ポツダム()は、ドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。人口は約万人。旧東ドイツ領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからSバーン(近郊列車)で行くことができる。ハーフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。タキトゥスによれば、青銅器時代はゲルマニアの一部であった。ゲルマン民族の民族移動時代後、スラヴ人が7世紀頃にHevelli部族の移住とし入って来た。オットー3世 (神聖ローマ皇帝)はその土地をクヴェードリンブルクの修道院に授与した際、初めて993年の文献にPoztupimiとして記述されている。1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年にブランデンブルク=プロイセンの選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年、フランスでルイ14世がナントの勅令(1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはを発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシア、オランダ、ボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。その後、街はプロイセン王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園とロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、やがある。20世紀、ベルリンはプロイセンの首都となり、後にドイツ帝国の首都となったが裁判所はポツダムに所在したままであった。戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地ので開会され、この日はナチス・ドイツ時代の始まりを象徴する日として「ポツダムの日」と呼ばれる。1945年、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた()。第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、この都市のツェツィーリエンホーフ宮殿で米、ソ、英の3首脳が集まりポツダム会談が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定するポツダム協定が成立し、また会議日程中には日本に対する降伏勧告・ポツダム宣言が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される(ポツダム命令、ポツダム進級)。1991年にポツダム大学が創立された。1745年にプロイセン王国のフリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシー宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典:wikipedia
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