛称)、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。その時、野村は「ああ…、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後、野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」「あれだけ練習した王だから、世界記録を作っても不思議ではない」と記している。更に「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。この年38本塁打・85打点で初めて本塁打王と打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で822本塁打を記録した。の梶原一騎との対談 では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退」という趣旨の発言をしている。前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた一人である。「隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。後にこの打法で本塁打記録が達成され、アメリカのメディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶ者がおり、これに由来するものである。1981年から1987年までは後楽園球場、1998年から現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されており、そのモニュメントで再現されている。また2002年には王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売され、一本足打法が再現されている。翌、初めて打率3割・40本塁打を記録し、2年連続で本塁打王を獲得。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の二枚看板を背負うようになった。3月20日の林義一率いる国鉄との開幕戦(後楽園球場)では、プロ15年目で10度目の開幕投手を務める金田正一投手と小雨の中対決した。23歳、6年目の王は開幕戦では15打席ヒットがなかったが、16打席目の3回裏二死で1塁に柴田勲を置いて1ストライク3ボールからの5球目真ん中やや低めの直球をライト場外へ2ラン本塁打(通算116号)を放つ。打球はライトスタンド場外に設置されていたローラースケート場の隣のコーヒーショップの屋根まで飛び、推定飛距離151mとされている。金田からすると本塁打を打たれた球は「見逃せばボール球で、王から三振を奪える絶対的な球」と語っている。守備では初めて開幕投手を任された高橋明が6安打完投して、試合は3対1で巨人が勝利した。この本塁打は金田を驚嘆させたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり、打たれた球種・コースを投げ続けたが、同年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前から研究をしたが、王は打たれてから研究した」と語っている(別のTV番組では、「ワシはバッターの研究なんてしたことがない。研究したのは王貞治が初めてだったね」と語っている)。この年、王は金田から1試合2本塁打2回を含む7本塁打を奪い、同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録となっている。5月3日の対藤本定義率いる阪神タイガース戦(7回戦、後楽園球場)では史上初の1試合4打席連続本塁打を記録した。1回1塁に国松彰を置いて先発の左腕太田紘一からフルカウントで6球目の真ん中高めのカーブを右翼場外の富坂署球場派出所を越えてアイスパレスとローラースケート場の中間に届く約150mの14号2ラン、4回再び太田の初球の真ん中高めの直球を15号ソロ、6回3番手の若生智男から1ストライク2ボールで4球目の真ん中高めのカーブを16号ソロ、さらに7回2塁に柴田を置いて4番手の本間勝から1ストライク2ボールで4球目の外角低めの直球を17号2ラン、すべて130m超級の本塁打で4打数4安打6打点、守りは高橋明投手が完封して9対0で巨人が勝利した。この時点で打点39、打率.405の三冠。手のつけられない打棒対策として、2日後の5月5日広島とのダブルヘッダー第2試合(8回戦、後楽園球場)で白石勝巳監督が7回裏一死の場面で「王シフト(白石シフト)」と呼ばれる守備体系を開始したことで話題になった。「最後の4割打者」テッド・ウィリアムズに対して考案したブードローシフトと同様で、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れて野手の内6人をライト側に守らせたが、王は王シフトにも動じることはなく、その打席でプルヒッティングも流し打ちもせず鵜狩道夫投手が投じたカウント1ストライク2ボールからの4球目内角高めの球をバックスクリーンのわずか右へ18号本塁打(通算133号)を放った。7月19日後楽園球場での対国鉄21回戦では、7回無死1塁に遊撃右への内野安打で出塁した塩原明を置いて(塩原はこの日2本目の安打)、半沢士郎がカウント1ストライクで投じた2球目やや外角寄りの低めの速球をすくい上げると、高さ9mのバックスクリーンを越え、スコアボードとの間のスタンドに届く150m級の37号2ランとなった(通算152号)。後楽園球場のバックスクリーン越えの本塁打は史上初。9月6日129試合目の三原監督率いる大洋とのダブルヘッダー第1試合(24回戦、川崎球場)で1回の第一打席に鈴木隆投手の1ストライク1ボールからの3球目内角低め膝元に落ちるカーブを52号ソロ、6回の第三打席は交代したばかりの峰国安投手の初球の真ん中高めの直球を逆風の中53号の本塁打を放ち、前年に野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去った。15日後、9試合後の9月21日には広島での28回戦で七森由康が最後の勝利を唯一の完封(被安打は3回にカーブを打った田中尊と三遊間を破った大和田明による2本のみ、広島に3塁踏ませず)で飾ったが、この試合では四回に安仁屋宗八の1ボールでの2球目真ん中高めの直球を坂崎一彦がバックスクリーンへ先制5号ソロ本塁打を放った後、六回一死一塁に中前打の長嶋茂雄を置いて、安仁屋のカウント1-1での内角膝元のスライダーを王が叩くと、打球は逆風をついて右翼フェンスをぎりぎり越えて、53号から37打席ぶりの54号2ランとなった。この日の広島は、王の安打を約15本防いで、王の首位打者(三冠王)獲得を阻止したと評価されている王シフトを解除しており(理由は非公表)、54号の飛球を追った広島の右翼手は小坂佳隆であった。9月23日最終戦の対大洋ダブルヘッダー第2試合(28回戦、後楽園球場)で雨中の5回裏に佐々木吉郎投手からシーズン55号(通算170号)本塁打を24歳で記録した。これは2013年にヤクルトのウラディミール・バレンティンに破られるまで長年プロ野球記録であった。55本塁打のうち24本は飛距離400フィート(約122m)以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。参考に、この年のセ・リーグにおいて第2位の本塁打数はM・クレス(当時は大洋所属)の36本で、両リーグ合わせて第2位の本塁打数は野村克也(当時は南海所属)の41本であり、両者を10本以上も突き放しての数字である。また、55本塁打のうち17本は左投手から奪った本塁打であり、金田正一からは7本塁打を記録した(前述)。この年、巨人は優勝しなかった(優勝は阪神)にもかかわらず、王はシーズンMVPに選ばれた。それまで、王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだった。しかし「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に、王は一本足打法こそ自身のバッティングスタイルであると確信した。この年のオフからオープン戦の途中まで2本足に戻した3ヶ月の間に、自分には一本足打法が一番あってることを再確認でき、それがその年の55本塁打につながったと述べている。また、王は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、相手バッテリーが警戒して四球・敬遠が増えた関連で打率が残り始め、1964年は江藤愼一と最後まで首位打者を争い続けた。この年は2度目の打点王も獲得したが、首位打者争いは3厘差で江藤に及ばず、三冠王は逃した。翌はシーズン中の怪我の影響で本塁打は42本に減少したが、4年連続の本塁打王、109打点で2年連続3度目の打点王。打率は再び江藤に及ばず2位だったが、2年連続のMVPに選ばれた。、はともに97試合で40号に到達するハイペースの本塁打量産を見せたが(にランディ・バースがタイ記録を作ったが、現在も40号到達最速記録)、いずれもシーズン終盤にペースが落ち、記録更新には届かなかった。後に、1992年プロ野球ドラフト会議における目玉選手の一人となった松井秀喜が読売ジャイアンツに入団することとなった。巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄はその際、松井の背番号を55とするがそのきっかけとなった記録でもある。9月17日の対阪神戦(阪神甲子園球場)にて、プロ2年目の江夏豊に稲尾和久と並ぶシーズン353奪三振目を喫する。江夏はそこからわざと8人から三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪って見せた。王はわざと三振を取らずに一巡させたことについては「俺はこれ(眉に唾をつける動作をしながら)だと思う」と懐疑的だが、江夏との対戦については「三振を恐れるようなスイングだけは絶対にしたくなかった。それに中途半端なスイングじゃ江夏の球は打てないしね」と常に全力で対決に臨んだことを証言している。王が最も三振を奪われた投手は最大のライバル江夏からであるが、その江夏が最も本塁打を打たれた打者は王である。そして約250回の対戦で死球は只の1回だけであり、関係者から指摘されるまで、お互いに死球はゼロだと思っていた。王は江夏について「『こいつは絶対に抑えてやる』『こいつから絶対に打ってやる』とお互いに強い意識を持った相手という意味で最高のライバルだったんじゃないかな」と語っている。翌9月18日の対阪神戦では、ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーの元に詰め寄った。この時、王は第1打席でバッキーから死球を受けていた。第2打席は三振に倒れていたが、4回バッキーが巨人打線に捕まり、失策や3連打などを浴びており、長嶋も「バッキー、やばいぞ」とささやいてたところで迎えた第3打席、初球が頭付近への危ない投球となり、捕手の辻佳紀に「今度(危険球が)来たらもう我慢できんぞ」と言っていたところに2球目も腰の付近に来たというものであった(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、荒川コーチがバッキーと乱闘して2人が退場となった。更に交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤からレフトスタンドに3ランを叩き込み、事実上の報復を果たした。王も頭部陥没骨折の重傷を負っていたが、接骨医の懸命の治療で大事には至らず、2試合欠場しただけで復帰し、復帰した試合では2本の本塁打を放っている。また、同事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折し、投手生命を絶たれる原因となった。なお、王は4月12日の対中日戦(後楽園球場)で中日の柿本実の長嶋への危険球を発端とする乱闘(この乱闘で金田正一が柿本に足蹴りを見舞い、退場となっている)でも、乱闘には参加せずベンチで独り手を洗い水を飲んでいたという逸話があるほど争いを好まず、乱闘の口火を切ったのはこのバッキーとの諍いが唯一である。ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。以後、まで3年連続首位打者を獲得した。いずれも本塁打王との二冠だったが、打点王は3年連続で長嶋に阻まれ、三冠王には届かなかった。しかし1969年、1970年は再び2年連続でMVPに選ばれた。この時点でMVP獲得5回となり、4回の長嶋を上回った。しかしシーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。打席に立つのが「怖かった」と振り返る程の不振で、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。タイトルは10年連続の本塁打王を守り、打点王も奪還したが、6度目の首位打者となった長嶋にMVPは譲った。しかし、同年9月15日の対阪神24回戦(甲子園)にて江夏に3連続三振を喫した後、0対2とリードされて迎えた9回表二死二三塁での第4打席に放った逆転3ランは王にとって756号に匹敵する忘れられない本塁打のひとつだという。江夏が投じたこの打席7球目、試合開始から153球目の内角ベルト付近の速球であった。極度の不振に陥っていた中で打った本塁打だったこともあり、ダイヤモンドを一周する間号泣していた。王が「現役時代に唯一涙を流した本塁打」となった。同対決及び本塁打のことは江夏もよく覚えており、2人とも「このような対決こそが野球の醍醐味」と語っている。この本塁打は王の通算485号であった。また、同年の日本シリーズ第3戦(10月15日、後楽園)9回裏二死一三塁では、当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志のカウント1-1からの3球目内角低めの球を捉え、シリーズの流れを決める逆転サヨナラ3ラン(シリーズ通算21号)を放ち、チームの日本一に貢献。この本塁打についても、「宙に浮くようなフワフワした気持でベースを一周したのは後にも先にもあれだけ」と語っており、通算本塁打にこそ含まれないものの、よく覚えているという。一方、スランプは翌まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上哲治監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。しかし32歳の王は頑なに一本足打法を貫いてスランプを脱出し、9月20日には923グラム88センチの圧縮バットでついに公式戦7試合連続本塁打の記録を達成した。9月11日宮本洋二郎から雨中の34号ソロ(後楽園、通算520号)でストリークを開始して、13日先発上田次朗のスライダーを打って35号ソロおよび江夏豊の直球を打って36号ソロ(後楽園)、14日谷村智啓から雨中の37号2ラン(後楽園)、17日のダブルヘッダーでは第1試合に渋谷幸春から38号ソロ、第2試合に稲葉光雄から39号ソロと土屋紘から40号2ランで、この2試合は6打数4安打4四球(後楽園)、19日はルーキー山本和行のフルカウントでの6球目(試合開始から19球目)のシュートを41号2ラン(甲子園)、20日は村山実の4球目(試合開始から15球目)の真ん中高めのフォークを42号ソロ(甲子園)。これは1986年にランディ・バースに並ばれたが、未だに日本プロ野球記録である。この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を切ったものの、48本塁打と再び大台を突破し、当時の自己最多となる120打点を記録、復活を遂げた。、打率.355・51本塁打・114打点で史上3人目の三冠王を獲得。ここまで9年連続を含む10度二冠の王にとって悲願の三冠王獲得だった。同年、通算本塁打数でも野村克也を抜き、プロ野球歴代1位に踊り出た(1973年シーズン終了時・王585本、野村579本)。翌も打率.332・49本塁打・107打点で史上初の2年連続三冠王に輝いた。同年8月4日の対阪神戦では、古沢憲司から史上8人目となる通算2000本安打を達成。この頃になると、長嶋が既に現役最晩年で往年の打棒が望めず、他球団の警戒は王に集中していた。これは1973年の124四球(38敬遠)、1974年の158四球(45敬遠)という記録にも表れている。特に1974年は四球と敬遠に加え、出塁数294、長打率.761も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新し、非公式の記録では出塁率.532、OPS1.293、本塁打率7.86、RC2714.9825などもシーズン最高記録であった。これらの記録の内、長打率、本塁打率(現在の記録保持者は共にウラディミール・バレンティン)以外の記録は未だに更新されていない。しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年には辛うじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれたが王は2年連続でMVPに選ばれた。王の通算本塁打が600本を越えた頃から、王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。そのような中での、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、さらには長嶋の引退でさらに王に他球団のマークが集中したことで、打率.285、33本塁打、96打点に終わり、打点王こそ守ったもののこの1冠のみに終わり、13年守り続けた本塁打王の座を田淵幸一に明け渡すこととなった。この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。引退した長嶋の後継として期待されたデーブ・ジョンソンが大不振で、他の主力選手もそろって不振に陥り、巨人は球団創設以来初の最下位となった。しかし、記録への挑戦をモチベーションとして、さらに張本勲の加入による「OH砲」の形成とジョンソンの復調で攻撃の負担が軽減され、翌は再び打棒が爆発。64試合で30号に到達、オールスターゲームまでに32本塁打というハイペースで本塁打を量産した。「64試合で30号」は、2001年にアレックス・カブレラがタイ記録を作ったものの、現在も最速記録である。シーズン65試合目の7月3日ナゴヤ球場での対中日15回戦で、2打席連続本塁打を放ち、シーズン32号で通算699号に到達。この試合の6回に一塁にストレートの四球の張本を置いて初先発のルーキー青山久人のフルカウントでの6球目外角高めの直球を'76年初めて左翼へ打って同点698号2ラン、8回には二番手鈴木孝政の1ボールでの2球目のフォークボールを打って逆転の699号2ラン。この試合から日数で20日後、試合数にして7試合目(札幌、後楽園、鹿児島、熊本を経由)、オールスター戦が明けて間もなくの土用の7月23日対大洋16回戦(川崎球場)、8回表の第5打席に鵜沢達雄の初球真ん中高めのフォークを33号2ラン本塁打して、通算2270試合目にして通算700号を達成した。700号を打った川崎球場では、ホームチームでない選手の記録にもかかわらず、スタンドインした付近のフェンスに記念プレートが設置された。後楽園球場での広島戦で3打席連続本塁打を放って712号まで到達し(9月30日三輪悟からソロ本塁打2本、10月1日池谷公二郎から2ラン)、その6試合後10月10日の対阪神22回戦(後楽園球場)で古沢憲司から2本塁打(1回の第1打席では1塁に張本勲を置いてカウント1ボールでの2球目外角寄りのシュートを打って「神風が運んだ」46号2ラン、7回の第3打席では午後3時2分に初球真ん中高めのスローカーブを打って右翼の外野指定席442番付近に運ぶ47号ソロ本塁打)して、現役18年目、通算2317試合目にしてベーブ・ルースの714号に並んだ(ルースは2503試合目、アーロンは2965試合目に記録)。翌10月11日は最初の4打席は4四死球でこの日の記録更新は危ぶまれたが、714号の25時間10分後、8回裏第5打席にフルカウントで山本和行が投じた高めのボール球のシュートをこの日の3スイング目で捉え、右翼ポールの金網を直撃する「最短距離で経済的」かつファウルにならずに「儲けた」715号2ラン本塁打(シーズン48号)を放ち(球審: 丸山博)、一気にルースを抜いた。(「」内は王自身のコメント)10月16日広島での最終戦では、6回表に王はそれまで4安打1失点に抑えていた高橋里志の投じた2ストライク1ボールでの5球目真ん中高めの直球を打って716号2ランで同点にして(午後2時18分)、ジョンソンが高橋のど真ん中のボールを叩いて左翼最上段に決勝26号ソロで勝ち越し(午後2時21分)、さらに河埜和正、加藤初、柴田勲の3連打で加点する逆転劇、守備では加藤初(5イニングを6安打3失点) - 小林繁(4イニングを1安打無失点)のリレーでスコア5-3で逃げ切り、長嶋巨人は前年最下位から優勝を果たし、王は14回目の本塁打王を獲得した。同年、アーロンが引退。王の目標はアーロンの記録である755本に定まった。新記録の756号まであと40本で迎えた、マスコミやファンの興味が王の「世界新記録」に集まる中、4月2日開幕戦(対中日、後楽園球場、通算2323試合目)の3回裏二死での第2打席に松本幸行の2球目真ん中低めのカーブを打って通算14本目の満塁本塁打を放ち好調なスタートを切ったかに見えたが、その後はなかなか打球が上がらず、4月は打率こそ.350台をキープしていたものの月間わずか4本塁打に終わる。続く5月は極度の不振に陥り、打率ベストテンからも名前が消えるほどになった。本塁打争いも好調なスタートを切った田代富雄、ハル・ブリーデン、山本浩二らに大きく差をつけられ、本人の口からも「アーロンの姿が見えたかと思ったら霞んでいく」と弱気な発言が出るほどだった。しかし、37歳になった5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打を記録。そして例年最も本塁打を量産していた8月に猛スパート。8月11日には16年連続となる30号(通算746号)を記録し、本塁打王争いでも首位を走っていた山本浩を遂にとらえる。8月最も本塁打が出なかった期間は、節目かつ新記録へのカウントダウンが現実味を持ちだす750号達成時の9日間で、あとはほとんどコンスタントに本塁打を量産した。8月31日の後楽園球場での対大洋22回戦1回裏1死、午後6時37分40秒、出塁した土井正三を1塁に置いて三浦道男のカウント1ストライク3ボールからの5球目真ん中低めのカーブを打って滞空時間5秒の2ラン本塁打して23秒6、歩数64でダイヤモンドを一周し、現役19年目、通算2425試合目、10145打席目にしてアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を記録(アーロンは23年目、3275試合目に記録)。8月だけで13本塁打の猛チャージをかけた。その3試合後、14打席目(通算7878打数目)の9月3日対ヤクルトスワローズ23回戦3回裏一死無走者の第2打席で、午後7時10分6秒、フルカウントでの6球目(試合開始から50球目)鈴木康二朗のど真ん中のシュートを滞空時間4秒でライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られるはずとなっていたが、2日間本塁打が出なかったため、その分のカーネーションは無駄となった。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ(くす玉は800号達成時にも用意され割られた)、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあり、球場からは「親孝行も日本一」の声が飛んだ。この試合途中で、長嶋は特にホームランをよく飛ばしたライトスタンドの応援団へのお礼を込めたファンサービスとして、ライトの守備位置に立たせるという計らいを見せた。一方、756号を打たれた鈴木は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起し、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続け、その後は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍していた。756号を打たれた投手には「勇気ある投手賞」としてサイパン旅行が送られることになっていたが、鈴木はプロの矜持としてこれを断っている。日本テレビは当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。当時の中継は19時30分からの放映で、記録を決めた19時10分の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!!」で繰り返し流された。この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与された。また、756号を達成した後楽園球場では外野の落下地点に記念のモニュメントが設置された(現在は東京ドーム内の野球体育博物館に飾られている)。王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。王の記録は、アーロン、バリー・ボンズやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録のひとつとして記載されている。また、本塁打においては球場の広さも重要な因子となるが、王の現役時代に巨人が本拠地としていた後楽園球場は、当時のメジャーリーグの球場と比較しても著しく狭い球場であった。米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出して王の記録を「無価値なもの」とし、メジャーリーグでも非公認扱いとされている。しかし王を大いに評価する声も多く、ハンク・アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表して祝福し、フラミンゴの剥製を王に贈っている。また、王を尊敬するメジャーリーガーも少なくない。後述の#アメリカでの評価も参照。756号を打った9月3日は深夜までTV出演やインタビュー、祝福の電話の対応などでほとんど眠れなかったにもかかわらず、翌9月4日の対ヤクルト戦にも普段通り出場し、10回無死一二塁に安田猛から通算757号となるサヨナラ3ラン(シーズン41号、サヨナラ本塁打8号)を放ち、優勝マジック13とした。これを含め、このシーズンは更に10本塁打を上積みし、自身3度目となる50本塁打を達成した。記録への挑戦が続いた1976年・1977年の2年はそれぞれ49本・50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、123打点、124打点(王の個人ベスト)で2年連続打点王と二冠、4度目の2年連続シーズンMVPに選ばれた。4度の2年連続MVP、9度のMVP選出は現在もプロ野球記録である。には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。同年は9月に日本プロ野球史上初の2000打点を記録し、8年連続となる打点王を確保するが、これが現役時代最後に獲得した主要打撃タイトルとなった。は、打率.285・33本塁打・81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980・89四球となり、衰えは隠せなかった。なお、この年の9月21日の対阪神戦で自身唯一の代打本塁打を放っている(ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが、代打本塁打は1本も記録していない)。、シーズン1号本塁打で、オープン戦、日本シリーズ等も含めた通算した総本塁打数1000に達したが、打率.236(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)・30本塁打・84打点に終わり、ついにベストナインの選出からも漏れる。OPSも.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。30本塁打は一般的にはスラッガーとして恥ずかしくない数字だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。それでも王は、30号本塁打を放った時のインタビューで「来年の目標? 笑われても言うよ、40本って」「来年は大台(通算900号)という目標があるからね。もうひと踏ん張りだね」と語り、圧縮バットが禁止される翌シーズンに向けて練習では白木のバットを使い始めるなど、現役続行に意欲を見せていた。ところが10月、長嶋茂雄監督辞任、藤田元司監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。藤田は要請にあたり現役兼任を考えていたと語っているが、現役続行か引退か迷っていた王はこの要請を受け、遂に決断を下した。後年、王自身は43歳まで現役を続けたかったと語っており、大豊泰昭や小久保裕紀、松中信彦、タフィ・ローズなどの強打者に対し、「43歳までプレーしなさい」と伝えている。同年10月12日の126試合目、対ヤクルト26回戦(後楽園)で6回裏二死三塁の第3打席に神部年男の3球目のカーブを打った2ラン本塁打が、公式戦最後の本塁打(通算868号)となった。通算868号の本塁打を打ったバットは徳光和夫が所有しており、徳光が『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演した際に鑑定のため持ち込んだことがある。王は後述する八代亜紀のエピソードにもあるように、本塁打を打ったバットを知人にプレゼントすることが多かったため、当初徳光は自分の持つバットが本当に868号を打ったバットとは思わず、自宅で青竹踏み代わりに使っていたという。11月4日、現役引退を表明。「王貞治としてのバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。王が後日、引退を決意した瞬間について、「その年(1980年)の後楽園球場での中日との試合で、先発した戸田(善紀) 君の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『ああ、俺ももう御仕舞いかなあ…』と思ったんだよ」と語っている。また、近藤唯之ほか複数の記者が王が試合中に当時流行していたルービック・キューブを回す姿を目撃しており、近藤はこの王の姿を見て「王はもう燃え尽きたんだ」と思ったという。また、王は「本当は1000本打つまで現役やりたかった。756号を境に周囲の目、環境、生活が一変してしまった。アーロンが755本で終わらずに900本も打ってくれていればなぁ」とも語っている。引退表明から4日後の11月8日にナゴヤ球場で行われたセ・リーグ東西対抗戦では、1本塁打を含む4安打と活躍し、MVPに選ばれ、引退を惜しませた。同試合後、この年限りで引退する中日の高木守道と肩を組んでファンに手を振った。11月16日、藤崎台県営野球場(熊本)で行われた対阪神・秋季オープン戦の最終打席にて、ライトスタンドへ本塁打を放った。三塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後にホームイン。これが最後の打席・最後の本塁打となった。引退セレモニーは11月23日のファン感謝デー・イベントの最後に行われた。ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置き、そのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行って、同

出典:wikipedia

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