LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。佐竹氏は甲斐源氏の一族と同じく源頼義の子で源義家の弟の源義光の子孫である義光流源氏の一族。佐竹氏の初代当主については、新羅三郎義光の子の源義業(常陸源氏祖・進士判官)とする説と、義業の子の源昌義とする説があるが、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み地名にちなんで「佐竹」を名乗ったことから昌義を初代当主とする説が一般的である。家名については、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。平安時代の後期には、佐竹氏は既に奥七郡と呼ばれる多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡など常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。治承・寿永の乱においては、佐竹氏は清和源氏の一族にもかかわらず平家に与したために源頼朝によって所領を没収された。後に頼朝に従って奥州合戦に加わった。その際に無地の白旗を持参したところ、頼朝の旗と等しかったことから紛らわしいとの理由で、扇を白旗の上に付けるよう命じられた。この扇は月を描いており、以後、佐竹氏は家紋として「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)を用いることになる。鎌倉時代においては、奥七郡への支配権は宇佐見氏、伊賀氏、二階堂氏などに奪われ、後に北条氏などがそれらの郡の地頭職を獲得し、佐竹氏は不遇の時代を過ごすことになる。室町時代になると、佐竹氏は早々と足利氏に呼応したことから守護職に任ぜられたものの、鎌倉公方を主君としたことで足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることも少なくなかった。貞義の息子の一人である佐竹師義は足利将軍家の直属の家来である京都扶持衆に選ばれ佐竹山入家(山入流佐竹氏)を興した。佐竹氏は鎌倉府の重鎮として活躍し、第3代鎌倉公方の足利満兼より関東の8つの有力武家に屋形号が与えられ関東八屋形の格式が制定されると、佐竹氏もこのひとつに列せられ、以後、佐竹氏の当主は「お屋形さま」の尊称を以って称された。しかし、佐竹氏宗家の第11代当主の佐竹義盛に男子がなかったことから、藤原北家の勧修寺流の流れをくむ関東管領の上杉氏より佐竹義人が婿養子に迎えられて第12代当主となると、佐竹氏の庶家で佐竹の男系の血筋を引く佐竹山入家はこれに反発し、宗家に反旗を翻すこととなった。佐竹山入家が室町幕府と結んで佐竹宗家の常陸守護職を奪い山入の乱(山入一揆)を起こしたこと、さらには、名目上傘下にあったものの実際には独立勢力であった大掾氏や那珂氏(後の江戸氏)の存在などもあったことから、佐竹氏の勢力基盤は脆弱であったと言える。こうした内紛もあり、戦国時代に突入した後も佐竹氏の常陸統一は困難を極め、戦国大名化も遅れた。戦国時代になると、佐竹氏第15代当主で「中興の祖」と呼ばれた佐竹義舜が現れ、佐竹山入家を討ち、佐竹氏の統一を成し遂げ常陸北部の制圧に成功した。しかし、相変わらず江戸氏は不穏な動きを続け、また関東の制覇を目指す北条氏の侵攻などもあって、常陸統一は非常に困難な状況にあった。義舜の曾孫で佐竹氏第18代当主の義重は、「鬼義重」の異名をとる名将であった。義重の時代に佐竹氏は江戸氏や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置くことに成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。滅亡した武田氏の浪人小山田氏などを仕官させ家臣団を強化させていたことも理由のひとつである。甲斐武田氏と同盟し(甲佐同盟)、北条氏とは天正12年(1584年)に沼尻(現在の栃木県栃木市)で対決した(沼尻の合戦)。また、奥州南部にも進出し、白河結城氏を下し、石川氏、岩城氏などを影響下に置き、三春城の田村氏と対抗する中で奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった。このため、義重の正室の甥にあたる伊達政宗と対立し、義重は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と天正13年(1585年)人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した(人取橋の戦い)。佐竹方は3万の大軍を率い、伊達方の10倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えたが、一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。しかし義重は戦国時代を通じて領国を拡大し、子の義宣の時代には豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、秀吉の太閤検地の結果、常陸54万5800石の大名として認められた(ただし、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされた)。水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移した。慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取った。戦後処理は翌年にはほぼ終了し、慶長7年(1602年)の3月に義宣は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。ところが5月8日、家康から突然出羽国への国替えを命じられ、7月27日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封された。関ヶ原の戦いにおいて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいたことが発覚したためと言われている。また徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。こうして佐竹氏は平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去った。処遇の際、細川忠興が「大大名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言したが、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国でよし」と決められてしまった。後に政争に負けた正純が失脚したとき(宇都宮城釣天井事件)、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。佐竹氏に取って仇がある相手であるため恩情をかけることはないと考えたのだろう。正純は横手城の一角でさびしく生涯を終えたという。江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続した。転封時点で明示されていなかった石高は、寛文4年(1664年)4月2日付で20万5,800石と決定された(実高40万石)。うち5,800石は、慶長10年(1605年)10月17日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地11ヶ村分である。元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した。明治17年(1884年)、佐竹氏第30代、第32代当主で旧久保田藩主の佐竹義堯は侯爵に、佐竹壱岐守家(旧久保田新田藩)の当主の佐竹義理は子爵に叙せられ、明治22年(1889年)には佐竹壱岐守家の出身で義堯の養子となり一時的に宗家を相続した佐竹義脩が男爵に叙せられた。なお、家臣であった佐竹四家(東西南北家)に関しては、明治33年(1900年)に佐竹西家の佐竹義遵、佐竹南家の佐竹義雄、および佐竹北家の佐竹義尚が、明治39年(1906年)に佐竹東家の佐竹義準がいずれも男爵に叙せられた。東洋製作所の元社長の佐竹義利は佐竹東家の出身であり、現在の秋田県知事の佐竹敬久は佐竹北家の出身である。なお、佐竹氏宗家(旧久保田藩主)が伯爵ではなく侯爵とされたのは戊辰戦争において新政府軍に加わったためとする説があるが、実際のところは久保田藩の石高が表高に対して実高が多かったためである。佐竹貞義の息子の一人である佐竹師義は足利将軍家の直属の家来となり佐竹宗家とは別の佐竹家を興した。常陸山入に主な拠点があったため俗に山入家とよばれているが当家自身は佐竹氏を称し続けた。息子の与義の勢力は佐竹宗家を追い抜き将軍家の京都扶持衆に選ばれ、この与義の子孫が代々この身分を継承した。以降、義郷ー祐義ー義知ー義真ー義藤ー氏義ー義盛と続いたが義盛のとき佐竹宗家の計略に嵌り滅亡した。佐竹与義および佐竹祐義は足利幕府より常陸守護に任命されているため、山入家のほうが正統な佐竹氏であるという見解も存在する。しかし実際には室町時代の佐竹氏は二流に分かれていたと理解するほうが良いようである。※佐竹義重―女子(高倉永慶室)―高倉永敦―滋野井公澄―正親町三条実彦―公積 ―実同―綱子(中山忠頼室)―中山忠能―慶子(孝明天皇妃)―明治天皇─允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)─湛子女王(大給義龍室)─佐竹孝 凡例 太字は当主、太線は実子、細線は養子。以下、佐竹氏の直臣・陪臣として活躍した武家の一覧。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。