風水(ふうすい)は、古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、気の流れを物の位置で制御する思想。「堪輿(かんよ)」ともいう。古代からの相宅や相墓といった占いの技術が五行説に基づきつつ総合されて成立した。風水には地理の別名があり、天文がかっては狭義の天文学と天象を基にした占いのアマルガムであったように、風水も狭義の地理学と地理を基にした占いのアマルガムであった。そのため風水は大別すると、地形読破の術である「巒頭(らんとう)」と、時間によって変化する天地間の気を判断する「理気(りき)」とに別れる。ただし、日本においては風水が完全に成立する唐代以前の一部の理論のみが陰陽道や家相として取り入れられて、中国本土とは別の形で独自の発展を遂げた。近年、風水という名称で行なわれている占いの多くは、風水そのものではなく、家相術や九星気学などのアレンジに過ぎない。「風水」という名称は、晋の郭璞に仮託された『葬書』にある「」
から来ている。三浦國雄の『風水講義』では郭璞を、「比類のない博学の士であり、後世風水の元祖に祀りあげられた一種異能の天才」と呼んでいる。しかし『葬書』の語は同時代の資料には見られないため、郭璞の著作ではなく、実際の成立は唐代とする説もある。また、『葬書』よりも古いとされる風水の古典『狐首経』にもある、「」
を語源とするという説もある。「蔵風得水」(ぞうふうとくすい)とは、水を得、風を防ぐような地形のことで、風水においてもっとも気が溜まる土地とされる。風水には、地理、堪輿、山といった別名がある。地理は天文と対をなす語で、地理がもともとは狭義の地理学と地形の吉凶を論じる占術とが渾然一体であったことから来ている。堪輿は『天地』を意味している。山(山道)は風水師が良い風水を求めて山野を跋渉したことから来ている。三重大学の目崎茂和によると、風水の起源は殷・周時代(紀元前10世紀以前)の「卜宅」にあるとされる。これは宅地や村落の吉凶を占うもので、後の「陽宅風水」の基礎となった。一方、晋(紀元後3世紀)の時代には郭璞の撰による『葬書』が成立し、「風水」の語が誕生するとともに、後の「陰宅風水」の基礎となった(目崎は『葬書』を晋代の成立としている)。「風水」の思想は唐代(7世紀頃)に非常に盛んになり、陰陽説や五行説が取り入れられ、唐代末(9世紀)には形成学派(巒頭)が誕生する。さらに、宋代(11世紀)には羅盤をもって吉凶を占う方位学派(理気)が誕生する。明・清時代になると両者の区別はあいまいになり、羅盤を扱う技術もより発展して現在の「風水」となる、とする。台湾出身の漢学者にして風水師の張明澄によれば、風水という言葉は『周易』の「水風井卦」が語源だという。易卦は、下から順に「初爻」「二爻」「三爻」と立卦するもので、先に「風」(内卦)があって後に「水」(外卦)というのが本来の順序である。「井」とはそのまま井戸のことであり、井戸を掘る場所、つまり人が住む場所を決めるための技術が「風水」だったという考察である。風水の理論構成は、巒頭と理気の別を問わず、易卦理論が基礎にあり、風水という言葉の起源もまた『周易』にあるという。風水については『葬書』の他に『狐首經』『青囊經』『青烏經』といった典籍があり、後世に影響を与えた。風水には「巒頭派」と呼ばれる系列と「理気派」と呼ばれる系列とがある。巒頭(らんとう)は、その土地の気の勢いや質を地形等の形成を目で見える有形のもので判断する方法であり、形法、形勢派、巒体派などとも呼ばれ、江西省で発達したことから江西学派とも呼ばれる。理気(りき)は陰陽五行思想や八卦、易理(易)、方位など目に見えないもので判断する方法であり、理法、理気派、屋宅派などとも呼ばれ、福建省で発達したことから福建学派とも呼ばれる。巒頭風水では、大地における気の流れを重視し、龍脈からの気の流れが阻害されておらず、運ばれてきた気が溜まり場になっているような土地に都市や住宅を建造しなければならないとする。そうすることによってその地方や一家に優秀な人材が輩出され、冨にも恵まれると考えた。陰宅すなわち墳墓も同様であり、祖先がいる場所が子孫に影響を与えるとし、土地がよければ子孫は繁栄し、悪ければ没落すると考えられている。一方、理気風水では、方位の吉凶を重視し、個々人の生年月日によって決定される方位の吉凶にもとづき住居や墓の方位、住居内の配置などを決める。巒頭派によれば、巒頭の作用は80%、理気の作用は20%に過ぎないとするが、理気派によっても、巒頭の作用が60%、理気の作用は40%としており、巒頭優先である。目崎茂和は巒頭派と理気派の区別について、古代中国の山地部では地勢を見る巒頭派が盛んになり、巒頭の基準となる山が無い平野部では方角を見る理気派が盛んだったのだろうとしている。風水では都市や住居(すなわち生者の居住空間)を「陽宅(ようたく)」、墳墓(すなわち死者の居住空間)を「陰宅(いんたく)」と呼んで区別している。そのよろしきを得れば、死者は永く幸を受け、生者はその子孫繁栄するという。陰宅風水は『葬書』において理論化され、のちに陽宅風水にも大きな影響を与えるようになった。巒頭において山脈(風水では「龍脈」と言う)の気を受け継いで集中する「穴」(いわゆるパワースポット)の位置が重要視されるように、陰宅風水においては先祖の墓が先祖代々の気を受け継ぐ「穴」とされ、陰宅を正しい位置に設置すると、陰宅から流れる気が陽宅を栄えさせるという。なお、現代の中国人社会では、風水はもっぱら墓相や墓そのものの意味に使われることが多い。『葬書』によるイメージが根強いためとも考えられる。ただし現代の大都会や日本では「穴」だからと言ってもどこでも勝手に墓地を作れるわけでは無いので、陽宅風水の方が盛んである。陽宅風水の代表である八宅派風水で最も重視される「陽宅三要」の内訳は「門・房・炉」の三項目である。方位の吉凶は家全体の重心(太極)、次いで部屋ごとの重心(小太極)を基準に決められ、複数階の家の場合は階ごとに太極が取られる。「陽宅三要」以外では、リビングなどは吉方に配置され、火は悪い気を燃やす、トイレやバスルームなどの水回りは悪い気を流し去るので凶方に配置される。陽宅風水にも巒頭と理気の理論がそのまま当てはめられる。現代の大都会でもそのまま当てはめられ、例えばフロアの重心を「太極」とし、高層ビルを「砂」や「案山」とし、電柱を「形殺」とし、ガスコンロや電子レンジを「火」とする。「地理」という言葉は風水の別名としてよく使われるが、もともと風水とは、土地をその起伏や水の流れ方などによって格付けし、住居地や墓地などとして、人間の用に供するための技術であり、地相を見るための理論という意味で「地理」という。「Geography」のことを「地理学」と言うのはこれに由来する。地理五訣の内訳は「竜・穴・砂・水・向」の五項目である。「地理五訣」のうち「竜・穴・砂・水」は、みな五官で認識できる要素であり、ほとんどは何らかの形状を持つ要素である。このような要素を「巒頭」という。また、「向」は、方位に付された干支や易卦などの記号類型化された要素によって、その良し悪しを判断するものであり、五官で感受し得るものではない。このような理論による要素を「理気」という。「巒頭」と言えば「竜・穴・砂・水」と、ほぼ同義に使われるが、建物や墓碑などの形状もまた「巒頭」であり、これを「本家巒頭」といい、「竜・穴・砂・水」を「外家巒頭」として区別する。五術および六大課とは、占術(占い)の分類の方法である。五術とは、占術を機能論的に分類したもので、「命・卜・相・医・山」の五つを指す。また六大課とは、占術を方法論的に分類したもので、「三式」の太乙神数、奇門遁甲、六壬神課、「三典」の河洛易数、星平会海、宿曜演禽、の六つを指す。日本語ではなじみが少ない言葉だが、中国・台湾では日本で言う「占い」のことを「命・卜・相」と言い、一般的な語である。五術の分類の中では、風水は人相、名相、印相などと同じく「相」に分類され、また「山」(山道)と関連するとも言われる。六大課の分類においては、六大課すべてにそれぞれの風水理論がある。しかし特に奇門遁甲と関係が深い。各々の特長は、もっぱら理気つまり建造物などの方位に関するものであり、風水地理五訣の「向」に属するものである。風水ではどの方法でも巒頭つまり「竜・穴・砂・水」の見方は殆んど同じであり、特に六大課では使う記号が異なるだけで、内容はどの方法でも全く同じである。なかでも、奇門風水の巒頭の見方は、記号類型として非常によく整理されており、風水の巒頭は古代からの奇門遁甲に基づいて理論化されたのだろうと考えられている。一方で、台湾出身の風水師張耀文(張明澄)によれば、奇門遁甲の理論を風水に当て嵌めたのではなく、風水の巒頭から奇門遁甲が生まれた、と言う見方を取っている。そのため、「星平会海」などのように、「理気」については独自の理論を使うものの「巒頭」については、「奇門遁甲」の理論をそのまま使うものもあるという。漢代から宋代にかけての儒易の系譜は、経典儒と呼ばれ、四書五経を重んじ、礼儀を第一に尊ぶ規範としての学問である。『易経』は占卜の書とはいっても、もっぱら儒教の倫理を説き、儒家としての正しい処世を求めるため、経文の解釈はもっぱら十翼に偏向した。しかし、宋代から明代に跨って、儒易の系譜は、黄渠学、朱子学、陽明学へと連なる、理学という学問体系を形成する。まず、北宋時代に入ると、易卦を数理的に解釈する、象数易というものが誕生する。象数家の系譜は、円図・方図を作ったとされる陳希夷に始まり、穆修、李挺之、そして『皇極経世』を編んだ邵康節などの人脈を生んだ。円図・方図は、現代に続く風水の系譜のなかで亜流となっている元合派、つまり三元派や三合派と呼ばれるグループの理論的な拠り所である。五術のなかでも、成立年代が古く、宋以前からある「三式」即ち、太乙神数、奇門遁甲、六壬神課などは、理気においても円図・方図を根拠とはしないことからも、元合派の成立は宋の象数易以後であると考えられる。宋代の経典儒としては、『太極図説』を編み「後天優勢、以学為志」を説いた周濂渓(1017-1073)、「気即理」を説き「王渠学」を立てた張王渠(1020-1077)、そして「性即理」「天理」を説いた程明道(1032-1085)と「心即理」「理気二元」を説いた程伊川(1033-1107)の兄弟が「理」について異論を唱え、それぞれの学派を形成する。程明道の系統は、南宋の朱元晦(1130-1200)へと引き継がれ「朱子学」となる。程伊川の系統は、南宋の陸象山(1139-1192)へと引き継がれ、さらに明の王陽明(1492-1528)によって「陽明学」が打ち立てられ、さらに王龍渓(1498-1538)、李卓吾(1527-1602)と続く。宋・明の「理学」にあっては、「気」と「理」のあり方がもっとも問われるところである。「気」とは自然、つまり先天的に存在する数理のようなロジックであり、経験則と言い換えることもでき、「格物致知」という「大学」以来の理念によって現出される。しかし「理」とは倫理であり、もともと人間に生まれつき備わるものなのか、学ぶことによって後天的に得るものなのか、あるいは行いによって初めて真実となるのか、などが争われたのである。宋の象数易以前は、風水を観察する者にとって「気」を読むこと、つまり経験則だけが頼りであり、「三式」などの理論も、もっぱら「記号類型」という経験則であり、「理」と言えるような根拠は持ち得なかったのである。大きく分けて巒頭派と理気派の2つの流派があるが、さらに細かく流派が分かれる。前述のとおり奇門遁甲(奇門風水)などの「六大課」は風水とは別の体系で流派ではない。玄空派は奇門遁甲から発展した風水の門派として知られる。近年日本で出版された奇門遁甲解説書の中には、玄空派を奇門遁甲の門派としているものがある。玄空派の祖とされる蒋大鴻(1616-1714)の『地理辨正』を注釈した『地理辨正折義』に、蒋大鴻の高名な弟子である姜堯章による注釈があり、中でも『都天寶照経』中篇巻四に「天有三奇地六儀,天有九星地九宮,十二地支天干十,幹屬陽兮支屬陰」「蓋奇門主地;從洛書來,與地理大卦,同出一原」とあり、玄空派の風水理論が奇門遁甲を「主地」として発展したものとわかる。また「天有九星地九宮」とあることから、当時から奇門遁甲には「九星」と「九宮」が使われていた。なお、内藤文穏によれば、玄空派は奇門遁甲の門派であり、独自の『奇門遁甲天書』を伝承する、というが、『地理辨正折義』によれば玄空派の風水理論が奇門遁甲を「主地」として独自に発展したものである。風水の思想は東アジアだけでなく、欧米など世界各地で普及している。上記のとおり、中国での風水理論の完成は宋から明代であるが、それ以前の飛鳥・奈良時代に日本に伝わった理論が独自の発展を遂げた。特にそれは陰陽道や家相として発展した。平城京・平安京の立地が風水に則っているとされるが、その当時採用された「四神相応」は、四神の方角が固定化されているなど、すでに日本独自の理論となっていたものであり、現代的な「風水」とは全く関係が無いことに留意すべきである。江戸が風水都市であるという記載は多くの書籍で見られ、江戸の建設に深く関わった人物(天海など)が風水に通じていた、もしくは都市計画に風水を採用したという文献は存在しないが、あえて言うならば前述の陰陽道や宿曜道などの影響が想像できる。日本では「風水」の語が現代までほとんど知られず、目崎茂和は「風水の無い風土」と表現しているが、1994年に荒俣宏の『風水先生』が刊行され、風水が大きなブームとなり、広く知られるようになった。もともと琉球は中国との交流が盛んであり、中国から渡来した人や留学生などによって風水が伝えられていたが、18世紀の政治家である蔡温が行った、風水に基づいた都市づくりは特に有名である。琉球が風水の龍脈で守られていることは蔡温が建造した三府龍脈碑にも記されている。韓国(朝鮮半島)にも中国から風水が伝わり、都の場所や、墓の場所を定めるのに、大きな影響を与えている。日本統治時代の朝鮮で村山智順が風水を研究し『朝鮮の風水』にまとめている。現代の韓国では、日本が韓国の山に杭を打って朝鮮の民族精気を奪おうとしたとする日帝風水謀略説が語られている。欧米では、20世紀後半から風水の研究が広く行われている。これは、文化大革命で人材が中国から国外へ流出したためである。欧米においても徐々に受け入れられていき、ビジネスや建設において風水を活用する事例もみられるようになってきた。ただし、1873に出版されたErnest J. Eitel著のFeng Shui or the Rudiments of Natural Science in Chinaにおいて、著者のEitelは風水に対して否定的な見解をしめしつつも、西洋世界に風水を紹介している。この著作には羅盤の詳しい解説が含まれている。著者のEitelは中国に派遣された宣教師である。なお、最近ではインド伝統のヴァーストゥ・シャーストラも徐々に広まってきている。日本文化に造詣が深い、イギリスの風水協会会長を務めたサイモン・ブラウン(Simon Brown)の風水の著書は、全世界で100万部以上のベストセラーとなる。The Feng Shui Bible,Practical Feng Shuiは日本語訳でも出版されており、サイモン氏のセミナーはヨーロッパのみならず、日本でも開催されている。
出典:wikipedia
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