スモレンスク (, Smolensk) は、ドニエプル川沿いに位置する、ロシア連邦の西方の都市である。モスクワからは西南西へ360km、スモレンスク州の州都。人口は351,100人(2003年推計)、2002年国勢調査では325,137人であった。城郭都市であったスモレンスクはヨーロッパからロシアへの通り道に当たり、歴史上何度も攻撃に晒され破壊された。ロシア・ポーランド戦争、ナポレオンのロシア戦役、独ソ戦などでも戦場と化している。今日のスモレンスクは電子工業、繊維産業、食品産業を主とする工業都市である。歴史的な建物として、生神女大聖堂と16世紀に建てられたクレムリン(城塞)がある。「スモレンスクのイコン」は有名。都市の名前の由来は諸説ある。スモルニヤ川という小川に由来する説があるが、川の名前の由来はよく解っていない。黒土地帯を流れることから、黒土を意味する古いスラブ語が川の名になったと言う見方もある。都市名の由来のもう一つの説は、松脂を意味するロシア語の smola からきているというものもある。この一帯は松の木が多く茂っており、かつては松や樹脂に関する産業が盛んだった。街にはドニエプル川が流れる。周囲は東ヨーロッパ平原の中ほどに東西に伸びるスモレンスク高地となっており、その東方はモスクワ高地へと繋がり、南は中央ロシア高地に続いている。スモレンスクはロシア最古の町のひとつである。文献で最初にスモレンスクが言及されるのは863年のことで、リューリクがラドガに政権を築いた直後のことである。「原初年代記」によれば、スモレンスク(最初はドニエプル川のやや下流、現在のグネズドヴォ遺跡の位置にあったと考えられる)は、オレグがノヴゴロドからキエフへと遠征した882年にはクリーヴィチ族の首邑であり、このときにオレグらに征服されキエフ・ルーシに組み込まれた。その20年前、リューリクの部下で南方へ使わされたアスコルドとジールがドニエプルを下った際にも人口が多く町も大きなスモレンスクの横を通っており、これを襲っている。この町について最初に書物に記した外国人は東ローマ皇帝コンスタンティノス7世である。その著書『帝国統治論』("De Administrando Imperio
出典:wikipedia
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