平山 相太(ひらやま そうた、1985年6月6日 - )は、福岡県出身のプロサッカー選手。JリーグのFC東京に所属。ポジションはフォワード(FW)。長崎県立国見高等学校卒業、筑波大学中退。元日本代表。小学校2年(8歳)よりサッカーを始め、抜きん出た体格と素質を示した。中学3年時には地元福岡の東福岡高校のセレクションにも参加したが、九州トレセンで国見高校監督を務める小嶺忠敏の指導に好印象を持ったこととなどから、3学期から長崎県の国見中学校へ転校し、2001年に国見高校へと進学。小嶺からは「(かつて国見のエースだった)船越優蔵よりも上」と評価されて1年時から主力に食い込むと、同年9月には自らの決勝点で高円宮杯を制し、2年時の第82回天皇杯では、1回戦の山形中央高校戦でハットトリックを記録。2回戦で国士舘大学を破り高校チームながら3回戦でJリーグ王者のジュビロ磐田と対戦した。2003年の11月にはワールドユース・UAE大会の日本代表に1年代下から抜擢される。控えFWの立場であったが、坂田大輔以外のレギュラーFW陣にノーゴールが続く中、1次リーグ最終戦・エジプト戦では決勝トーナメント進出を決める貴重な決勝点を挙げる。またポストプレイヤーとしても空中戦をほぼすべて制していた活躍が認められ、ブラジルとの準々決勝では敗れたものの、平山はスタメンにまで序列を上げ、この試合唯一の得点も決めた。12月から翌年1月に行われた第82回全国高校サッカー選手権では大会前から注目を集め、長崎県代表・国見高の中心選手として得点を量産。大会史上初となる2年連続得点王を引っさげ、アテネオリンピックアジア最終予選の日本代表に高校生として唯一選出された。高校卒業を前に、Jリーグだけでなくヨーロッパのクラブからもオファーが来ていたが、恩師小嶺のアドバイスもあり、全てのオファーを断って2004年4月からの筑波大学への進学を決断。この選択は、プロスポーツやサッカー界を取り巻く環境面についての議論を呼んだ。2004年4月17日の大学リーグデビュー戦(関東大学リーグ1部・対流通経済大学戦)は3800人の観衆が集まるなど注目を集め、駒沢陸上競技場にマスコミが多数集まりスポーツニュースなどで報道された。なお、大学時代のチームメイトには2学年上にMF藤本淳吾、3学年上にFW鈴木達也、MF兵働昭弘らがおり、木山隆之監督の指導を受けている。同年のリーグ戦最終節では2得点1アシストを挙げ、優勝に貢献。U-23日本代表としては、同年2月8日の国際親善試合・U-23イラン戦で初先発し初得点を挙げると、3月のアジア最終予選にもレギュラーとして出場。しかしその後精彩を欠くと、予選では控えだった高松大樹にレギュラーを奪われる。オーバーエイジで参加予定だった高原直泰がエコノミー症候群の影響で離脱した事で、8月にはサッカー競技としては史上最年少の19歳2ヶ月でアテネオリンピックに出場したものの、山本昌邦監督が平山を起用したのはグループステージ初戦・パラグアイ戦の終盤16分間のみで、チームも1勝2敗で決勝トーナメント進出はならなかった。2005年は、山本が監督に就いたジュビロ磐田の練習に参加していたが、U-20日本代表の活動を優先し特別指定は見送った。同年6月には、自身2度目のワールドユースに主力メンバーとして出場し、チームの成績は振るわなかったものの開催国のオランダ戦で1得点を挙げる。この大会終了後の同年7月、オランダリーグ・フェイエノールトの練習生として短期留学。翌8月にこのシーズンから1部入りしたヘラクレス・アルメロに3年契約で入団することが決まり、筑波大学を休学することになった。この時期の心境について後年に「2度目のワールドユースに出場し、2003年のワールドユースの時の自分から何も変わっていない、成長していない。厳しい環境に身を置きたいと強く思った」と述べている。2005年8月20日、オランダでのデビュー戦となった対デン・ハーグ戦は後半途中から投入。出場から2分後、味方のフリーキックからヘディングで押し込みプロ初ゴールを挙げると、さらにコーナーキックの折り返しを再び頭で合わせ、デビュー戦2得点でチームを逆転勝利に導いた。同年11月20日の対RBC戦ではリフティングからの技巧的なボレーシュートを決め、現地のサッカー番組の中でベストゴールにノミネートされた。2005-06シーズンは途中出場も多い中、チーム最多の8得点を挙げた。2006年1月27日、FIFAが選出する「ベスト・ヤング・プレーヤー・オブ・ワールドカップ2006」にノミネート。4月30日には、サッカーに専念するため、休学中であった筑波大を自主退学。プロサッカー選手としての活動に専念することとなった。しかし、2006-07シーズン、平山を気にかけていたピーター・ボスに代わって新たに監督に就いたルート・ブロートからは信頼を得られず、欧州の移籍期限終了後の9月5日、所属していたヘラクレスを退団。オランダのDFに競り勝つための身体作りと慣れない海外生活から、心身ともに疲弊した状態で日本に帰国した。ホームシックのために帰国したともされているが、これは本人が構想外になったことを公言するのを嫌がってのことであった。日本に帰国後にはJリーグの複数チームから獲得の打診があり、「学業の両立」が可能で、かつ、「すぐ試合に出られるチーム」を条件に絞り込み、9月10日にFC東京への加入が決定。しかし、ヘラクレス側は平山のこの行動を不服とし、「説明が無い限り(公式戦出場に必要な)国際移籍証明書を発行しない」という声明を発表したが、期限前に証明書は発行され無事に2006年のJリーグ公式戦に出場できる運びとなった。国際移籍証明書がなかなか発行されなかったために日本サッカー協会が選手登録の締切り期限を1日延長した。2006年、9月30日の対新潟戦でJリーグデビュー(先発出場)した。10月7日の対名古屋戦でJリーグ初得点を記録。ゴール後、スポンサーの看板(三井住友海上)を蹴り壊してしまい、クラブに損害請求される珍事が起こった。10月25日、U-21日本代表に招集され出場した対U-21中国代表との親善試合では、相手GKと交錯したボールを手で押し込んでゴールを奪い、中国の監督は試合後「マラドーナスタイルにやられてしまった(马拉多纳风格做了。)」と皮肉を込めたコメントを残した。2007年は北京五輪アジア二次予選で5試合で5得点を挙げるなどU-22代表で活躍。しかし、プレイの質が低下し復調の兆しが見えないと、最終予選ではU-20代表組が合流したこともあって、平山は重用されなくなった。Jリーグでは、出場機会のほとんどが試合終盤からの投入だったものの、9月15日のJ1第25節横浜FC戦で、後半40分からの出場ながらフィールド中央からドリブルでの5人抜きゴールを決めるなど、能力の片鱗を示した。FC東京の原博実監督は「ボールの落下地点に早く入ることとか、正確に狙ったところへボールを落とすなどヘディングの技術を磨く必要がある」と、長身ではあるがヘディングに課題があると評していた。2008年からFC東京の監督に城福浩が就任。開幕戦ではスタメンで起用されたが、赤嶺真吾の台頭もあり、その後はサブとしてゲーム後半からの途中出場が多くを占めた。長年期待されてきた北京五輪代表候補にも、2月のアメリカ遠征に招集された位で、本大会の前哨戦として捉えられていた5月のトゥーロン国際大会などには招集されなくなっていたが、ナビスコカップの東京ダービーでハットトリックを決め、最後の滑り込み招集に望みを託す。しかし、反町康治五輪代表監督には招集されず、オリンピック2大会連続出場は叶わなかった。2009年5月、城福からの「試合に出られそうなときとそうでないときで練習でのプレーにムラがある。サッカー選手は選手寿命が短いのだから時間の使い方がもったいないのではないか」との指摘や、NHKの番組にてプロ野球選手・小笠原道大の練習姿勢に感銘を受けた事などが重なり、「プロとしての自覚が足りないことに気付き、極限の努力をするべき」だと意識改革を試みる。以降は出場停止となった2試合を除き全試合にスタメン出場。6月20日のJ1第14節柏戦では身体の強さを活かし、チェックに来たDF小林祐三を吹き飛ばしてゴールを決めた。以降、ゴール量産こそならなかったが、体躯を活かしたプレーで貢献。このシーズン、15得点の活躍を見せた石川直宏からは「前に起点ができるおかげで、ぼくらが前に行ける。FWだからゴールに近い位置でプレーしたいはずなのに(ポスト役をこなしてくれる)」と平山のポストプレーなどを高く評価した。また、この頃から梶山陽平が「守備では本当に助かっている」と話すなど、運動量と守備意識に改善を見せている。城福からは「バイタルエリアからでも難しいパスを出すことができるが、シンプルなパスを出すところとの判断が甘い」と課題を挙げられている。11月3日のナビスコカップ決勝・川崎戦では後半にヘディングでゴールを決め、自身プロ入り後の初タイトル獲得に大きく貢献した。2010年1月6日にアジアカップ最終予選・イエメン戦(サナア)は、すでに本大会出場が決まっていた事と、年明け早々の厳しいスケジュールだったため、これまでA代表に縁がなかった若手選手中心に招集が行われ、平山も初めて招集を受けた。ベンチスタートだったが前半17分に山田直輝が負傷退場すると、交代で国際Aマッチ初出場を果たす。その代表デビュー戦でいきなりハットトリックを達成し、2点のビハインドから逆転勝利に導く活躍を見せた。デビュー戦ハットトリックは日本では史上2人目、途中出場では初となる快挙だった。この活躍が認められ、翌月のキリンチャレンジカップではイエメン戦に参加した若手選手の中では唯一招集を受けると、岡田武史監督から「期待以上。ゴール前で迫力がある」と絶賛されるプレーを見せた。Jリーグでも得点を狙う動きが増え、開幕戦では決勝点を決めたが、それ以後が続かず、5月1日のJ1第9節広島戦では「チームとして点が取れない中での変化が欲しかった(城福)」という理由で、コンディション不良でないにもかかわらず前半中に交代を命じられた。8月4日に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは1ゴール1アシストの活躍を見せ、タイトル獲得に貢献。対戦相手であるLDUキトのバウサ監督は「(平山の)身長の高さに手こずった、彼がいると自分たちのコントロールが効かなくなり悩まされた」と評価した。また、同試合のPK戦では真っ先に辞退を申し出ておりPK戦への苦手意識を見せている。10月23日のJ1第27節・新潟戦でも自らが倒されて得たPKを梶山に譲った。大熊清が監督に就任した第24節以降は、中心選手としてスターティングメンバーに固定され、前線からの守備やポストプレーによる攻撃の起点として貢献するもチームはJ2降格を喫した。また、この年はワールドカップ招致アンバサダーも務めた。2011年は、前年終盤に活躍の兆しが見えたこともありリーグ戦序盤を勝ち切るためのキーマンとして構想されていたが、4月10日の練習試合中に脛骨・腓骨を骨折。自身初の負傷による長期離脱を経験した。2012年シーズン序盤にかけて復帰したものの、5月に腓骨・短腓骨筋を挫傷し、再離脱。コンディションを取り戻して以降も、ランコ・ポポヴィッチ監督は、平山にはブランクがあるとして控えに置いていたが、練習試合で得点を量産するなど気を吐き、2013年4月3日のナビスコカップ・名古屋戦で760日ぶりに公式戦先発出場。この年、FWには渡邉千真がレギュラーに入り好調を保っていたが、平山は攻撃の起爆剤としての役割をこなし、J1第23節鳥栖戦でJ1での3年ぶりの得点を挙げた。この後も限られた出場時間の中、好ペースで得点を重ねた。2014年はエドゥーとのポジション争いを続ける中好調を維持し、相手を背負うボールキープと相手の背後を突く動きの両方を巧みにこなしていたが、J1第21節浦和戦で森脇良太からのタックルによって右足首内果を骨折し、戦線離脱。マッシモ・フィッカデンティ監督は、同年のベストゲームを問われた際にこの試合の平山が負傷するまでの30分間と答えており、平山不在はチームにとって大きな痛手となった。2015年、自ら志願して背番号を9に変更。リーグ戦開幕前に昨年固定していた髄内釘を除去。この影響で更に復帰に時間を要し、同年は2試合出場に留まった。リハビリ中には「予備動作が凄い」とアリツ・アドゥリスのプレー映像を繰り返し見ていたという。2016年、4月24日の第8節ヴァンフォーレ甲府戦で1年8か月ぶりの先発出場を果たした。153||28||35||10||18||12||206||501||0||colspan=2|-||0||0||1||0colspan="2"|-||colspan="2"|-||5||4||5||432||8||colspan="2"|-||colspan="2"|-||32||8186||36||35||10||23||16||244||62!通算!!colspan="2"|AFCその他の公式戦|-!通算
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