沢田 研二(さわだ けんじ、1948年6月25日 - 両親の実家がある鳥取県鳥取市の生まれで京都府京都市育ち。)は、日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。本名、澤田 研二。ニックネームはジュリー(由来は沢田本人が女優のジュリー・アンドリュースのファンだったため)。妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。現在は横浜市中区に在住。1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 - 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。1948年6月25日、京都市左京区の澤田松雄、智恵子夫妻の次男として、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市津ノ井)で出生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。当時、父親が舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された。京都市立第三錦林小学校、同・岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。少年時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治、藤尾茂が好きだった。中学では野球部のキャプテンを務め、ポジションは一塁手。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出したが、ここで負けた時に野球選手の夢は諦めたという。高校では空手部に所属。中学時代は番長であった。京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳の沢田はローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズのサリー(岸部修三=現・岸部一徳)から沢田はリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京代々木上原の内田裕也宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる)。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、沢田は本名でやりたいと拒否している。1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整で中性的な容姿を持った沢田は、貴公子的存在として10代の少女を中心に熱狂的な人気を博し、一躍国民的アイドルとなった。1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪球場、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催している。1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散。日本人として初の日本武道館単独公演。ザ・タイガースの解散後、沢田は1971年2月1日、新たなバンド・PYGに参加する。当時、欧米で結成されたブラインド・フェイスやプラスチック・オノ・バンドのようなスーパーバンドを模した形で、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した。しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとするロックを、当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏することに対し、『芸能界が創り出したもの』としてライブではトマトや空き缶を投げつける聴衆もいた。1971年11月1日発売のシングル「君をのせて」でソロデビューしたが、オリコン週間チャートでの最高位は23位、累計売上は10万枚とあまりふるわなかった。GSの先輩であったザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦プロデュースのもと、十数年にわたって音楽ランキングトップ10にチャートインし続けた沢田のソロ活動のスタートであった。1972年3月11日発売の「許されない愛」がオリコン最高位4位を記録し、ソロとして初のオリコントップ10入りを果たした。一方、PYGのもう1人のボーカルである萩原健一の俳優活動が本格化してPYGは実質的に形骸化、他のメンバーは沢田のバックバンド 井上堯之バンドとして活動していくことになった。1973年4月21日発売の「危険なふたり」が65万枚を売り上げソロ初のオリコン1位を獲得、第4回日本歌謡大賞を受賞(歌謡大賞歴代最高視聴率の47.4%を記録)し、ソロとしての人気を確固たるものとした。この作品からスタイリストとして早川タケジが参加し、以降、斬新なファッションが確立されることになった。翌1974年には「追憶」が58万枚を売り上げ2曲目のオリコン1位を獲得した。1975年1月にはシングル「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」でイギリス、「MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE」(日本語版「巴里にひとり」)でフランスに進出。フランスでは週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、フランスのゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。また、1974年にハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、1980年・1982年に香港でそれぞれコンサートを開催している。1975年6月4日、7年間の交際を経てザ・ピーナッツの伊藤エミ(当時34歳)と結婚。同年7月20日、比叡山延暦寺で結婚式を行った。同日、沢田の比叡山フリーコンサートにおいて夫婦揃ってステージに上がり、ファンに対して結婚報告を行った。同年8月21日に発売された「時の過ぎゆくままに」は5週連続オリコン1位、累計売上92万枚を記録し、沢田にとって最大のヒット曲となった。同曲は、沢田との仕事を熱望していた久世光彦が渡辺プロダクションに企画書を持ち込み3億円事件をテーマに製作されたTBSドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌で、主演の沢田が歌う劇中歌でもあった。なお、共演した岸部修三はこのドラマの放映開始から間もなく井上堯之バンドを脱退、後に岸部一徳と改名し俳優の道を進んだ。同年12月7日に東京駅新幹線ホームにあふれたファンのことで駅員と沢田が口論になり、駅員に対して頭突きをする暴行事件を起こす。翌年の1976年5月16日にも再び新幹線車中で乗客にからまれ、揉みあいの末、二度目の暴行事件としてマスコミに報道され、1ヶ月間謹慎。復帰後、同年9月に久世光彦(小谷夏名義)の作詞、沢田作曲の「コバルトの季節の中で」を発売したが、活動再開後もNHK紅白歌合戦、賞レースを全て辞退した。翌年の1977年2月発売の「さよならをいう気もない」では、金色のキャミソールという衣装でテレビに登場。同年5月に発売された「勝手にしやがれ」はソロとして4曲目のオリコン1位を獲得。5週1位を保ち89万枚を売り上げた。曲中にかぶっていたパナマ帽を客席に飛ばすというパフォーマンスは、子どもが学校でマネをするほど大きな話題となった。この曲で、第19回日本レコード大賞を受賞。受賞シーンでは、萩原健一や岸部一徳などのザ・タイガース・PYG時代からの仲間が駆けつけた(レコード大賞で歴代最高視聴率の50.8%も記録)。その他第8回日本歌謡大賞(視聴率46.3%)など、同年の主要な賞レースを独占した。1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、1975年の比叡山フリーコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど化粧はステージでは行っていたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組では控えていた。しかしマスコミによって「暴行事件」と大きく報じられたことを契機に、沢田はこれまでの意識を変え、「さよならをいう気もない」以降、ヴィジュアルを重視したスタイルをエスカレートさせていく。1978年に発売された「サムライ」では、刺青風の模様が施されたシースルーの上にハーケンクロイツの腕章が施されたナチスを想起させる軍服を羽織り、「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻くなど、前述のようにヴィジュアルはどんどん奇抜な方向に進んでいった。「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。同年の第29回NHK紅白歌合戦でトリをつとめる(対抗の女性歌手は山口百恵)。この1978年を例にとると、年間のテレビ出演700本以上、ラジオ300本、取材300本、地方公演100日。バックバンドをひきつれて1日3回もテレビに出演。バラエティ番組にも出演し、「お茶の間のアイドル」として活動した。1979年に発売された「カサブランカ・ダンディ」ではウイスキーを口にふくんで霧のように吹き、同年「OH! ギャル」ではマレーネ・ディートリヒをオマージュしたメイクをした。また、PARCOのテレビCMでは全裸で横たわり、上半身裸の新聞全面広告を掲載。PARCO各店には手で胸を隠した裸の沢田のポスターが貼られた。翌年1980年2月29日に同じシチュエーションで写真集「水の皮膚」を発売した。この写真集は男性歌手として初めてのオールヌード写真集である。1980年1月1日に発売された「TOKIO」では、電飾が施されたスーツを身に纏い、パラシュートを背負って歌唱する奇抜なパフォーマンスが大きな話題を呼んだ。同年の「恋のバッド・チューニング」では青や金色のカラーコンタクトを装着するパフォーマンスをみせた。井上堯之バンドのリーダー井上堯之は、過激なコスチュームに走る沢田に対して「もうついていけない」と語り、井上堯之バンドは同年1月24日に解散する。沢田は同年4月に胃潰瘍で1ヶ月間入院した。井上堯之バンドの解散を受け、新たなバックバンドとして1980年にALWAYS、1981年にEXOTICSを相次いで編成。「渚のラブレター」、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」、「麗人」、「おまえにチェックイン」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」というヒット曲は、よりロックテイストに進化していった。「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は、沢田自身の作曲したシングルとしては最高の36万枚のセールスを記録した。ソロ活動と並行して1981年1月、ザ・タイガースが瞳みのるを除くメンバーで10年ぶりに再結成。GS時代に縁のあった日劇が取り壊されることとなり、最後の日劇ウエスタンカーニバルに出演するためだったが、これを契機に同年秋、「同窓会」と銘打った企画で11年ぶりにシングル「十年ロマンス」を発売、翌年に発売された2枚目となるシングル「色つきの女でいてくれよ」は化粧品会社とのCMタイアップで、オリコン上位にランクイン、武道館を含む全国ツアーを行う。第34回NHK紅白歌合戦では、ジャングルビートの「晴れのちBLUE BOY」で金杯を獲得。軍服にサーチライトを装着したコスチュームで登場した。俳優としては1979年に公開された映画『太陽を盗んだ男』で原子爆弾を作る理科教師を演じ、第4回報知映画賞でグランプリにあたる作品賞と主演男優賞を受賞、キネマ旬報読者選定邦画ベストテン第1位に選ばれた。日本アカデミー賞では主演男優賞にノミネートされる。1981年の映画『魔界転生』では天草四郎に扮し、これは企画段階から千葉真一の柳生十兵衛と共にキャスティング決定事項として進められた。クランクイン後は撮影に専念し、ジュリーのイメージを払拭する演技を披露。観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった(詳細は ⇒ 魔界転生)。バラエティにも多数出演し、「8時だョ!全員集合」や「ドリフ大爆笑」のコントでも活躍し、コントの「オチ」を任せられる程になった。CMにも多数出演し、中でも、1979年11月に発売された日産自動車のブルーバード910型のCMに出演し、「ブルーバード お前の時代だ」のキャッチフレーズで、同車が小型車(1600 - 2000ccクラス)で連続27ヶ月登録台数1位を記録し大ヒットに貢献した。1983年10月に新型となったU11型のCMにおいても「ブルーバード、お前はスーパージェネレーション」のキャッチフレーズで引き続き出演し前期型生産終了をもって降板した、1979年11月から1985年8月までの約6年の長い期間にわたって日産自動車のブルーバードのCMに出演、自らCMソングも歌った、この他本人がナレーションをしているバージョンも放送された。1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。渡辺プロダクション傘下の"株式会社ココロ"を設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。同年6月に自叙伝『我が名は、ジュリー』(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。8月発売の移籍第1弾の作品は、沢田自身が作詞・作曲したシングル「灰とダイヤモンド」。新たなバックバンドとしてチト河内を中心にCO-CoLOを結成。アルバムでは「架空のオペラ」をリリース。1985年に日米合作映画「 」(日本未公開)で劇中劇「鏡子の家」に出演、カンヌ映画祭に緒形拳らと共に出席。同作品は最優秀芸術貢献賞を受賞。1987年1月、伊藤エミに慰謝料18億1,800万円を支払い、離婚。1986年8月から伊藤と別居していた沢田は、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子と不倫していた。田中とは1989年11月に出雲大社で再婚することとなる。1987年3月に京都公演中のステージから転落し、左肘骨折・肋骨打撲で1ヶ月間入院。1986年の「CO-CoLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜」をはじめとしたCO-CoLO の3部作は、沢田の作詞した作品を技巧派のバンドメンバーがダークなメロディラインで曲を作った。音楽関係者の評価は変わらず高かったが、当時のミュージックシーンには受け入れられなかった。1988年、3年間活動を共にしCO-CoLOは解散。1989年、EXOTICSのメンバーだった吉田建をプロデューサーに迎え、村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、アルバムでは「彼は眠れない」を発表。同年10年間に渡って継続する音楽劇 ACTシリーズがスタート。同年末の「第40回NHK紅白歌合戦」ではシングル「DOWN」の他、ザ・タイガースとしても出場し、同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。1991年、デビュー25周年を記念してCD化されていなかった旧譜が東芝EMIより発売。25周年にちなみ、NHK-BS2では5日間計25時間の特集番組「美しき時代の偶像」が放送された。1992年から、「懐メロ歌手ではない現役の歌手だから」という理由で、沢田は音楽番組での過去の映像の放映を許可しなくなる(2001年以降は解禁している)。1994年、「HELLO」で5年ぶりに紅白に出場。1995年、沢田は「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とセルフ・プロデュースを宣言し、23年ぶりのセルフ・プロデュースアルバム「sur←」を発表した。以降、現在に至るまで一貫して沢田自身がアルバムのプロデュースを手掛けている。1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成し、「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」を発表。1980~90年代にかけて俳優としてはNHKの連続テレビ小説「はね駒」や大河ドラマ「山河燃ゆ」「琉球の風」、映画「カポネ大いに泣く」「夢二」ほか、フジテレビ「プロ野球ニュース」の準レギュラー、各社大手有名企業のCMに出演した。2000年11月、雑誌『日経エンタテインメント!』「J-POP巨人列伝-20世紀を駆け抜けた10人」第2位 沢田研二(第1位美空ひばり)。2001年に過去の映像の放映解禁と同時にテレビの音楽番組に復帰、情報番組(「新常識クイズ!目からウロコ」の司会も担当したが、翌年から再びテレビ露出をセーブ。全国ライブツアーや音楽劇、アルバム制作、舞台の主演俳優として活動している。2002年自主レコードレーベルとなるJULIE LABELを設立。このレーベルからリリースされた沢田のオリジナル・アルバムは目玉焼きなどの独特のパッケージ・デザインが施されている。この頃から沢田の作詞に「平和」という歌詞が多く用いられるようになる。2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。2008年、還暦を記念して、初の二大ドームコンサート「沢田研二 還暦記念コンサート 人間60年 ジュリー祭り」を開催し、東京ドーム、京セラドーム大阪両日で5万4,000人を集めた。1000人のコーラス隊を従え、約6時間半でフルコーラス80曲を歌いきるというステージを敢行。このライブは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞のコンサート・パフォーマンス賞を受賞。2010年、長年プロデューサーだった加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んで『ジュリー with ザ・ワイルドワンズ』というユニットを結成。シングル『渚でシャララ』、アルバム『JULIE with THE WILD ONES 』を発表し、全国ツアーを行った。第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサートパフォーマンス賞「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃない”」 受賞。2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりにステージに復帰し、岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に9月8日から全国33都市で38回の沢田研二コンサートに参加。ツァー最終日の2012年1月24日、会場となった日本武道館には岸部四郎も参加し、1971年1月24日「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった。2012年3月11日、前年の同日に起こった東日本大震災の被災地への祈りを込めたミニアルバム「3月8日の雲」を発表した。2013年12月3日に日本武道館で44年ぶりとなるオリジナルメンバーによるライブが行われた。現在も、三大都市での正月コンサート、紀伊國屋サザンシアターなど各地をまわる春の音楽劇、夏から秋にかけての約40公演に及ぶ全国ツアーという例年通りのスタイルを続けている。ソロデビュー以来、毎年必ず新作アルバムを発表し、他に例を見ない連続記録といわれた。2014年3月26日には『JULIE』~『NON POLICY』、2015年9月16日にはEMI所属時代に発売されたアルバムのうち『架空のオペラ』~『HELLO』がユニバーサルミュージックからSHM-CDとして再発売された(『sur←』~『新しい想い出 2001』は個人レーベルJULIE LABELから再発売されている)。ソロデビュー以降、恒例の東京・大阪を中心とした正月コンサートと、全国ツアーを行っている。以下、映像化、あるいはテレビ放映されたものを記す。1989年から1998年まで続いた音楽劇「ACT」シリーズ(演出・加藤直)では、ほぼ1人芝居で哲学的な内容を演じている。9枚組のCD全集が発売されている。「沢田研二が作詞、もしくは作曲して他アーティストに提供した楽曲一覧」と、「他アーティストによる、沢田研二・カバー楽曲の一覧」について。
出典:wikipedia
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