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ルノー FT-17 軽戦車

ルノー FT-17 軽戦車(ルノー FT-17 けいせんしゃ、ルノー FT モデル 1917年式)は、フランスのルノー ()で開発された軽戦車である。FTは、フランス語で「軽量」を表す「」の略であるとされることも多いが、実際にはそれ自体に意味はない、ルノー社内の識別記号であったらしい。ちなみにフランス語で軽戦車はChar legerと書く。近代戦車は第一次世界大戦中に初めて登場したが、その中で、FT-17の設計は各国の戦車に比べ最も革新的で、以降の戦車の基本形となった。FT-17は、フランス戦車部隊の父と呼ばれるジャン=バティスト・エティエンヌ将軍の構想から生まれた。本来は、鈍重なシュナイダーCA1やサン・シャモン突撃戦車を指揮・支援することが開発目的であったが、実際には歩兵支援・直協戦車として使われた。設計生産を担当したルノー社は第一次世界大戦直前の1914年にはフランス国内で20%という第一のシェアを持つ自動車メーカーであり、すでにタクシー製造などで大量受注の経験があった。FT-17自体の設計にもルノー社の創業者であったルイ・ルノーが大きく注力したとも言われており、これらのことが革新的かつ安価で大量生産が可能な戦車を生み出した。それまでの車台に箱型の戦闘室を乗せる形ではなく、直角に組み合わせた装甲板で車体を構成するセミ・モノコック構造であった。横材となる間仕切りで戦闘室とエンジン室を分離し、これによってエンジンの騒音と熱気から乗員を解放した。結果として、前方に操縦席、中間に砲塔と戦闘室、後方に隔壁で仕切られたエンジン室という、現代戦車に通じる基本的なレイアウトを確立した。小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪(本車は木製の起動輪が車体後方にある、後輪駆動方式である)、ボギー形式のサスペンションを備えることによって優れた機動性を備えており、良好な視界を得るために設けた全周旋回砲塔は単一の装砲での360度の射界を確保した。戦車が全方位に回転できる砲塔を備えることは今日では当たり前になっているが、これはFT-17で初めて採用されたものであった。プロトタイプは1917年2月に製作され、同年3月には150輌の発注が行われた。製造は数社で行われ、以降3,800輌以上が生産された。試作車と極初期型は一体鋳造された円錐台形の砲塔をもっていたが、量産型初期にはベルリエ(Berliet)社が製作したリベット接合の八角形の砲塔(ベルリエ砲塔)が搭載された。主量産型では、試作型とは異なる形状の丸い鋳造砲塔(ジロ(Girod)砲塔と呼ばれる)になった。この丸砲塔搭載型は、FT-18とも呼ばれることがある。ルノーFTの旋回砲塔は、砲塔内側に設置された取っ手を握って人力旋回させるという操作法を採用している。FT-17は、第一次世界大戦中の1918年5月31日のレッツの森での戦闘を初陣に、戦場で広く使われるようになった。大戦後、多くの国に輸出され、各国で最初の戦車として、機甲部隊を構成することになった。その後の紛争、ロシア革命、ロシア内戦、ポーランド・ソビエト戦争、第三次アフガン戦争、国共内戦、満州事変、スペイン内戦などでも使用された。第二次世界大戦でも、ポーランド侵攻時のポーランド軍や、フランス侵攻時のフランス軍、ユーゴスラビア侵攻時のユーゴスラビア王国軍などで使われていた。フランス軍では2,000輌近くが警備部隊などに配備されていたが、その時にはすでに旧式化していた。フランスでドイツ軍に捕獲されたもののうち一部は後方部隊に配備されたり、装甲列車に連結された無蓋車に搭載され対独パルチザン対策にあたった。また一部は砲塔を外され砲牽引用の砲兵トラクターとなった。不要になった砲塔は要塞などの資材に転用され、トーチカとして据え付けられた。1944年のパリ解放直前までパリ駐屯ドイツ軍によって市内警備任務に使用されていた。第一次世界大戦後、各国に輸出されたルノー FT-17 軽戦車だが、日本でも1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて、大日本帝国陸軍がマーク A ホイペット中戦車数輌(3輌説あり)とともに、ルノー FT-17 軽戦車を(10輌もしくは13輌もしくは15輌説あり、つまり2個戦車隊分+α)輸入した。輸入した内には弾痕が残る中古の車輌も含まれていたという。おそらくこの内の数輌が陸軍騎兵学校にも分けられたと考えられ、そして1920年(大正9年)から陸軍騎兵学校でもルノー FT-17 軽戦車の運用研究を開始し、それを参考に、後に九二式重装甲車が開発された。これらの輸入戦車を用い、日本初の戦車隊として、1925年(大正14年)5月1日に、福岡久留米に「第1戦車隊」が、千葉の陸軍歩兵学校に「歩兵学校戦車隊」が、同時に創設された。さらに大量の中古のルノーFT-17 軽戦車の輸入計画も存在したが、陸軍技術本部による戦車国産化計画が認可されたため中止された。同年の戦車隊への配備時に、ルノー FT-17 軽戦車の武装を6.5mm改造三年式機関銃に換装して(一部の車輌は37mmの改造狙撃砲や改造十一年式平射歩兵砲を搭載した)、1931年(昭和6年)の満州事変の頃まで運用し続けた。1930年(昭和5年)には、生産が進まない八九式軽戦車の間に合わせに、ルノー FT-17 軽戦車の後継である、ルノー NC27 軽戦車が10輌(12輌説あり、つまり1個中隊分+α)輸入された。ルノー NC27 軽戦車の輸入後は、運用側では、先に輸入していたルノー FT-17 軽戦車との区別のために、ルノー FT-17 軽戦車を「ルノー甲型戦車」、ルノー NC27 軽戦車を「ルノー乙型戦車」と呼称した。なお、海外の記述では、日本が運用したFT-17のことを、「Type 79 Ko-Gata」(七九式甲型)と非公式名称で呼称していることがある。七九式は輸入年である1919年(皇紀2579年)に由来する。満州事変では、百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17 軽戦車がルノー NC27 軽戦車とともに、配属された。ルノー FT-17 軽戦車は実用速度は4km/h程度で非常に遅かったが、歩兵支援/直協戦車としては問題なく、日本軍の歩兵には心強い味方として頼りにされ好評だった。輸入分以外にも、満州事変で奉天軍閥からも2輌以上鹵獲した。約41輌のFTが各国の博物館に現存している。ヨーロッパ:北アメリカ:南アメリカ:オーストラリア:

出典:wikipedia

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