LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

MiG-25 (航空機)

MiG-25 () はソビエト連邦のミグ設計局が国土防空軍向けに開発したマッハ 3 級の航空機。迎撃戦闘機型と偵察機型、敵防空網制圧型および練習機型があった。北大西洋条約機構 (NATO) がつけたNATOコードネームはフォックスバット () である。なお、当時の冷戦構造の下では西側諸国が入手できた旧ソ連の情報は限られていたため、トゥシノ航空ショーで存在が初公表されてからしばらくの間、この機体はMiG-23にあたるのではないかという観測が西側の間に存在していた。当機種がMiG-25であると広く認識されたのは、後述のベレンコ中尉亡命事件以降の事である。また、マッハ3級の戦闘機は、後にも先にも本機だけである。1950年代、アメリカ合衆国では B-58、XB-70、SR-71 などの超音速機が開発されており、ソ連はこうした侵入機に対する迎撃戦闘機の開発の必要に迫られていた。そこで、ミコヤン・グレビッチ(ミグ)設計局にその開発が依頼された。ミグ設計局ではそれまで I-3U、I-7U、I-75、Ye-150といった超音速迎撃戦闘機の開発実績があり、その十分な研究成果を持っていた。また、これらの試験機では「ウラガーン」迎撃システムが試験され、超音速での迎撃システム構築の基礎データを集積していた。一連の試作機はYe-150とYe-152 完成の域に達し、両機は持続時間は限定的ながら、高度 22-23 km の空域において最大 3,000 km/h での飛行を実現した。また、B-58、XB-70、SR-71という恐るべき標的に対し有効な攻撃を加えるため、長距離の捜索レーダーと長射程空対空ミサイルの開発も急がれた。その結果完成されたのが、1961年に姿を現したYe-155 () であった。これはYe-150/152の純粋な発展型であったが、所期の能力を達成するためにその機体構成は大きく変更されていた。まず、空気との断熱圧縮による高速飛行に際しての高熱に曝される部分においてはチタン合金を使用することで耐久性が高められ、機体外板の接合には、本来のリベット止めによる接合から、スポット溶接・アーク溶接・自動溶接機を組合わせての接合となった。また、強度を十分に確保するため、ニッケル鋼が多用されており、機体全体では、ニッケル鋼80%・アルミニウム合金11%・チタン合金9%の材料構成となっている。高速性と高々度性能を持ちつつ安定性と運動性を確保するため、主翼は高翼配置となり、機体後部の垂直尾翼は外開きに2枚の垂直尾翼を取付けた双垂直尾翼となった。この垂直尾翼2枚装備はMiG-25が世界初である。エンジンは強大な推力を発生する大型ターボジェットエンジン R-15-300 が2基搭載されたが、燃費が非常に悪いため機体容量の約70%が燃料タンクに充てられていた。大型の捜索レーダーを搭載するため、空気取入口は機首から機体両脇に移動され、長大な機首には大型のレドームが装備された。ここには、地上から上空の目標まで誘導される自動迎撃装置が搭載された。Ye-155には迎撃戦闘機型のYe-155P () の他、高速偵察機型のYe-155R () と巡航ミサイル母機型の Ye-155N () が開発された。しかし、Ye-155N の実用化は見送られた。Ye-155Pは「航空機ミサイルによる空中目標迎撃システム S-155」の主要構成要素となることが見込まれた。そのため、機体にはシステムに連動する大型の機上捜索レーダー「スメールチ-A」、誘導ミサイルの K-40 (のちにR-40として制式化) 、地上目標航法装置の「ヴォーズドゥフ-1」の機上航法指令送信装置「ラズーリ」が搭載された。飛行試験は1960年代を通じて行われた。1962年から 1963年にかけて 4 機の Ye-155 が製作された。その内二機は迎撃戦闘機型の Ye-155P1 と Ye-155P2 で、残る二機は偵察機型の Ye-155R1 と Ye-155R2 であった。最初に組み立てられ飛行したのは Ye-155R1 で、1964年3月6日に初飛行に成功した。Ye-155P1 はこれに遅れること約半年、1964年9月9日に初飛行した。この飛行試験において、空力的・操縦性・システムなどの問題が多いことが判明したが、性能自体は目標を達成しており、その後も数機の試作機が製作され、改良型のYe-266は多くの速度と高度の世界記録を更新している。1967年からはYe-155Pの最初の量産型機が製作された。1967年にはYe-155P7/8/9の3 機が、翌1968年にはYe-155P10/11の二機が製作された。これらは、S-155システムの国家試験に使用された。ソ連航空産業省の指令により、Ye-155P は1968年にMiG-25P () 、製品84 ()、(NATOコードネームはフォックスバッドA) として制式化された。部隊配備は1970年より開始され、1972年に最初の飛行隊が実働態勢に入っている。一方、偵察機型に関しては1968年に4 機目の試作機となる Ye-155R4 が製作され、これが最初の量産型機となった。Ye-155R2/3/4 の 3 機が国家試験に供され、試験は1969年10月に終了した。量産は1968年から開始されており、航空産業省の指令によりMiG-25R ()、(NATOコードネームはフォックスバッドB) として制式化された。MiG-25の生産は、ゴーリキー(現ニージュニー・ノーヴゴロト)ので実施された。MiG-25Pは、それまでの主力迎撃戦闘機 Su-9 や Su-11 を代替してソ連防空軍の主力機となっていった。一方、MiG-25Rとその派生型偵察機などはソ連空軍での前線任務に入った。また、最高高度到達記録の37.6 km など、高度到達時間トライアルでは米国の SR-71 や F-15 ストリークイーグル、F-4 ファントムのトライアル仕様機と熾烈な争いとなりこれらの機種と共に多くの記録を保持している。MiG-25は最高速度が非常に速く、3,000 km/h (およそマッハ 2.83 相当)での飛行を目標に設計されており、実用化された戦闘機としては最速である。イスラエルのレーダーにマッハ 3.2、中東方面ではマッハ 3.4 の飛行速度が記録されている。超音速ジェット機の最高速度は、エンジンの出力限界ではなく、機体の構造や空気の断熱圧縮による耐熱限界をもとに算出される場合が多い。MiG-25も、構造材のニッケル鋼で耐熱上の安全を確保できるのはマッハ 2.83までだったとされ、マッハ 3 を超える飛行は8 分程度が限界であり、かつ飛行した機体は再度の飛行は不可能、ないし飛行するためには修理が必要であった。1967年7月に行われたモスクワ・ドモジェドヴォ空港での航空ショーにおいて、MiG-25が突如出現し、上空を高速で通過していった。周到に演出されたこのフライパスのみならず、ソ連はこの航空ショーに、MiG-23・Su-15を初めとした試作機や実験機を含む多種の機体を第3世代ジェット戦闘機として出品し、これらに大きな衝撃を受けた西側の航空機専門家はソ連の意図通りにその実体以上の過大な評価を下した。アメリカ空軍首脳も公開された機体に対抗し得る機体を自軍に保有していないと考え、ソ連の爆撃機に加え、戦闘機にも危機感を募らせていった。MiG-25のその最高速度やノズル、空気取入口のサイズからアメリカはターボファンエンジンを搭載した航続距離の長い非常に高性能な機体であると予測した。そのころ、アメリカが使用していた戦闘機は機動性が悪いものが多くMiG-25に対抗できるものはないとして危機感を覚え、機動性に優れた F-15 を開発することとなった。しかしMiG-25の実際の性能は1976年のベレンコ中尉亡命事件によって明らかになる。1976年9月6日、ヴィクトル・ベレンコ中尉が搭乗するMiG-25が演習中に突如急降下し日本に向かって飛行を開始した。これを日本のレーダーが捉え、領空侵犯の恐れがあるとして千歳基地のF-4EJがスクランブルを行った。日本に向かってくるMiG-25を探すが、レーダーサイトのレーダーはMiG-25が低空飛行に移ると探知することはできず、また、F-4EJのAPQ-120レーダーはルックダウン能力、つまり上空から低空目標を探す能力が低く、MiG-25を発見できなかった。結局そのままMiG-25は函館空港に強行着陸した。このことによって日本のレーダー網の脆弱性が判明、日本は空中から低空目標を探せる早期警戒機のE-2C を導入することとなる。ベレンコの出国後に防衛庁の指示で機体は函館空港から百里基地に米軍のC-5ギャラクシーで移送され日米共同による調査が行われた。以上の事から、MiG-25は西側の懸念したような格闘戦用の制空戦闘機ではなく、ソ連の防空システムに完全に組み込まれる、領空防衛を主目的とする典型的な(ロシア・旧ソ連型の)迎撃戦闘機であると考えられた。これにより、西側への侵攻が行われた際にMiG-25が前線に現れ脅威となるような状況は想定されなくなり、調査班は西側諸国の不安が「過大評価」であったとの結論を下した。ただし、この MiG-25の「過大評価」はアメリカ空軍が予算、特に F-15 開発の予算を獲得せんがために、ソ連の脅威を宣伝した結果ともいわれる。アメリカもマッハ 3級の戦闘機・爆撃機を試作していた経験から、高速に特化した機体の運動性がさほど高くは無いであろう事は予測していたともされ、2015年現在においても、マッハ 3近い高速性能と高い運動性を両立した航空機は存在していない。実際にアメリカ空軍は「高速で運動性が高い」MiG-25の脅威を訴えながらも、F-15 に対して運動性と引き換えに速度性能の要求を緩和しており、速度性能と運動性能の両立に矛盾や限界が存在することを承知していた。実際にはアメリカ空軍は、MiG-23やSu-15などを含めた一連のソ連の新型機を脅威視したのであり、MiG-25は「マッハ3の高性能機」という事で、納税者(議会)に対しての「わかりやすい説明」として特にクローズアップされたというのが正解であった。なお、MiG-25の設計年次は、F-15などより実質的に一世代前となっている。真空管の使用は時代遅れだという指摘にしても、MiG-25のプロトタイプが制作された 1960年代は、レーダー回路に使えるような大出力のトランジスタやIC/LSIなどは、そもそもアメリカにおいてすら実用には至っていなかった時代である。ベレンコ中尉は取り調べの後、希望通りアメリカへ亡命。MiG-25の機体はソ連に返還されている。ソ連ではこの事件によって自国の防空システムが西側に露見してしまったのではないかと懸念し、以降 MiG-25 の搭載機材の一新を図ることとなった。特に、搭載レーダーとその関連システムはまったく別系統のものに変更された。機材更新以降のMiG-25 はMiG-25PDと呼ばれたが、搭載機材の急な変更は一挙に行えるものではなく、数年を掛けて複数のタイプの MiG-25PD が製造されることとなった。MiG-25の運用上最大の欠点は時速3,000 kmの飛行に耐えるよう設計された機体のデリケートさと機体やエンジンの整備の煩雑さ、許容しがたい燃料消費量の多さなどであり、こうした運用効率の悪さから冷戦終結後はMiG-25は冷遇されていった。ロシアでは他に代替機のない各種偵察機型と防空制圧型のMiG-25BM 、及び各種試験にも用いられる複座型が運用されているが、それ以外は退役していると思われる。ウクライナやベラルーシでも全機が独立後数年以内に退役したとされる。また、ブルガリア空軍の機体はロシア空軍のMiG-23MLDとの引き換えで返還された。以前は実戦で活発な活動を見せていた中東地域の機体も、シリア内戦を受けて飛行を再開したシリア以外は現在では稼動状態にあるのか疑わしい。アルジェリアは近年まで運用していたが、Su-32で代替される予定である。リビアでも、2007年現在では稼動状態にはないと見られている。長年偵察機型 (MiG-25RB) を運用してきたインドでも、2006年5月をもって退役した。アゼルバイジャンはMiG-25を引き続き運用している模様で2014年にMiG-25の近代化改修を実施している。湾岸戦争ではイラク空軍のMiG-25 がアメリカ海軍の F/A-18 を一機撃墜しており、2006年現在、ベトナム戦争以降で唯一米軍機を実戦で撃墜した機体である。また、これは湾岸戦争における空対空戦闘に於いて、イラク側が唯一挙げた戦果でもある。2003年3月には、イラクで RQ-1 プレデターと交戦し、これを撃墜している。これは武装した無人機と有人機の初の戦闘である。一方、MiG-25 を大幅に改良した長距離迎撃機 MiG-31 も開発され、こちらはロシアでは迎撃戦闘機の主力のひとつとして運用されており、その数は運用されている迎撃戦闘機の約半数であるといわれる。なお、残り半数はSu-27。また、MiG-31はカザフスタンでも使用中である。しかしながら、各種開発されたMiG-31の派生型は、飛躍的な能力向上を見せたMiG-31Mをはじめいずれも量産には結びついていない。冷戦終結後、各基地に貯蔵してあった航空機エンジン等の冷却用のアルコールを関係者らがみな飲んでしまったという話があるが、中でもMiG-25用のアルコールは極めて純度が高く、とりわけ美味だったとされている。特にMiG-25はおよそ 300L ものアルコールを気化熱冷却用に搭載したため、ロシアでは『アルコール運搬機』を意味する (Spirt-Voz) という愛称が用いられた。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。