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北条早雲

北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある。なお北条姓を称したのは早雲の嫡男・氏綱からであるが、この項目での呼称は便宜上「北条早雲」で統一する。一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる。荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」の署名の禁制が残されている(ただし、花押が後のものとは異なる)。井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている。備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている。文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれている事が注目される。また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。かつては、早雲の出自の有力説の1つとされていた貞藤の子とする説(後述)であったが、これらの事実とその後の早雲の経歴を考慮すると、この説が成立しがたい事になる。京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 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1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる。残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている。龍王丸派にとって情勢は不利であった。北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった。道灌も長尾景春の乱への対処のため、帰国を急ぐ必要があった)。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城(焼津市)に身を寄せた。従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。この最初の駿河下向と家督争い調停について、黒田基樹は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『鎌倉大草紙』には宗瑞(早雲)の名が見えないことから考えて、この話の信憑性に疑問を呈している。早雲の駿河下向については以下のような話が知られている。『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。長享元年(1487年)、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城もしくはそのまま石脇城を居城とした説がある。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐し、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。この頃に早雲は幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ、元続の祖父、元続の子・康広と細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれている。なお、この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが知られている。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある。早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸(11代将軍足利義澄の異母兄)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。政治が腐敗した京都を捨てて、関東の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年の研究で分ってきた。享徳の乱で鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。文明14年(1483年)に成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に清晃(のちの義澄)と潤童子をもうけていた。清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っており、この計画に早雲と氏親が関与していたとする説もある。延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、明応4年(1495年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したようだ。この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、清晃の母の円満院の横死が理由とする見方または伊豆乱入に伴う幕府奉公衆からの退任を意味するとする見方などがある。明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐を名乗る(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じたとされる。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。このとき伊豆の豪族である鈴木繁宗、松下三郎右衛門尉らは早雲にいち早く参じたとされる。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている。この他「早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の小領主や領民はたちまち早雲に従った。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる。軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆にあった深根城(下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している。なお、同年の8月25日に明応の大地震と津波で伊豆・駿河両国は大被害を受けており、震災で深根城一帯も甚大な被害を受けて抵抗不可能になった茶々丸を早雲は動員可能な少数の手勢で討ち取ったとみられており、この際に茶々丸を擁していた城主の関戸吉信らを皆殺しにして力を示したとされる(ただし、茶々丸の死去地を甲斐国とし、深根城の皆殺しは別の出来事とする見方もある)。伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる。という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである。明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は早雲に援軍を依頼。定正と早雲は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われている。早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている。同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。金子浩之は、土石流を「牛」になぞらえた伝承があるという笹本正治の説を元に、早雲が1495年に起きた明応地震の津波に乗じて小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と呼ばれたようになったのではないかと推測している。この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟弥二郎の名が山内顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている。『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている。小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲の陣営と、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。明応8年(1498年)、早雲は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある。今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年 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1504年)には三河にまで進んでいる。『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったという。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・早雲の政治的な立場が弱くなった。それでも早雲と氏親は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大していった。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いであり、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した。この敗戦後に顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏した。これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。永正6年(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。永正3年(1506年)に相模で検地を初めて実施して支配の強化を図っている。永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される(永正の錯乱)。同年、越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起きた。早雲は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制した。永正6年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城に迫った。上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模で戦った。早雲は権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城。三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫る。早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生、古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われた(永正の乱)。三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城または三崎城(現三浦市)を子の義意が守っていた。早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかった。敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いた。義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまった。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。その後、早雲は上総の真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している。永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。享年は64または88。後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させている。早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている。また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた。早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。※年齢は数え歳、名は便宜上早雲で統一。早雲には3人の妻と4男2女の存在が確認されている。氏綱が長男で宗哲が四男であり、善修寺殿の子は長松院殿が宗哲の姉、青松院殿が妹であることは判明しているが、氏時と氏広の長幼の順は分かっていない。氏時の母は不明だが、氏綱と同腹の次男と推定されている。なお、氏広については諸系図に見えないため、男子を三名(氏綱・氏時・宗哲)とする説もある。名称と生年の節でも名前について記述したが、それぞれの名前を名乗っていたとする証明になるのが、早雲の息子たちや家臣にみられる偏諱(名前の1字)を与えられた人物であり、上に挙げた人物から以下のように考えられる(外部リンクも参照のこと)。以上のことを総合して考慮すれば、少なくとも「盛時」「長氏」「氏盛」のいずれかは名乗っているということになる(もちろん、途中で改名することもあろうから必ずしも1つだけとは限らない)。1については、一部で氏綱が従兄弟にあたる今川氏親から1字を与えられた(氏綱・長綱の「綱」字は伊勢盛定の父・盛綱に由来するとされる)とする説もあり、この場合は必ずしも父の早雲が「氏」の入った名前を名乗る必要もない。また別の一説によれば、「氏」の字は北条時行の子とされる北条行氏(ゆきうじ)に肖ったとしている(ただし、前述したように早雲の代ではまだ北条姓を名乗ったという確実性がないので確証はない)。大道寺盛昌、松田盛秀と、「盛」の字を与えられた人物が2人もいることなので、4については最も有力視でき、冒頭で前述したとおり、「盛時」を名乗っていたのが定説となっている。生誕年の判っていない盛秀については、妻(北条綱成の妹)のことを考慮すれば年代的に早雲の世代ではないのではと疑問視する説もあるが、顕秀からわざわざ改名していることからやはり「盛」の字を賜った可能性はある。既に老いの境に入った一介の伊勢の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。江戸時代前期までは、『寛永諸家系図伝』などで後北条氏は執権北条家の嫡流の末裔(北条時行のひ孫の北条行長の実子)もしくは名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた。その下克上を代表する梟雄として北条早雲、斎藤道三、松永久秀が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが巷談などでの通説となった。早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、伊豆韮山説、大和在原説、山城宇治説、伊勢素浪人説、京都伊勢氏説、備中伊勢氏説があった。この内、伊豆韮山説と伊勢氏説は江戸時代の狭山藩北条家と幕臣の伊勢家でそれぞれ伝承してきたもので、両者に食い違いがあることは古くから問題視されていた。例えば『寛政重修諸家譜』の編者・林述斎は「北条家の系図と伊勢家の系図を比較すると、(京都の)伊勢貞親の二男の新九郎が(伊豆韮山の)北条行長の養子に入ったものであろう」と述べ、京都伊勢氏説を正しいとした。大和在原説と山城宇治説は『北条五代記』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった。伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が信濃守護小笠原定基に宛てた書状で、小笠原家臣の関右馬充春光について「伊勢の関氏で自分の同族(名字我等一躰ニ候、伊勢国関與申所、依在国、関與名乗候、根本従兄弟相分名字ニ候)」と書いていたことを根拠に1901年に藤岡継平が早雲を伊勢出身の地方武士であるとする説を主張し、田中義成や海音寺潮五郎がこれを支持した。これに対して渡辺世祐は『寛政重修諸家譜』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟貞藤の子供であろうとする京都説を主張した。一般には伊勢説が定着して「伊勢素浪人」という早雲像ができあがり、一方、研究者の間では京都説が有力視されていた。備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した。1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、ほぼ定説化した。江戸時代前期成立の『今川記』に戻った訳で「本卦返り」と呼ばれている。早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名門の出であったことになる。早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。当時としては非常に長命である。これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男氏綱が生まれた時点で数え年で56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)で早雲は36歳になっており、姉だと当時の女性としては晩婚に過ぎ、明治以降に享年88説に合わせて歳の離れた妹とされていた。早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた。しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であるとして、疑問を呈する研究者もいた。1995年に黒田基樹は享年88は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことを明らかにした。永享4年(1432年)生まれだと近年有力視された幕臣伊勢盛時の父盛定の活動時期とも伊勢貞親(盛時の母の兄弟)の甥という系譜関係も成り立たなくなる。更に黒田は北条氏照の旧臣で宝蔵寺(埼玉県朝霞市)の開基となった高橋家の過去帳に早雲を伊勢盛定の子・新九郎盛時で享年64歳とする記述があることを確認した。現存のものは1950年代に書写されたものであるが、信頼性が高い高野山高室院「北条氏系図」と比較して同系図に記述のある部分については内容が一致している事から、黒田は信頼性が高いと判断している。これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした。これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、この説を支持する研究者も出るようになった。しかし、この説についてはいまだ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる。小説や評論の類、インターネットなどでも早雲を「大器晩成」の典型として享年88説を採っているものが多く、必ずしも1456年生まれ説が一般に定着したわけではない。早雲と血縁が近い人物では、四男の北条幻庵が享年97(あるいは89)と、たいへん長寿であったとされるが、こちらも黒田基樹に軍記と当代史料との矛盾が指摘されている。作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきた。小説や一般向け書籍でも、早雲は長らく「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれており、歴史学者桑田忠親の著作や小説家海音寺潮五郎の早雲の史伝などはその典型である。しかしながら、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる。1980年代に研究者の間で出自がほぼ定説化され、1990年代に生年についての新説が提示された以降の小説やメディア、自治体ではこれらの新説も採り扱われるようになった。とはいえ、2000年代以降でもその姿で中高年の再挑戦の見本のように早雲を語るテレビ番組や作家もいる。銅像小説漫画テレビドラマゲーム

出典:wikipedia

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