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三木武夫

三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 - 1988年(昭和63年)11月14日)は、徳島県出身の日本の政治家である。内閣総理大臣(第66代)などを歴任。衆議院議員当選19回、在職51年。称号及び栄典は、正二位大勲位、衆議院名誉議員など。1907年(明治40年)3月17日、徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市)に農商人の家の長男として誕生。明治大学法学部在学中に遊学し、英米自由主義社会を肌で体感、また独伊ソなどの全体主義国家への反感も身を以って実感する。明治大学卒業直後の第20回衆議院議員総選挙に無所属で出馬して当選、以降死去まで51年間連続在任する。帝国議会では日米対立の緩和に奔走し、翼賛選挙も翼賛政治体制協議会の非推薦候補として戦う。戦後は保守系政党を渡り歩き、党幹部或は大臣を数多く歴任、保守合同後の自由民主党でも自前の派閥を持ち、有力政治家の一人として認知される。一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。1974年、田中角栄の金権政治が暴露され田中が失脚すると、三木の「クリーンさ」が田中と対照的で有権者受けするとみなされて、首相に擁立される。周囲は田中の「金権」イメージ一掃のための中継ぎの予定であったが、三木は政治改革を行おうとして田中やその後継の大平正芳らと対立、自民党は分裂・下野寸前に陥る。結局第34回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れの惨敗を喫す。三木は保革伯仲を招いた責任をとって在任2年で退陣、自民党は70年代後半の混迷期に入る。以降も一貫して政治改革を訴えるとともに、晩年は中曽根康弘の軍拡路線に反旗を翻すなど、世界平和に向けた活動も行った。最晩年の2年ほどは、病で政治活動もままならなかった。1988年(昭和63年)11月14日、81歳で死去。大政翼賛会や田中角栄などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。三木が生まれた徳島県板野郡御所村は、北側の香川県との県境をなす讃岐山脈から、南を流れる吉野川へ降る扇状地が形成された場所にあり、水が伏流して得にくいために水田よりも畑が多い土地柄であった。土地はどちらかというとやせており、生産性は決して高くはなかったが、江戸時代からサトウキビ、小麦、藍などが栽培され、養蚕なども行われていた。三木の生まれた当時、御所村から最も近くの町は吉野川を渡った鴨島町(現・吉野川市)であり、徳島市へは鴨島から徳島線などを利用した。つまり三木の故郷は大都市や町ではなく、当時日本各地にあった農村地帯であった。三木武夫は徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市)に1907年(明治40年)3月17日、三木久吉、タカノの長男として生まれた。久吉は、御所村の近くにあった柿原村(現・阿波市)に農家を営んでいた猪尾六三郎の次男として生まれ、一時期大阪で就労した後、御所村の地主芝田家のもとで働いていた。そこで御所村宮川内の農家、三木時太郎の娘として生まれ、幼い頃から芝田家に奉公に出ていた三木タカノと知り合い、婚姻した。久吉とタカノは婚姻後、妻タカノの三木姓を名乗り、主である芝田家から家などを与えられて分家した形となった。芝田家は当時御所村一の地主として知られており、芝田家から家と土地を与えられた分家は他に何軒かあって、芝生の集落は芝田家とそれぞれの分家を中心として構成されていた。そのような御所村で、久吉は農業と肥料商を営んでいた。肥料は硫安、大豆粕、ニシンなどを扱っており、肥料以外にも酒、米、雑貨なども扱っていた。つまり三木の実家は農村のありふれた農商人であり、旧家や豪農などではなかった。武夫は久吉33歳、タカノ38歳の時に生まれた一人っ子であり、両親の愛を一身に受けながら成長した。特にタカノは武夫の健康管理について常に注意を怠らなかった。1913年(大正2年)4月、三木武夫は御所村尋常高等小学校に入学した。小学校時代の三木は同級生から「小柄で病気がちでおとなしい」、「一本気で融通が利かない」、「一人っ子、外面が悪く独善的で協調性に欠ける」などと回想されており、おとなしいものの我が強い子どもであったようだ。三年時には27日間欠席したと記録されていて、病気がちであったという回想は確かなようで、また恩師であった教師の談によれば、算数が得意であったが成績はクラスで三番から四番程度で、級長になったことは無いといい、飛びぬけて優れた小学生ではなかった。しかし三木は小学校時代から「お話の時間や学芸会では目立つ」、「弁論が上手い」、「近所の子どもたちに演説を聞かせていた」など、後に国会などで雄弁で鳴らすことになる片鱗を見せていた。1920年(大正9年)4月、三木は徳島県立商業学校に入学する。これは父が肥料商であったこともあり、家業である商業を学ぶ商業学校への進学をしたためであった。順当にいけば三木は前年の大正8年4月に進学しているはずであり、一年遅れの徳商入学となった。入学が遅れた理由としては小学校や徳商の同級生らから、入学試験に落ちて浪人した、補欠合格はしたものの自信が持てず留年した、あるいは眼の病気のためとの証言があってはっきりしない。当時、徳島中学校と並ぶ難関中等学校であった徳島県立商業学校の入学試験に際し、タカノは小学校教師に毎晩の特別の補習を依頼し、補習終了まで別室で待っていた。徳島県立商業学校に入学した三木は、徳島市前川町にあった第二宿舎に入寮し寄宿生活を始めた。三木は時々宿舎を抜け出し、カフェで飲酒したり無声映画を見たりする硬派グループのリーダーとなったと伝えられている。久吉にねだってコダックの小型カメラを購入してもらい、カメラ悪用の疑いで久吉が学校に呼び出されたこともあった。三木の徳島県立商業学校での成績について詳細は不明であるが、中位であったと言われている。徳商時代、三木は弁論で存在感を見せるようになる。中学一年時に弁論部に入部するとたちまち頭角を現して弁論部キャプテンとなった。三木は徳島県下青年学生雄論大会などで得意の雄弁を見せ、第一席となったこともあると伝えられている。また徳島で成長した賀川豊彦の講演を聞いてその弁論術に感動し、永井柳太郎の雄弁術に感激したというエピソードも残っている。1925年(大正14年)7月、徳島県立商業学校では野球部強化のための資金集めと商業実習を兼ねて、ワイシャツや毛布などを販売する校内バザーを行うことが慣例となっていたが、バザーの会計に不正があるとの疑いが生じ、四年生を中心として校長の追放運動が発生した。三木は一年留年しており、当時最高学年の五年生であったが、運動の主要メンバーとなった。三木は得意の弁論を駆使して校内を説いて回り、校長にも直接談判した。そして四年生全員が連判状に署名した上で、学校を休んで眉山の茂助ヶ原に集結し、気勢を上げるという事態に発展した。その結果、生徒と保護者の代表がバザーの会計監査を行うことになったが、不正は明らかにならなかった。最終的に三木と他の一名の生徒が一連の騒動の首謀者とされ、退学処分となった。この事件では三木の雄弁が悪い結果をもたらしたことになる。久吉は徳島県立商業学校の退学処分を受けた三木を厳しく叱りつけ、タカノは近親者に対して子の行く末を案じると漏らしていた。三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。私立中外商業学校は1922年(大正11年)3月に認可され、同年5月から授業が開始されたという三木の編入当時はまだ歴史の浅い学校であった。三木は当初、大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。徳島の名門校から無名に近い学校への転学を余儀なくされた挫折感や、故郷徳島を離れた孤独感に苛まれた三木を支えたのはやはり得意の弁論であった。大正14年の近畿中等学校弁論大会で三木は第一席となっている。三木は1926年(大正15年)3月、私立中外商業学校を卒業した。中外商業学校卒業後、三木は進学を希望する。徳島県立商業学校の退学処分というアクシデントはあったものの商業学校を卒業したわけで、家業を継いでもらいたいと考えていた両親は当初進学に反対した。三木はまず旧制高等学校を受験するが不合格であった。郷里で失意に沈んでいた三木に中学の同級生が「まだ明治大学の受験が残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った。一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大の試験を受け合格し、1926年(大正15年)4月、旧制明治大学専門部商科に入学することになった。三木が入学した当時の明治大学は、関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、学生、教職員、校友らが協同で復興に取り組んでおり、また入学前年に記念館が竣工し、入学した年には専門部に女子部が開設されるなど、学内は活気に満ちていた。また明治大学の建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気に溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続きの学生生活から一変し、三木は学生生活を満喫することになる。三木は本郷、巣鴨、下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子息竹内潔が、後に三木の秘書、そして参議院議員となる。三木の生活費などは久吉が送金していたが、久吉に金の無心をする葉書が残されているところから、十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里の父母の健康を気遣う手紙が残されており、これは三木は故郷を離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情を深く感じるようになっていったことを示している。明治大学専門部商科入学直後、三木はクラス委員に立候補する。徳島市生まれの郷里の先輩にあたる長尾新九郎は、委員に立候補して演説する三木の姿を見て声をかけた。これまで徳島県立商業学校、私立中外商業学校で弁論で活躍してきた三木は、郷里の先輩で雄弁部で活躍していた長尾の勧誘もあり、雄弁部に入部することになる。長尾はその後も三木の親友として後の欧米への遊説、見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で三木を支え続けた。三木が在学していた当時、明治大学は立憲民政党系の影響力が強く、木村武雄などは学生院外団に所属して民政党の応援活動に従事していた。しかし三木は既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動に興味を示すこともなく、雄弁部の活動に専念していた。明大雄弁部の活動としては、まず全国各地で演説会を開催したことが挙げられる。三木は入学直後の1926年(大正15年)7月には、名古屋市、奈良市、和歌山市、大阪市そして郷里の徳島県など四国各地での演説会に参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾まで、そして朝鮮でも明大雄弁部は演説会を行い、三木はそれらに参加した。この全国各地での演説会開催は評判を呼び、明大学長の横田秀雄のもとには多くの礼状が届けられたという。もちろん雄弁部は明治大学学内でも演説会を開催しており、三木が明大での演説会に参加した際の記録が残されている。更に三木は1928年(昭和3年)には、関東39大学の弁論部によって結成された東部各大学学生雄弁連盟の呼びかけ人の一人になった。同じ1928年(昭和3年)の12月には、時の田中義一内閣の思想取り締まりが各大学の弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して、東京本郷の仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木は明治大学雄弁部キャプテンとして弾圧反対の演説を行っている。このような雄弁部の活動を通じて三木は他大学の弁論部員との交流が生まれた。その中には後に政官界、経済界で活躍する人材も多く、後に政界で活躍する三木の人脈形成の一つとなった。1929年(昭和4年)3月、明治大学専門部商科を卒業する。1929年(昭和4年)4月に三木は両親宛に『しばらくの時間の猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容の書簡を送っており、専門部商科を卒業後三木は就職することなく、4月には明治大学法学部に入学し、更に欧米への外遊に出発することになる。三木は長尾から国際性を身につける必要性を説かれ、アメリカへの遊説旅行に勧誘されていた。法学部入学直後の1929年(昭和4年)6月、『明治大学駿台新報』には長尾と三木がハワイ、アメリカ本土へ遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行の費用は自己負担であり、三木は企業などからの援助、新聞社の特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用を賄うことになった。出発前には長尾、三木両人の故郷である徳島で『欧米遊説記念大演説会』を開催し、明大学長からの許可書、指導協力の依頼状を携え、1929年(昭和4年)9月27日、ハワイ、アメリカへ旅立った。三木を遊説旅行に勧誘した長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともにアメリカに渡り、苦学をした経験があった。アメリカ在住経験がある先輩の長尾とともに、三木はハワイ到着後、現地在住の明治大学の校友会や日系人の支援を受けながら、精力的な講演活動を開始する。ハワイでの講演活動後、長尾と三木はサンフランシスコへ向かい、やはり現地在住の明大校友会、日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイト、シカゴ、ニューヨークなどで公演を行った。三木らはデトロイトではフォード・モーターを一日かけて見学したり、また発明家のトーマス・エジソンと面会するなど、講演活動以外にも見聞を広めていった。約一年間に及ぶアメリカ遊説旅行終了後、三木はヨーロッパへ渡った。アメリカの講演旅行と異なり、ヨーロッパはほぼ三木の単独行であった。ヨーロッパは講演活動ではなく見学旅行であり、三木はイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ソ連などを回った。折りしも三木の欧米旅行中に世界恐慌が発生しており、アメリカでは大勢の失業者が発生している状況を目の当たりにし、続いてイギリスでも大恐慌の深刻な影響を実感した。三木はヨーロッパ歴訪中、ベニート・ムッソリーニのファシスト党統治下のイタリア、ヨシフ・スターリン支配下のソ連、そしてアドルフ・ヒトラーによるナチス台頭前夜のドイツを見て、ファシズム、スターリニズムなど全体主義の強権に強い違和感を抱いた。一方スイスのジュネーブで行われた国際連盟の軍縮会議で、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアンが行った平和を訴える演説に感銘を受けた。三木は一年あまりの欧米旅行で、アメリカの自由、民主政治、そして平和の重要性、そしてファシズムと共産主義による強権支配の問題性を認識し、三木の人生そして政治活動に大きな影響を与えることになる。1930年(昭和5年)11月、三木はシベリア鉄道経由で満州里へ向かい、北京を通って日本に帰国した。帰国した後、さっそく明大法学部に復学するものの、三木はすぐにアメリカ留学を計画することになる。アメリカ留学の意図は語学を身につけ、交際感覚を磨くためとも言われているがはっきりとはしない。1931年(昭和6年)6月に、明大を卒業して故郷徳島に戻った長尾宛の書簡によれば、当初三木は明大野球部のアメリカ遠征時にマネージャーとして同行し、アメリカで弁論活動なども行うことを計画していた。しかしこの計画は実現せず、結局翌7月に明治大学から『大学など学校調査研究のため、二年間の欧米出張を命ず』との内容の契約書、辞令が交付された。結局三木は1932年(昭和7年)5月、アメリカへと向かった。アメリカ行きに際し、当初三木は片道分の旅費しか持っていかなかったと伝えられている。講演活動を行えばお金は何とかなると考えたためのようであるが、三木の意図とは相違して、講演活動での収入では生活もままならず、現地日系の新聞社の記者、ロサンゼルスの日本語学校での小学校教師などを行ったが、学業を行いながらの生活は経済的にかなり苦しく、アメリカ留学時代、親友長尾に宛てた手紙の多くは生活費に関するものであった。そのような中で三木は著書の出版を計画し、更にはロサンゼルスオリンピックに際して日本製の日傘を輸入し、また米国製中古機械を日本へ輸出する計画などをもくろんだりもした。経済的に苦しみながらも、三木は南カリフォルニア大学、アメリカン大学に通学した。1936年(昭和11年)4月にはアメリカン大学からマスター・オブ・アーツ(文学修士)の学位を受けたと伝えられている。明治大学からの学校調査研究のためという渡米契約についても、1932年(昭和7年)11月の時点でアメリカ中西部の大学は視察し、続いて東部の大学視察を行う予定である旨が報告されており、大学側に明大に留学生部ないし日本語専修科の設置、そしてアメリカ在住の日系二世を明治中学校に編入させるアイデアを提案している。1932年(昭和7年)5月に始まった三木のアメリカ留学は、1936年(昭和11年)4月までの四年間に及んだ。アメリカ留学時代、三木は本業の学業、大学などの教育制度調査以外に、資金を稼ぐためにアメリカで就労を経験し、出版や貿易を企画するなど様々な体験を積んだ。また在米期間中には三木の人脈も形成され、後に三木の政策ブレーンとなった人物もいる。専門部商科時代の樺太、台湾、朝鮮を含む日本全国の遊説旅行、1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけての欧米旅行、そして四年に及ぶアメリカ留学は、当時の日本が一層の世界進出を果たしていくという機運の中で行われたものであるが、若い三木にとって様々な見聞、そして体験を積み重ねることとなり、更には人脈形成の一環ともなった。アメリカ留学から帰国後、三木は明治大学法学部に復学する。そして1937年(昭和12年)3月、明治大学法学部を卒業する。卒業後の三木の進路は全く決まっていなかった。希望としては明治大学の教員になることを考えていて、他に外交官、記者、そして政治の世界に身を投じようとも考えていた。当時は、弁論活動をしていた人物が政界入りすることは、珍しいことではなかったのである。そのような中、当時の林内閣は1937年(昭和12年)3月31日、突如として衆議院を解散する。三木はこの突然降ってわいたような衆議院選挙に立候補する決意をした。三木は林内閣の衆議院解散、いわゆる食い逃げ解散の報を御茶ノ水の床屋で聞き、衆議院選挙立候補を決意したと伝えられている。三木は解散と同じ月の17日に満30歳となり、当時の衆議院議員被選挙権を得たばかりであった。また、三木の衆議院議員立候補の経緯としては、衆議院解散のニュースを聞いた時点では立候補をするつもりは無かったが、解散直後に三木のところに徳島県出身の若者が尋ねてきて立候補を要請され、どうして自分が立候補できるだろうかと難色を示した三木に対して、手弁当で応援すると重ねて立候補をすすめる青年の熱意を前に、とりあえず徳島の選挙区事情を実見して決めることにしたのがきっかけであるとの話も伝わっている。解散の翌日、三木は郷里徳島へと向かった。徳島ではまず親友長尾新九郎に衆議院選立候補について相談した。長尾は『一生涯政治をやるか、やるなら政治家は金をためることを考えるな…大義名分に従い、闘争心が失せたらその時点で政治家を辞めよ、その覚悟はあるか?やれ』などと、政治家となるための覚悟を三木に問うた上で立候補を勧めた。三木はこの時の長尾の忠告を『私自身の自問自答のようなものであった』と述べており、初回立候補時に政治倫理の確立に尽力し続けることになる三木の原点が見いだせる。そして長尾以外の友人からも衆議院選挙出馬を勧められ、三木は出馬の決意を固めることになった。長尾との相談後、三木は実家の父母を訪ねて衆議院選挙立候補の決意を伝え、立候補に必要な供託金の納入など立候補の手続きを依頼した上で、いったん東京に戻った。1937年(昭和12年)4月9日、父久吉は当時の徳島2区(板野郡、阿波郡、麻植郡、美馬郡、三好郡)への立候補を届け出た。同日三木は東京から当時徳島県にあった五つの新聞社に立候補声明を航空便で送り、翌10日には明治神宮、靖国神社に参拝して、『郷里の徳島二区から生涯代議士に打って出ること、これまでの多くの政治家が行ったような不浄、不純を行わないこと』を誓った後、選挙戦のために徳島へと向かった。三木が立候補を決意した徳島2区は3人区であり、前職3人がいずれも立候補した。前職は57歳で当選4回の民政党所属の真鍋勝、72歳で当選5回、民政党の徳島県支部長を務める高島兵吉、そして57歳で当選8回、衆議院議長も務めた無所属の秋田清という有力候補揃いであり、立候補直前まで大学生であり衆議院議員の被選挙権を得たばかりで地方議員経験が無く、しかも徳島県立商業学校の退学処分を受けた後、故郷の徳島から離れて生活してきた三木は、当初圧倒的に不利であると予想された。圧倒的不利を予想された選挙戦で、三木はまずイメージ戦略を実行した。選挙活動開始時の1937年(昭和12年)4月初旬、日本全土は神風号の欧亜飛行新記録樹立の快挙に沸いていた。明治神宮と靖国神社参拝後に選挙戦のために徳島へ向かった三木は、大阪からは飛行機を用いて徳島入りした。当時まだ珍しかった飛行機を利用してのお国入りは、三木と神風号を結びつけることに繋がり、地元新聞は三木のことを神風号にちなんで神風候補と呼び、三木陣営もまた神風候補と名乗った。選挙区情勢を詳細に分析した三木は、選挙事務所を板野郡板西町(現・板野町)に置くことにした。板西町は東西に長い徳島2区の東に寄っているが、板野郡は三木の故郷であり、また板野郡の南にある麻植郡、西側の阿波郡からは立候補者がいないため、各候補の競争地になると判断し、選挙活動に最適と判断した板野郡板西町に選挙事務所を構えることとした。なお、開票結果は麻植郡、阿波郡は三木が1位、板野郡はもう一人の地元候補である高島兵吉に次いで2位となり、三木の読みは的中する。実際の選挙戦ではまず長尾の実兄で、前県議の田所多喜二が遊説部長として陣頭指揮を取った。選挙区事情に精通した田所は『徳島県は若い政治家を育てよ!』と、三木を伴って選挙区中を回った。また在京、在米生活の中で知り合った知己を積極的に応援弁士として招請した。三木の応援に参加した人物には、在米中に知り合った早稲田大学教授の吉村正や、その教え子であった石田博英がいた。東京の大学教授や外国生活経験者の応援は、三木に他の候補には見られない若さと都会性、そして国際性を身につけた人物であることを有権者に認識させる手段であった。三木は第20回衆議院議員総選挙は無所属で立候補した。三木は隣の選挙区である徳島一区から当時5回当選していた政友会の政治家、生田和平を政治の師と仰いでいでおり、徳島2区には民政党の現職代議士が2名いたものの政友会の代議士が不在であったこともあって、まず政友会からの出馬が考えられた。また三木が長年在学していた明治大学は民政党の影響が強かったが、当時、既成政党に対する批判が強く、三木自身も既成政党に対する厳しい批判を持っていたため、無所属での立候補を決めたと考えられている。三木は当時の政治情勢について、これまで政党は藩閥政治を打破した大きな功績を挙げてきたが、既成政党が腐敗して国民の信頼を裏切ったため、立憲世論の政治が衰退して官僚超然内閣が続くようになったと判断していた。そのため三木は無自覚議員をなくして議員の質を上げ、政党を浄化して立憲世論の政治を取り戻すべきであると主張し、選挙遊説の中でもまず既成政党の腐敗批判と政治浄化を強調した。同様の主張は当時しばしばなされていたもので、特段真新しい主張であったわけではないが、閉塞感に覆われていた当時、まだ30歳になったばかりの新人代議士候補が既成政党の腐敗を激しく批判し、政治浄化を唱える姿は選挙民に変化への期待をもたらした。また政党の浄化と議員の資質向上という主張は、最初の国政選挙時から唱えられていたものであるが、立候補した当時の情勢と、政党が結局軍部の暴走を押し止められなかったことへの反省から、三木終生のライフワークとなった。そして三木の議員一人ひとりの資質向上を目指す考え方は、真の言論の府として議会が機能していくことを目指しており、「政党政治を量の政治とし、所属議員の数が多ければそれでよし」とするような、政党は議会の多数派を占めさえすれば良いといったやり方を批判した。この点も後に三木が田中角栄の「数は力」という考え方に鋭い批判を向けたことに繋がっていく。初回立候補に際して三木が唱えた具体的な政策としては、選挙広報に15項目に及ぶ政策が列挙されている。政策の冒頭にはまず「国体明徴」、「日本道徳の鼓吹と共産主義絶滅」、「祭政一致」という、当時の時代背景を如実に示すようなスローガンが並んでいる。続いて議会浄化と政党の革新による真の世論政治の実現、日本の必要による自由な世界進出、科学技術の振興、産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化など、後に三木が取り組み続けることになる政治課題の多くが列挙されていた。うち産業組合の充実改善強化、中小商工業者の組織化という政治課題の重視は、終戦後国民協同党の書記長、次いで委員長など、協同主義を標榜する政党で要職を歴任することに繋がっていく。また三木の訴えた政策の特徴としては、選挙区である徳島2区に直接関わる政策よりも、全国的、そして国際関係に関する政策が目立つ点が挙げられる。三木は、選挙戦は「主義政策よりも候補者の質の争い」になると考えた。そのため三木武夫という候補者の本質を有権者に徹底的に理解してもらう必要があるとして、広報のやり方、無料郵便の発送、演説会の日程や時間配分などを分析検討しながら選挙戦を進めた。4月13日に選挙戦が始まると、三木は徳島2区の各地で開催した演説会で既成政党への批判と政治浄化を中心とした選挙演説を行った。三木は徳島県立商業学校、私立中外商業学校時代から雄弁で鳴らしており、明治大学時代は雄弁部に所属して、文字通り世界を又にかけて活躍した。このような三木にとって最大の武器は弁論であった。選挙戦が進むにつれて三木の選挙演説は評判を集め、大きな反響が現れるようになった。各演説会会場は大勢の人々が詰めかけ、三木陣営に多くの激励の手紙や電報、そして選挙費用の寄付が届けられた。大塚製薬の創始者となる当時20歳になったばかりの大塚正士は、三木の演説に深い感銘を覚え、選挙期間中三回も三木の演説会に足を運んだという。選挙戦を通じて三木は他の候補者には無い若さと都会性を全面に打ち出し、既成政党と政治腐敗への強い批判を行い、改革者であるとのイメージを植えつけることに成功した。また三木は選挙戦終盤に徳島2区の有権者に送付した無料郵便で、自らが一人っ子であることを紹介しつつ、皇国に忠誠の使徒である上に、衆議院議員に当選して老父母に孝行の実を挙げ、忠孝両全の規範を立志の歴史に留めたいとの内容の、当時の倫理規範で最高の徳目とされた忠孝を兼ね備えた人物であることを示すとともに、泣き落としとも受け取れる訴えを行った。そして無料郵便には「元大審院長正三位勲一等 前明治大学学長法学博士」との肩書きの横田秀雄の推薦状が添付されており、大学教授などを応援弁士として招請した三木武夫の広い人脈を、有権者に改めてアピールした。選挙戦終盤になって、新聞各紙は三木は同じ板野郡を地盤とする高島兵吉と当落を争うと予想するようになった最終盤の4月28、29日になると選挙運動は激しさを増し、三木は一日十六、十七ヶ所の演説会をこなし、結局、板野郡、阿波郡、麻植郡の三郡は選挙戦中にほぼ二巡した。4月30日に行われた投票の結果、三木は真鍋勝、秋田清に次いで三位の票を集め、前職の高島兵吉を押さえ当選した。なお三木の衆議院議員当選は当時の最年少記録であった。5月3日の朝日新聞朝刊は、飛行機に跨る三木の挿絵付きで、『神風の闘志に学ぶ、全国一の年少選良、三木君』と題する記事を掲載し、「神風候補」と銘打って言論戦に所力を尽くし、堂々栄冠を獲得したと三木の選挙戦を紹介した。総選挙の結果、政友会はほぼ解散前の議席を維持し、民政党はやや議席を減らしたものの、これまで続いてきた既成政党の人気低落には歯止めがかった形となった。解散を強行した林内閣は居座りを決め込もうとするが、政友会と民政党は協同で倒閣を目指した。政友会と民政党の連携が成立したことによって、選挙後の特別議会で内閣不信任案の可決が確実な情勢となったため、林内閣は総辞職した。元老西園寺公望や重臣らは、陸軍にも議会各派にも受け入れ可能な近衛文麿を総理とすることとし、1937年(昭和12年)6月4日、挙国一致内閣を標榜する第1次近衛内閣が成立する。そして第1次近衛内閣のもと、第71帝国議会が7月23日に開会されることが決定した。なお、三木は衆議院議員当選後も政党に入党せず、無所属議員のままであった。。帝国議会開会の日程が決まり、三木ら無所属議員と小会派の議員らは院内会派の結成を検討するようになる。院内会派とは議院の中のみの議院集団のことを指し、院内会派に所属すれば各派協議会(現在の議院運営委員会)への参加が認められ、本会議での発言権や委員会での委員選定で有利となるため、有効な議会活動を行うためには院内会派に所属する必要があった。6月17日に三木を含む無所属議員と国民同盟、旧昭和会などの小会派の議員が院内会派結成の打ち合わせを行った。その後清瀬一郎宅で協議を進めた結果、第71帝国議会開催直前の7月21日には49名の衆議院議員で院内会派、第一議員倶楽部が結成されることになった。しかし三木は第一議員倶楽部には参加せずに、無所属議員の一部が参加する院内会派の「第二控室」に所属することになった。なお、会派名の第二控室とは文字通り院内会派に割り当てられた国会議事堂内の部屋の名前であった。第二控室は13名の議員で構成されており、第1回衆議院議員総選挙以降、連続当選を続けていた尾崎行雄ら、個性豊かなメンバーが揃っていた。当時三木は尾崎を議会の大先輩として仰いだという。第71帝国議会開会前の6月17日夜、三木は東京を発って地元徳島県の選挙区に向かい、地元が抱える数々の課題について実態調査を行った。更に6月末から7月初旬にかけても地元の各町村役場をきめ細かく巡り、各町村の実情について調査した。その後も三木は議会報告を開催するなどかなり頻繁に地元入りして、選挙区との関係強化を図っていった。三木の国会デビューとなった第71帝国議会では、7月31日に人造石油製造事業法外一件委員会の委員として初質問を行った。開会直前には盧溝橋事件が発生し、日中が全面衝突する事態へと発展していった。そのような中、閉会前に超党派の戦場慰問団の派遣が決定され、三木は小泉又次郎を団長とする中国方面の慰問団員となり、8月15日から9月3日にかけて、国会議員としての初外遊を行った。三木の衆議院本会議での初質問は1938年(昭和13年)2月22日、第73帝国議会のことであった。本会議で三木は大蔵大臣賀屋興宣に対し、政府が提出した支那事変特別増税案に関して、増税が産業振興に悪影響を与える点、すでに多くの負担を担っている国民にとって更なる負担の増大となる点を批判し、増税を行う前提条件として富の偏在を正す必要があると指摘した。その上で真の挙国一致のためには、政府は国民に情報を伝え、政府の施策に納得してもらうことが必要であると主張した。1939年(昭和14年)2月14日、第74帝国議会の予算委員会報告に対する賛成演説でも、三木は政府が国民に対して情報をオープンにするよう主張し、時局に乗じて利益を貪る者がいる反面、多くの国民が困窮している状況を指摘し、更には当時強まりつつあった統制経済の動きの行き過ぎを批判した。このように三木は議会政治家として民意の重視を訴え続けたが、一方その民意重視の姿勢は「戦争遂行に対する国民的熱意」に従うことに繋がり、三木の議会での活動は基本的に戦時体制に肯定的なものとなった。三木が国会議員になった1937年(昭和12年)の12月12日には、日本軍が南京攻撃の際、南京から脱出する外国人を乗せたパナイ号が撃沈され、日本側が陳謝と賠償を行ったパナイ号事件が発生するなど、日米の関係悪化が目立つようになっていた。米国留学の経験がある三木にとって、日米関係の悪化は憂慮すべき事態であった。三木によれば当時、駐日大使を勤めていたジョセフ・グルーから日米関係を憂慮する手紙を受け取ったという。日米関係が緊迫していく情勢下、三木は日米友好を図り様々な活動を行った。まず政友会の植原悦二郎、岩瀬亮らとともに対米同志会を結成した。会の趣旨は、「日華事変でアメリカ国民が中立を守っていることに、日本国民から感謝の意を示す」とし、対米同志会は1938年(昭和13年)2月19日、日比谷公会堂で貴族院議員の今井五介を座長として日米親善国民大会を開催した。大会では賀川豊彦、菊池寛、対米非戦論者の陸軍中将原口初太郎らが日米友好親善に関する演説を行った。三木は日米親善国民大会の席で「日米が戦って両国とも何を得ようというのか、まず石油が無い日本がどうして長期戦を戦えるのか、アメリカも一死報国の念に燃える日本軍を相手にすれば多大な犠牲を出すことになる、日米両国が戦争に訴えず、平和的に対立を和らげていくよう努力することこそ、両国の政治家の責務ではないか」という趣旨の演説を行ったと主張しているが、日米親善国民大会の席で実際どのような演説が行われたのかについては、戦災などで記録が失われている。研究者の中には1938年(昭和13年)時点では、日米関係が緊迫していたとは言いがたく、三木が主張しているような内容の演説を実際行ったかについては疑問があるとの意見がある。1939年(昭和14年)には、枢密顧問官の金子堅太郎を会長とした日米同志会が結成され、三木は専務理事となった。三木は日米同志会で日米戦争回避の活動を続け、特に衆議院議員の安倍寛と共に、各地で日米非戦を訴えて回った。1939年(昭和14年)2月26日、日米関係の改善に力を尽くし、アメリカ側にも信頼されていた駐米大使、齊藤博がアメリカで死去した。齊藤の死をアメリカは悼み、海軍巡洋艦アストリア号で遺骨を日本に送り届けることになった。アメリカ側の措置を受けた日本側は、緊張する日米関係改善のきっかけとすべく、三木や今井五介、植原悦二郎、松田竹千代、岩永裕吉など貴族院議員、衆議院議員らが協議して、金子堅太郎を会長とする米艦アストリア号国民歓迎委員会が結成され、4月24日に早稲田大学の大隈講堂で歓迎会が行われた。また三木は、アストリア号による齊藤大使の遺骨帰還の模様から歓迎会の様子をニュース映画にするため尽力した。南旺映画に委嘱制作されたニュース映画は、日本語版ばかりでなく英語版も作成され、6月12日には日本在住のアメリカ人を招き帝国ホテルにて試写会と晩餐会を行い、更にアストリア号のターナー艦長と、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに英語版のニュース映画を贈呈することになった。このように三木は日米友好のために様々な活動を行っていた。1939年(昭和14年)11月27日、三木を含む第二控室に所属する国会議員8名は、国民同盟の清瀬一郎、東方会の杉浦武雄、日本革新党の江藤源九郎ら、更には院内団体の第一議員倶楽部の一部所属議員とともに、新たな院内団体である時局同志会を結成した。時局同志会には他に安達謙蔵、赤松克麿、朴春琴、木村武雄らが参加した。時局同志会は「聖戦貫徹の熱情を均しくする」ことを標榜する親軍的な会派であり、結成直後には陸軍の動きを背景に当時の阿部内閣の倒閣運動を進めた。阿部内閣総辞職後、米内内閣が成立するが、時局同志会は政友会、民政党という既成政党の国会議員を入閣させた米内内閣に批判的であった。1940年(昭和15年)2月2日、民政党の斎藤隆夫が衆議院本会議で反軍演説を行った。時局同志会は斎藤の演説を聖戦の目的を冒涜するものと強く反発し、斎藤の衆議院除名に積極的であった。3月7日には秘密会とされた衆議院本会議で採決が行われ、斎藤は衆議院議員を除名となったが、採決の際、反対7、登院棄権121、欠席23が出た。除名に積極的であった時局同志会の中でも安達謙蔵ら5名は棄権したが、三木は賛成票を投じたと見られている。斎藤隆夫が除名された第75帝国議会で、三木は衆議院予算委員会の席で西日本の旱魃対策についての質問を行い、建議委員会では徳島県内の鉄道建設についての建議、そして請願委員会では徳島県板野郡内の郵便局設置についての請願を行うなど、地元徳島県内の陳情を積極的に処理していた。1940年(昭和15年)3月26日、近衛文麿による新党結成の動きに対する意見対立により時局同志会は解散し、三木は同僚議員7名と共に七日会を結成した。この年の春頃からは新体制運動の動きが活発化し、6月24日には近衛文麿は枢密院議長を辞職し、新体制運動に乗り出すことを声明した。近衛は7月22日に第2次近衛内閣を組閣し、その前後には各政党とも解散となり、8月には七日会も解散となった。三木は七日会までは小規模な院内団体に所属し続け、特定の政党に所属することはなかったが、これは戦後、政党の集散離合に関与し、自由民主党所属後も小派閥を率いることになる三木の姿と重なるものがある。三木は新体制運動にどのように関わっていたのか、十分な資料は残されていないが、9月12日には、三木の他小泉純也、羽田武嗣郎、西川貞一の計4名が発起人となり、10名あまりの若手国会議員とともに新体制運動についての意見交換会を開くなど、新体制運動に向けて他の若手議員と連携した活動を行っていた記録が残っている。10月12日には大政翼賛会が結成されたが、肝心の大政翼賛会は政事結社ではなく公事結社とされ、議員たちは大政翼賛会の議会局に所属することになった。政事結社ではない大政翼賛会内では政治活動が禁止され、大政翼賛会議会局の扱いの軽さに議員たちは不満を募らせ、解散した政党に替わる形として衆議院議員の大多数の435名が参加して院内団体の衆議院倶楽部が12月20日に結成され、三木もこれに参加した。結局1941年(昭和16年)4月には大政翼賛会議会局は廃止、9月2日には衆議院倶楽部も解散となる。同日、衆議院議員324名が参加する翼賛議員同盟が結成され、三木も参加した。一方翼賛体制に批判的な鳩山一郎、安藤正純、芦田均、大野伴睦、片山哲、尾崎行雄らは1941年(昭和16年)11月10日には同交会を結成し、その他西尾末広、松本治一郎らが参加した興亜議員連盟などが結成された。この頃には議会での審議も形骸化が進み、三木は議会での発言機会にも恵まれないようになった。三木は1939年(昭和14年)3月、第74帝国議会で行われた映画国策化についての法制化審議の場で、政友会の岩瀬亮に次いで多くの質問を行った。岩瀬はかねてから映画に興味を示していて、1933年(昭和8年)には衆議院に映画国策樹立に関する建議案を提出するなどの活動を行っており、1939年(昭和14年)には、先述のアストリア号による齊藤駐米大使の遺骨帰還の模様から歓迎会の様子についてのニュース映画制作を委嘱された、南旺映画を立ち上げることになる。三木は岩瀬と親しく、映画政策についても岩瀬から情報を入手していたと考えられている。三木は映画国策化についての法制化審議の席で、映画国策化を推し進めるのならば、都会ばかりではなく農村でも映画を楽しめるようにすべきであるとし、更に映画の質的向上、そして費用の支弁を図るようにすべきとの質問を行った。三木を岩瀬と引き合わせたのは結城豊太郎であったとされる。結城は森矗昶を総帥とする新興の森コンツェルンと関係があり、岩瀬は森矗昶の実弟であった。三木は結城、そして岩瀬との繋がりでしばしば森家に出入りしていたが、そのような中で1940年(昭和15年)6月初め頃に森矗昶の次女である睦子との結婚話が持ち上がり、6月26日には正式に結婚する。新進代議士三木とと森コンツェルン総帥令嬢との結婚は政財界の注目を集め、結婚式は当時日本銀行総裁を務めていた結城が仲人となり、東京會舘で政財界の要人らを招いて盛大に行われた。なお800名参加したという結婚式参列者のほとんどが新婦側の客で、新郎である武夫側の客はわずか3名に過ぎず、三木の両親も出席しなかった。森コンツェルンは新興財閥の一つであり、満州事変以後の軍需産業発展に伴い急成長を見せていた。新興財閥のため、資本金が必ずしも十分ではなく、人材も乏しいという欠点も見られたが、1937年(昭和12年)6月には電力、ガス、アルミニウムなどの金属工業、アンモニウム合成などの化学工業など重化学工業中心の直系27社を擁していた。しかし三木の結婚前の1939年(昭和14年)には、森コンツェルンの主力企業である日本電工と昭和肥料が合併して昭和電工が設立され、森家の主導権からは離れることになった。その上、傘下企業の昭和鉱業も帝国鉱業開発に譲られ、東信電気も電力統制の結果なくなってしまい、更に総帥の森矗昶も1941年(昭和16年)3月1日に死去するなど、三木の結婚直前あたりから森コンツェルンは下り坂を迎えていた。1940年(昭和15年)頃から、森コンツェルンは大江山ニッケル、日本火工の二社を主力企業とするようになり、矗昶没後は、大江山ニッケル、日本火工の後身企業に当たる日本冶金工業が中核となり、鉱山業と製錬を中心とした小財閥となっていった。三木は結婚した1940年(昭和15年)6月、大江山ニッケルの取締役に就任し、1943年11月には日本冶金工業の取締役となっている。また三木は1942年(昭和17年)6月から1943年(昭和18年)11月まで、衆議院調査会の商工省部の委員となり、1943年(昭和18年)11月から1944年(昭和19年)6月まではこれまでの商工省から電力、重化学工業、鉱業が移管された軍需省の委員、更に翌1945年(昭和20年)には軍需省参与官となっている。三木が戦時中、衆議院の商工、軍需省の委員を務めていたことは、森コンツェルンとの関係が深いことによるものと推察され、更に森コンツェルンにとっても三木が重要な存在であったものと想定される。1940年(昭和15年)7月22日に成立した第2次近衛内閣は、1941年(昭和16年)1月の閣議決定で衆議院議員定数を400に削減し、原則一府県一区の大選挙区制、選挙権を男子戸主のみとし、自由立候補制に替わり推薦立候補制とする内容の選挙法改正案を閣議決定した。しかしこの選挙法改正を実現するには、これまでの男子普通選挙に替わる戸主のみの選挙人名簿を新たに作成する事務が生じるが、これを選挙予定期日までに間に合わせることが困難であり、また第76帝国議会で政府の施政方針演説への質問を取りやめるなど、議会側が政府に協力する姿勢を見せたため、結局選挙法改正案の議会提出は見送られ、国際情勢などから任期満了総選挙を一年延長する、議員任期延長法案が可決された。1941年(昭和16年)12月8日、日本は第二次世界大戦に参戦する。大戦参戦直後の12月9日には、任期一年延長措置が行われていた衆議院議員の任期切れとなる1942年(昭和17年)4月に、内務省が行政措置として候補者推薦を行った上で予定通り衆議院選挙を断行するとの報道がなされた。東條内閣は総選挙実施についての検討を進め、1942年2月18日、「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定した。来る総選挙は大東亜戦争の完遂のため、翼賛議会を確立して政治体制を強化させ、国民の政治的意欲を昂揚を図り、更に対外的には日本国内の政治的な一体性を示すものとされた。要綱では建前上候補者推薦については政府の行政措置に拠ることなく国民が自主的に行うものとし、政府、翼賛会などの役割はその支援を行うものとされたが、実際は政府が音頭を取って2月23日、元首相の阿部信行を会長として候補者推薦母体となる政事結社の翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、翼協が候補者推薦を行うという事実上の官製選挙となった。翼協は東京に本部、各道府県に支部を設置した。総選挙での候補者推薦についてはまず道府県ごとの各支部で推薦候補者を決定し、各支部の申請について本部の選考委員会で審査の上で最終決定することになった。候補者推薦については、旧既成政党に所属していた政治家などを一掃し、現職を排除して新人中心とする動きが見られたが、翼賛議員同盟側が激しい巻き返し運動を行った結果、最終的には基本的に現職優位の推薦となった。徳島県では脇町町長、県会議員の大久保義夫が翼協の支部長に就任し、支部長以下16名の翼協支部委員が総選挙での徳島県の翼協推薦者選考を行った。3月30日、翼協徳島県支部は徳島2区については現職の秋田清の他、藍商として著名な三木与吉郎、ベテラン県議の三木熊二の二名の新人を推薦候補として翼協本部に内申した。本部の選考委員会でも徳島県支部の内申通り、秋田清、三木与吉郎、三木熊二の三名を推薦候補とすることが決定され、三名は翼賛政治体制協議会推薦候補として第21回衆議院議員総選挙に立候補することとなった。三木本人は翼協から推薦を受けることを望んでいたが推薦を受けられなかったため、もう一人の徳島2区の現職議員の真鍋勝とともに翼協非推薦での立候補となった。三木がなぜ翼協の推薦を得られなかったのかについては、三木の当選後、翼協徳島県支部長から三木に対し「徳島2区は定員3であるため、推薦は3人が限度であった。翼協徳島県支部委員の賛否によって推薦者を決定したが、不幸にして貴殿は選に漏れた」。との内容の書状を受け取っている。しかし三木は翼賛選挙前の2月に警視庁が現職衆議院議員全員について作成した衆議院議員調査票で当選確実とされ、更に国策にとって望ましい人物であるかどうかについての区分では、「積極的な活動は無いものの、時局に順応し、国策を支持し反政府的な言動が見られない」乙種とされていた。ちなみに徳島二区で翼協推薦となった秋田清は当選確実である上に「時局に即応し率先垂範し国策遂行のため他を指導しており代議士にふさわしい」甲種とされ、三木と同じく非推薦となった真鍋勝は当落不明とされ、更に「時局認識が薄く、旧態を墨守し、常に反国家、反政府的な言動を行うか、思想的に代議士にふさわしくない」丙種とされた。甲種の秋田清の推薦と、丙種である上に所属議員の多くが非推薦となった興亜議員同盟に所属していた真鍋勝の非推薦については了解しやすいが、6割以上が翼協推薦された乙種であり、当選確実とも見なされており、更に所属議員の多くが推薦された翼賛議員同盟に所属していた三木は推薦されても不思議ではなく、なぜ非推薦となったのかははっきりとしない。しかも三木の場合、推薦候補に同姓の三木与吉郎、三木熊二が推薦候補とされた。これは当選確実とされた三木武夫の票の分散を狙ったものとも考えられ、このことから翼協の徳島県支部では三木の当選を望まない動きがあったと推察する説もある。また翼協推薦について、当初の新人優先から現職の巻き返しという動きの中で、最終的に翼賛議員同盟に所属していた100名の現職議員が推薦を得られなかった事実から、現職優位を主張する翼賛議員同盟の巻き返しが三木まで及ばなかった可能性もある。また三木の非推薦は、初当選時に政友会、民政党という既成政党を厳しく批判していたことが影響したとの説もある。翼協には旧政党関係者が多数参加しており、既成政党を厳しく批判して当選した三木のことを快く思っていなかった人たちは少なくなかった。そして衆議院議長、閣僚を経験し、徳島の政界で強い実力を持つ秋田清の働きかけも想定できる。秋田は若く実力を蓄えつつあった三木を非推薦とし、落選させることによって、自らのライバルを潰そうともくろんだのである。三木本人は自らの翼協非推薦について、徳島二区有権者に向けた選挙パンフレットの中でまず欧米遊学、米国留学という経歴から、三木は米欧の思想かぶれであると邪推され、思想的に不純な者であると貶めようとする動きがあったため、更にまだ政治家経験の浅い三木は、翼協徳島県支部の16名の委員のうち4、5名以外のことはよく知らず、中には一回も会ったことが無い方もいたためではないかと推測した。つまり親英米派と見られたことと、政治家としてまだ経験が浅い点が非推薦の原因と見ていた。翼協から非推薦となったことは、政治キャリアがまだ浅い三木にとって強い逆風下で選挙戦を戦わねばならなくなったことを意味した。三木は先述の選挙パンフレットの中で、第21回衆議院議員総選挙は真に国家のことを思い、翼賛議会の建設に熱意を持つか否かを候補者選択の基準とすべき選挙であると主張し、翼協の非推薦だからといってその熱意を持たないと思われるのは心外であるとし、「子が母の愛にすがり訴えるがごとき心情の下」自らの証を立て、疑念を晴らしたいと訴えた。更に第一期の任期中は議会活動に邁進し、愛国の熱情と赤誠を捧げてきたとした。初回選挙時に見られた既成政党と政治腐敗批判は影を潜め、自らの立場の弁明を主としたパンフレットの内容からも三木が翼賛選挙で苦境に追い込まれたことが伺える。また同パンフレットの中で、同僚政治家からの推薦人として清瀬一郎、桜内幸雄、中島知久平、町田忠治、松野鶴平らが名を連ねるとともに、頭山満も三木を人格識見卓越し、とりわけ思想精神上立派な人物であると称え、政治家として得がたい人物であるとして三木への投票を依頼していた。選挙戦に突入すると、非推薦候補である三木に対して選挙事務所に警官の出入りや特高の監視が行われ、運動員には尾行がつき、三木の演説会に参加した有権者は警察から出頭を命じられ、東京から三木の応援に駆けつけた石田博英に対しては道中私服の警官に付き纏われるなどの選挙干渉に見舞われた。また三木の選挙戦について地元紙の徳島毎日新聞はほとんど報じることがなかった。そして対立候補からは三木はアメリカで勉強してきた国賊であると指摘されもした。このような厳しい情勢下、三木は徳島二区の全域で議会報告演説会を開いて有権者と膝づめの対話を繰り返し、山間部では支援者の家に泊り、戦死者家族の弔問を行うなど、約一ヶ月間の選挙戦の間、民衆の心を直に感じ取っていくような地域に密着した選挙戦を徹底的に行った。また前回と同じく吉村正、石田博英、玉川学園創始者の小原国芳らを東京から応援弁士として招き、妻睦子の実家である森家と繋がりがある海軍少将、陸軍大佐なども三木の応援に駆けつけた。厳しい選挙戦の中、三木が頼りとしたのはやはり得意の弁論であった。戦時下の翼賛選挙では、各候補が訴える政策は聖戦完遂、大東亜共栄圏の確立、翼賛議会の確立など、どうしても同じような内容となってしまっていた。そのような中で三木は聖戦完遂など他候補と同様の訴えとともに、選挙区内の問題に対してこれまでいかに熱心に取り組んできたのかを説明し、他の候補との差別化を図った。4月30日の総選挙で、三木は厳しい逆風下の選挙であったのにもかかわらず、地盤である板野郡、隣接する阿波郡を手堅くまとめ、更には秋田清の地盤である三好郡でも票を伸ばし、秋田清、三木与吉郎に次いで三位に滑り込み当選を果たした。これまで徳島2区では秋田清のみが地盤である郡以外でも一定の支持を集めていたが、若年層を中心とする支持を伸ばした三木もまた、地元板野郡以外の支持層を広げることに成功した。一方翼協推薦の三木熊二、現職で非推薦の真鍋勝は落選した。翼賛選挙において翼協非推薦候補の当選率はわずか13.8パーセントに過ぎず、三木は翼協非推薦の苦しい選挙戦を、地域に密着した選挙活動を中心とすることによって勝ち抜き、政治生命の危機を乗り越えた。そして戦後、翼賛選挙非推薦での当選は三木の勲章となっていく。翼賛選挙が終了すると、東條内閣は同交会、興亜議員同盟、そして翼賛議員同盟も解散させ、1942年(昭和17年)5月20日に三木ら翼協非推薦議員も参加した唯一の政治結社、翼賛政治会が結成される。翼賛政治会は翼協会長の阿部信行が総裁となり、刑事訴追中の8名以外、全ての衆議院議員が加入した。三木は翼賛政治会の政務調査会の大蔵委員会幹事となり、また翼賛政治会所属の2、3回当選議員で構成された、翼賛政治会の機構改革や政治力強化運動を活発に行っていた三十日会、そして経済問題について勉強し、翼賛政治会を通じて政府に政策提言することを目的に結成された経済議員連盟に所属し、活動を行った。また、1942年(昭和17年)6月に官民一体の総力戦体制を構築するために、貴族院議員80名、衆議院議員244名、民間人50名が内閣と各省の委員となったが、三木は赤城宗徳、安倍寛らとともに商工省委員となった。1943年(昭和18年)11月からは商工省から改組された軍需省委員を引き続き務め、1944年(昭和19年)6月には各省の委員制は廃止となるが、1945年(昭和20年)5月15日、鈴木貫太郎内閣において軍需参与官に任命された。三木は1943年(昭和18年)2月、第81帝国議会において、大東亜共栄圏で計画交易を管轄する団体である交易営団に関する「交易営団法案」について、衆議院本会議、石油専売法案外二件委員会で質疑を行った。質疑の中で三木は官僚のセクショナリズムを批判した上で、大戦遂行のために日本主導の大東亜共栄圏内の計画交易促進を支持した。そして日本の利益ばかりではなく、大東亜共栄圏では日本以外の国の発展にも配慮し

出典:wikipedia

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