ヨルリンウリ党(ヨルリヌリとう、2003年11月11日 ‐ 2007年8月20日)はかつて存在した大韓民国の政党。盧武鉉政権与党(2004年5月-2007年2月)である。ヨルリン・ウリは「開かれた私たち」という意味である。2003年11月11日に新千年民主党(後に民主党と改称)から離脱した盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持派が結成していた国民参与統合新党とハンナラ党から離党した李富栄など数名の議員、柳時敏などの改革国民政党を中心に47人で結成され、四大綱領を発表した。「ウリ」とは「我々の」という意味で、名称決定時にウリ党(自分の所属政党)とウリ党(ヨルリン・ウリ党)で混乱が起こるのではないかと物議をかもした。結成当初、100年の歴史を持つ政党になることを目指して、「100年政党」というスローガンをうたっていた。政治思想的には中道派から左翼までの寄り合い所帯であった。同年3月9日、盧武鉉に対する大統領弾劾訴追案が発議されるとこれを阻止すべく議長席占拠という実力行使を行うが、3月12日、あえなく排除されてしまう。続いて行われた投票で弾劾訴追案が可決されると、これに抗議の意を示すために全議員が辞職届を出した(10日後に撤回)。しかし、弾劾訴追の賛否を主要な争点とした4月15日の第17代総選挙で過半数を越える152議席を獲得し、国会第一党に躍進した。しかし、総選挙以降の補欠選挙や地方選挙では立て続けに敗北、2005年に行われた国会議員補欠選挙では10戦全敗。大統領選挙前の最後の大型選挙であり、盧武鉉政権の中間評価の位置づけでもあった2006年5月の統一地方選に於いてソウルや釜山をはじめ当初優位に立っていた大田など7つの主要市長選で全敗、9つの道知事選でも1勝8敗と大敗を喫し、選挙の陣頭指揮を取った鄭東泳議長が引責辞任した。その後金槿泰(キム・グンテ)前保健福祉部長官を議長に選出し、新しい運営体制が発足することになった。しかし、同年7月26日の国会議員補欠選挙では、大統領弾劾の主役となった民主党(2005年に新千年民主党から党名改称した政党)の趙舜衡(チョ・スンヒョン)候補が当選(ソウル市城北乙選挙区)するなど4選挙区で全敗し、党勢の縮小に歯止めがかからなかった。同年10月25日、総合不動産税の強化など各種の不動産規制策に対し「大増税」との批判が集中し、2カ所で行われた国会議員補欠選挙で全敗した。同時に行われた市長・郡長の再選・補選では、盧武鉉大統領が圧倒的な得票率を記録した全羅南道など、4カ所全てで候補を出すことができなかった。補選や地方選挙での相次ぐ敗北で、勢いを失っていく中、2007年末の大統領選挙を見据え、党勢回復のためとして一度は袂を分かった民主党との再統合や高建(コ・ゴン)元首相との連携などが絶えず噂された。更に北朝鮮の核実験が行われたことや、経済の悪化が顕著になったことにより、支持率が1割を切る事態となり、盧武鉉と距離を置こうとする勢力と、あくまで支えようとする勢力(親盧派)の間で内紛が起きた。その後、所属議員の散発的な離党が続いていたが、高建の大統領選出馬辞退発表を受け、2007年2月6日、党所属の国会議員23人が「国民統合新党をつくる」として集団離党したことにより、第1党から最大野党のハンナラ党(127議席)に次ぐ第2党(110人)に転落した。この状況を打破すべく2月14日に開催された全党大会では丁世均が新議長に選ばれ、脱党勢力に加え民主党も含む党外勢力と統合し、新党を結成することが決議された。ウリ党から離党した議員と中道統合民主党(ウリ党離党者が結成した中道改革統合新党と民主党が統合して結成された政党)から離党した議員によって8月5日に結成された大統合民主新党(民主新党)へと吸収(8月20日)される形で、4年余りのウリ党の歴史に幕を閉じた。韓国の与党であったが、イラク戦争やイラク派兵には政府が米国への支持を表明したのに対し造反議員も相当数いた。党としての対北朝鮮政策は平和繁栄政策に代表されるように親北朝鮮的であった。これは盧武鉉政権における政策の中軸のひとつである。親日派に対する追放・報復措置は、金元雄などを擁するウリ党にとって重要な案件として推進されていた。なお日本の左派政党である日本共産党の第24回大会(2006年1月)にウリ党所属の国会議員である林鐘仁(イム・ジョンイン)が個人来賓として参加している。
出典:wikipedia
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