フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。生前は『変身』など数冊の著書がごく限られた範囲で知られるのみだったが、死後中絶された長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が友人マックス・ブロートによって発表されて再発見・再評価をうけ、特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている。この節では主に生活史について記述する。作品の変遷などについては#作風・執筆歴他を参照。フランツ・カフカは、1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにおいて、高級小間物商を営むヘルマン・カフカ(1852年 - 1931年)とその妻ユーリエ(1856年 – 1934年)との間に生まれた。両親は、ともにユダヤ人である。父ヘルマン・カフカは、南ボヘミアの寒村ヴォセクの畜殺業者ヤーコプ・カフカの息子であった。チェコ語を母語とし、ユダヤ人向けの初等学校でドイツ語を習得したが、後年になってもドイツ語を完全に操ることはできなかった。彼は、ユダヤ社会で成人の1年後にあたる14歳の時に独り立ちし、田舎の行商をしていたが、20歳の時にオーストリア軍に徴兵され、2年間の兵役を勤めた後、都市プラハに移った。1882年、裕福な醸造業者の娘ユーリエ・レーヴィと結婚し、彼女の財産を元手にして小間物商を始めた。父ヘルマンがチェコ語を母語としていたのに対し、母方のレーヴィ家はドイツ風の慣習に馴染み、ドイツ語を話す同化ユダヤ人であった。レーヴィ家は、ユダヤ社会の名門であり、祖先には学識の高いラビやタルムード学者のほか変人、奇人も多く存在する。カフカは、自分の資質について、父方よりも母方の血に多くを負っていると感じており、日記やメモではもっぱらこの母方の祖先について言及した。母ユーリエ・レーヴィには3人の兄と2人の義弟がおり、長兄アルフレートはスペイン鉄道の支配人となりカフカの最初の就職の手助けをしている(カフカ家では「マドリードの叔父」と呼ばれていた)。上の義弟ジークフリートは、学識と機知に富む変わり者であり、メーレンの田舎町トリーシュで医者をして生活していた。カフカは、この叔父を気に入り、晩年までしばしば叔父のもとを訪れ滞在している。母方の5人の叔父のうち、この2人を含む3人が独身であった。フランツ・カフカは長男であり、彼が生まれた2年後に次男ゲオルクが、さらに2年後に三男ハインリヒが生まれたが、いずれも幼くして死去している。両親には続いてガブリエル、ヴァリー、オティリーの3人の娘が生まれた。幼いころは妹3人で固まってしまい、また両親はいつも仕事場にいたためカフカは孤独な幼少期を送ったが、晩年に病にかかってからは三女のオティリー(愛称オットラ)と親しくした。カフカ家には他に料理女や乳母が出入りしており、カフカは主に乳母を通じてチェコ語を覚えた。1889年9月、カフカは6歳でフライシュマルクトの小学校に入学した。父ヘルマンは息子を学校に行かせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級の言葉であるドイツ語の学校を選んだ。この学校の生徒は主にユダヤ人で、カフカの担任教師は1、3、4年がユダヤ人、2年がチェコ人、校長はユダヤ人だった。カフカの送り迎えは料理女が担当したが、彼女は意地が悪く、幼いフランツに「家での悪さ」を学校の先生に言いつけると毎日のように脅かしていたという。カフカは4年間の修学期間を優等生として過ごし、またこの学校で終生の友人となるフーゴ・ベルクマンと出会った。1893年春、入学試験を受けてプラハ旧市ギムナジウムに入学。商業を学ぶための実家学校ではなく、大学入学資格を得ることができるギムナジウムに進んだ。授業は3分の1をラテン語と古代ギリシア語の授業が占めており、カフカはここでホメロスなどの古典作品を習い覚えた。入学後3年間は優等生であったが次第に成績が落ち、1901年に受けた卒業試験(アビトゥーア)ではかろうじて「可」の成績で合格している。苦手な教科は数学であり、一方選択科目ではフランス語や英語を捨てて体育を取り、実技でボートを漕いでいた。上級生になってからは父にせがんで自前のボートを買ってもらうなどしている。同級生にはベルクマンのほか、後に著名な美術史家となるオスカー・ポラックがおり、彼らとは大学まで一緒に進んだが、ポラックとは大学時代の後半から疎遠になっていった。ギムナジウム時代のカフカはスピノザ、ダーウィン、ヘッケル、ニーチェなどの著作に関心を抱き、また実証主義、社会主義に興味を持っていた(もっともこれは当時の一般的の傾向でもあった)。すでにギムナジウムの初学年の頃には将来作家になる夢を抱いており、そのことをベルクマンに語っている。ドイツ文学ではこの頃ゲーテ、クライスト、グリルパルツァー、シュティフターなどを読み影響を受けており、卒業の際にはドイツ語・演説演習として「ゲーテの『タッソー』の結末をどう解釈すべきか」というテーマを選んでいる。このときゲーテをテーマに選んだのはカフカ一人で、ゲーテに対しては批判的な意識を持ちつつも、大学を卒業して後も強い関心を抱いていた。1901年7月、ギムナジウムを卒業したカフカは北海へ卒業旅行へ行き、叔父ジークフリートとともにノルデルナイ島に数週間滞在した。この年の秋、プラハ大学に入学。当初は哲学専攻を希望していたが、父ヘルマンから「失業者志望」と冷笑され、ベルクマン、ポラックとともに化学を専攻した。しかし実験中心の授業はカフカの性に合わず、父の希望でもあった法学専攻へと早々に切り替えている。ベルクマン、ポラックも間もなく哲学、美術史へとそれぞれ専攻を変えていった。もっとも法学の無味乾燥な講義もカフカの気に入らず、1902年の夏学期には美術史とドイツ文学の講義を受けた。さらにドイツ文学を研究するためミュンヘン大学への移籍も計画していたが、結局実現には至らず法学の勉強に戻っている。学期中はしばしばドイツ語、チェコ語の演劇を見に出かけた。また学期が始まってすぐに学生組織「プラハ・ドイツ学生の読書・談話ホール」(以下「談話ホール」)に入会しており、この組織の主催する朗読会、講演会にもよく参加した。「談話ホール」は450人の会員ほぼすべてがユダヤ人で、このとき学生委員会の委員長をカフカの又従兄弟にあたるブルーノ・カフカが務めていたが、カフカは彼との交流の跡は残していない。1902年10月、「談話ホール」を通じて、のちにカフカの文学活動に対し大きな役割を担うことになるマックス・ブロートと知り合う。ブロートはカフカより1歳年下であったが、当時すでに新進作家として名を成していた。ブロートは談話ホールの主催で「ショーペンハウアー哲学の運命と未来」と題する講演を行い、この際にニーチェを詐欺師と呼んだことに対しカフカが反駁したことが最初の出会いであった。またこの時期ポラックを介してフランツ・ブレンターノの哲学を信奉するサークルに加わった。サークルにはベルクマンやブロートも加わっていたが、カフカはその会合にはそれほど熱心ではなかった。1904年秋にはブロートから盲目の作家オスカー・バウム、哲学生フェーリクス・ヴェルチュを紹介され、週末に4人で集まって自作の原稿を読み合うようになった。このころカフカはフローベール、トーマス・マン、ホーフマンスタールなどに愛着を抱くようになっており、特にフローベールはその後長い間カフカの愛読する作家となった。学期間の休暇には前述の叔父ジークフリートのもとを訪れ、田舎の生活を楽しんだ。ジークフリートは当時オーストリア=ハンガリー帝国内で5000台程度しか登録されていなかったオートバイを所有しており、大学生のカフカもしばしばこれを乗り回していた。大学時代の後半からは試験の疲れを癒すため、各地のサナトリウムに滞在するようになった。1906年6月、大学終了試験に合格。カフカは、試験勉強に苦労し、ブロートに助けられて5人の試験官のうち3人から「可」をもらい、かろうじて試験を通っている。卒業に先立ち、カフカは、4月から弁護士リヒャルト・レーヴィの元で無給見習いを始めており、10月からはプラハ地方裁判所にて1年間の司法研修を受けた。また、この年の夏、長期休暇を利用して、長編にするつもりだった作品『田舎の婚礼準備』の執筆に着手している。すでに1904年から「ある戦いの記録」の執筆も試みていたが、これらはいずれも未完のまま放棄された。司法研修を終えたカフカは、母方の叔父アルフレートに推薦を頼み、1907年10月にイタリアの保険会社「アシクラツィオーニ・ジェネラリ(一般保険会社)」のプラハ支店に入社した。しかし、この伸び盛りの総合保険会社では、毎日10時間の勤務に加え、時間外労働と日曜出勤も加わるなどの過酷な労働を強いられた。そのため、カフカは、入社数ヶ月で別の職場を探し始めている。1908年8月、有力者であったマックス・ブロートの父親に推薦を頼み、プラハ市内にある半官半民の「労働者傷害保険協会」に職場を移した。この職場では勤務時間が8時から14時までで昼食を取らずに働くという、当時のハプスブルク家の官僚体制で「単一勤務」と呼ばれていたシステムを取っていた。そのため、カフカは、残った午後の時間を小説の執筆に当てることができた。入社に先立って、カフカは、プラハ商業専門学校で労働者保険講座を受けている。この時の講師の一部は、労働者傷害保険協会の幹部であり、入社後にカフカの上司となった。この頃、事故による保険金支払いを抑制するために、現在、工事現場などで使われている安全ヘルメットを発明した。就職の前後の1908年3月、マックス・ブロートの仲介により、フランツ・ブライの編集する文芸誌『ヒュペーリオン』創刊号にカフカの作品が掲載された。この時発表したのは『観察』と題する小品8編である。ちなみに、カフカの文学作品が活字になったのは、これが初めてである。また、翌年の第8号にも『ある戦いの記録』から抜粋した2編の作品を載せている。この雑誌の寄稿者には他にカロッサ、デーメル、ホーフマンスタール、ムジール、リルケなどがいた。この年、11月にブロートが友人を亡くしたことをきっかけに彼との仲が深まり、1908年から1912年にかけてはブロートと連れ立って北イタリア、パリ、ヴァイマルなどへ頻繁に旅行を行っている。1909年にマックス・ブロートと彼の弟オットー・ブロートと3人で北イタリアへ旅行へ行った際には、その途上でブレシアの町の飛行機ショーを見物した。カフカはこの体験をもとにルポルタージュ「ブレシアの飛行機」を執筆し、日刊紙『ボヘミア』9月26日朝刊に掲載している。これは飛行機についてドイツ語で書かれた最も早い文章の一つである。1911年11月、カフカはガリツィアからやってきていたイディッシュ語劇団に興味を持ち、カフェで行われていたこの劇団の公演に毎日のように足を運んだ。劇団のリーダーである青年イツハク・レーヴィとも親しくなり、彼を家に招いたり、また公演のために友人、知人に働きかけて便宜を図るなど公私にわたる深い関わりを持った。この交流は翌年の春、劇団がドイツへ旅立つまで続き、カフカがユダヤの民族性への意識に目覚めるきっかけとなった(#ユダヤ性についても参照)。1912年8月12日、カフカは初めて出版される作品集『観察』の作品配列について相談するためにブロートの家を訪れ、ここで自動筆記機械の宣伝・販売の仕事をしていた4歳年下のユダヤ人女性フェリーツェ・バウアーと出会った(彼女の従兄弟とブロートの姉とが婚姻関係にあった)。カフカはこの女性に非常に強い印象を受け、最初の出会いから1ヶ月経った9月末に突然手紙を送り、10月末から両者の間で活発な文通が始まった。またカフカは最初の手紙を送った2日後の9月22日夜から翌日にかけて短編「判決」を一気に書き上げており、この作品には翌年6月の出版の際に「フェリーツェ・Bに」との献辞が付けられている。1913年にはイースター休暇の際に初めてベルリンに住む彼女の元を訪れ、11月と聖霊降臨祭の時にもフェリーツェを訪問した。またフェリーツェへの手紙では、11月から12月にかけて執筆した『変身』や、その前後に着手していた『失踪者』の進捗状況を逐一知らせている。しかしフェリーツェの家族に会うなどして結婚が現実味を帯びてくるとカフカは交際に躊躇するようになり、しだいにフェリーツェとの間に溝ができるようになった。こじれかけた仲を取り持つため、フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホが仲介に入ると、カフカはフェリーツェよりも彼女に向けて多数の手紙を書くようになった。1914年6月、フェリーツェと正式に婚約が交わされ、双方の親とともに新居の準備が進められた。しかし結婚によって執筆が妨げられるという不安が消えず、7月12日、ホテル「アスカニッシャー・ホーフ」にてフェリーツェ、グレーテと会談し、婚約を解消する。なおこの後もグレーテと頻繁な文通があり、一時親密な関係にあったと推測されている。婚約破棄の直後、カフカはバルト海の保養地へ友人エルンスト・ヴァイス。とともに旅行に出かけている。このときカフカはヴァイスに励まされ、はじめて勤めを辞めて小説で身を立てることを考えた。両親にもその決意を手紙で知らせているが、この計画は間もなく勃発した第一次世界大戦により阻害された。カフカは傷害保険協会からの申請によって徴兵を免れており、また当時の日記には執筆中の『審判』に関する記述がほとんどで、カフカの戦争への言及は少ない。1915年1月末、経緯は定かではないが、カフカはボーデンバッハの町でフェリーツェと再会し、再び彼女と交際するようになった。翌年7月にはマリーエンバートの保養地で10日間を2人で過ごし、11月にカフカがミュンヘンの書店で「流刑地にて」の朗読を行った際にはフェリーツェも朗読会に訪れている。1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約を交わす。しかし勤務と長時間の執筆による無理がたたり、8月に喀血。9月に肺結核と診断され、12月末、病気を理由に再び婚約を解消する。結核を発症したカフカは1917年9月に長期休暇を取り、療養のため、妹のオットラが農地を借りていた小村チェーラウに移りここに8ヶ月間滞在した。チェーラウではチェコ語やフランス語の本を多く読み、キルケゴールの自伝的著作に親しんだ。またヘブライ語の勉強もこの時期に始めている。10月末からはノートに一連のアフォリズム風の短文を書き始めており、これはカフカの死後、ブロートによって『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』の題で刊行された。日中は散歩や日光浴を楽しみ、ここでの田舎生活は後に書かれる『城』に反映されることになった。妹オットラとともに過ごしたチェーラウでの8ヶ月間を、カフカは後に「自分の人生で最もやすらぎに満ちていた時」と述べている。1918年4月末、カフカはプラハに戻り職場に復帰するが、これ以降は長期療養と職場復帰とを何度も繰り返すことになる。この年11月にはスペイン風邪にかかり、治りかけていた肺に大きな打撃を与えることになった。この時は医師の勧めに従ってシュレーゼンの保養地に出かけ、翌年4月まで滞在した。カフカはここで、同じく肺を病んで療養中だった4歳年下のユダヤ人女性ユーリエ・ヴォリツェクと出会い交際を始めている。4月には彼女と婚約するが、しかし貧しい家柄を嫌った父ヘルマンから猛反対を受けた。カフカは父との関係改善を図り、11月から12月半ばまで再びシュレーゼンに滞在した時に長文の「父への手紙」を書いている。しかしこれは受け取った母親の判断で父の手には渡らなかった(#父との葛藤参照)。ユーリエとの結婚のめどが立たないまま、カフカは1920年からチェコ人のジャーナリスト・翻訳家でユダヤ人の夫を持つミレナ・イェセンスカと親しくなった。彼女がカフカの「火夫」をチェコ語に翻訳したいと申し出たのがきっかけで(これはカフカ作品の最初の翻訳であった)、文通を通じて親しい交際が始まり、7月にはユーリエとの婚約を解消した。しかしミレナは夫と別れる決心が付かず、彼女との仲も次第に冷えていった。1922年7月、勤務が不可能になり労働者傷害保険協会を退職、年金生活者となった。1923年7月、妹のエリ一家とともにバルト沿岸のミューリツに滞在、ここで最後の恋人となるドーラ・ディアマントと出会う。ドーラはポーランドのハシディズム信者の家庭に生まれた当時21歳の女性で、このときミューリツのユダヤ民族ホームに勤めていた。その後親しい手紙のやり取りがあり、9月末にベルリンで再会、敗戦によるインフレーションで混乱の最中にあったベルリンで共同生活を始めた。しかし生活が困窮する中で病状が急激に悪化し、翌年3月、叔父ジークフリートから説得を受け、ドーラとマックス・ブロートに付き添われながらプラハの実家に戻った。1923年4月、ウィーン大学付属病院に入院、4月末からウィーン郊外のキーアリングにあるサナトリウムに移る。病床のカフカにはドーラとともに、晩年に親しくなった医学生の青年ローベルト・クロップシュトックが付き添い、マックス・ブロートが見舞いに訪れた。咽頭結核にかかっていたカフカは会話を禁じられ、彼らとは筆談で会話を行っている。1924年6月3日、同地で死去。41歳の誕生日の一ヶ月前であった。遺体はプラハに送られ、この地のユダヤ人墓地に埋葬された。生前のカフカについては友人、知人たちによる多くの証言が残っている。それらによればカフカはいたって物静かで目立たない人物であった。人の集まる場ではたいてい聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話し、意見を言い終わるとまた聞き役に戻った。職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかった。掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたという。掃除婦の一人はカフカについて「あのかたは、ほかのどの同僚ともちがっていました。まるきり別の人でした」と話している。晩年は年少者の人の相談や対話の相手をすることも多く、1919年にサナトリウムで出会った少女ミンツェ・アイスナーとは死の年まで文通が続いた。1920年には職場の同僚の息子で作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホと知り合い、後々まで彼の対話の相手となった。ヤノーホは後にこの体験を回想して『カフカとの対話』(1951年)を執筆し、後のカフカ受容に影響を与えることになる。1921年からは16歳年下の医学生ローベルト・クロプシュトックとも親しくなり、作家に憧れて進路に悩んでいた彼の相談相手になった。カフカの晩年のエピソードとして、ドーラ・ディアマントより次のような話が伝えられている。ベルリン時代、カフカとドーラはシュテーグリッツ公園をよく散歩していたが、ある日ここで人形をなくして泣いている少女に出会った。カフカは少女を慰めるために「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだ」と話し、翌日から少女のために毎日、「人形が旅先から送ってきた」手紙を書いた。この人形通信はカフカがプラハに戻らざるを得なくなるまで何週間も続けられ、ベルリンを去る際にもカフカはその少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形なのだと説明することを忘れなかった。カフカは就職した後も長い間両親の家を生活の場としていた。勤めは8時から14時までで、仮眠を挟んで夜の時間を小説の執筆に当てている。食事は健康を考えて菜食主義をとり、両親とともに食事をする際には心配する母親を気遣って少量の肉を口にしたものの、それ以外はパンや野菜、果物を中心とした食事を取っていた。また体操、散歩を日課にし、時にはマックス・ブロートと連れ立ってプラハの町を歩いて回り、この街の路地や建物に知悉していた。趣味としてはスポーツを好み、ギムナジウム時代にはボートを漕ぎ、大学ではテニスをし、勤めを持ってからもたびたび市民プールに水泳に出かけた。晩年には北部のサナトリウムでスキーにも興じている。また当時誕生したばかりの産業であった映画を好んで見に出かけており、日記や手紙に感想を記していた(カフカの初期の作品『田舎の婚礼準備』や『失踪者』の風景描写、語りの構造などにはしばしば映画からの影響も指摘されている)。長期休暇には学生時代から好んで各地のサナトリウムを訪れており、ここで様々な健康法、療養法を見聞きし、しばしばつかの間の恋愛も体験した。晩年にはこれが病気療養を兼ねることになる。1915年には初めて家を借り、結核を発病するまで一人で暮らした(もっとも食事は家族と取っていた)。1916年末には夜間の執筆のため、妹オットラが借りた錬金術通りにある部屋に通い、翌年にかけて「田舎医者」などの一連の作品をここで執筆した。1917年から借りていたシェーンボルン地区の家には暖房がなく、外套を着込み、足に布団を包んで寒さに耐えながらの執筆であった。夜半から夜明けまでかかることもしばしばあり、こうした無理な生活がたたったものとして、カフカは自身の結核を「自ら招き寄せた病」と呼んだ。カフカは1908年から1922年まで、プラハ市内の「労働者傷害保険協会(正式には「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」)」に勤めていた。主な仕事は諸企業の傷害危険度の査定、分類と、また企業側から行われる、分類に対する異議申し立て訴訟の処理であり、カフカは当時チェコで最も工業化が進んでいた北ボヘミアのライヒェンベルクとガブロンツを担当し、しばしば数日がかりの出張や工場視察も行った。後には特に木材部門での事故防止にも従事しており、木工機械の事故防止のための詳細な図解入りのマニュアルがカフカの手によるものとして残っている。カフカは有能な職員であり、特に文書作成能力を買われ、1913年に30人の部下を抱える書記官主任に、1920年には秘書官に、1922年の退職直前には秘書官主任にまで出世した。1914年の大戦勃発の際には保険協会から「業務上不可欠」とされて兵役免除を申請されている。1918年にはオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊しチェコ共和国の時代となったが、チェコ語もできたカフカは解雇を免れた。心配性だったカフカは、工場現場への視察の際に、万一の事を考えて軍用ヘルメットを着用していた。経営学者ピーター・ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』(上田惇生訳、ダイヤモンド社、2002年)ではここから安全ヘルメットが普及したとして、カフカを安全ヘルメットの発明者として紹介している。カフカは自分と性質の違う父親ヘルマンとしばしば衝突を繰り返しており、このことがカフカの人生と文学とに深い影響を与えている。ヘルマンは商才に長けた実利的な人物であり、カフカの繊細な感性やその文学活動に理解を示そうとすることはなかった。1912年には長女エリの婿とともにカフカをアスベスト工場の責任者の任につかせ、執筆の時間を欲しがっていたカフカを苦しめている。家庭では高圧的に振る舞い、貧しい環境で育った自分に対し息子の環境がいかに恵まれているかを言い立てて息子をげんなりさせた。また大柄で頑健な体格は、背が高く痩せ型だったカフカに劣等感を抱かせていた。貧しい生い立ちから成功して富裕になったヘルマンは、「都市ユダヤ人」としてのプライドから「民衆ユダヤ人」に対して差別意識を持っており、このためカフカとイディッシュ語劇団との付き合いに不快感を示し、カフカとユーリエ・ヴォリツェックやドーラ・ディアマントとの付き合いには強固に反対した。ユーリエ・ヴォリツェックとの婚約によって父との仲が険悪になっていた1919年に、カフカは便箋で100枚にも及ぶ長文の「父への手紙」を書いた。この手紙は、なぜ私を恐れるのかという父の問いかけに答えることから始まり、幼いころから父の振る舞いどのように傷つけられたか、そのことで自分の世界がどのように変容していったかを、予想される父からの反論に対する答えを交えながら綴っている。そして父との関係が、これまでの自分の結婚の失敗にも悪影響を及ぼしていることに対し父に理解を求めている。「父への手紙」は実際にヘルマンに渡されるはずであったが、手渡された母と、それを読んだ妹オットラに止められて父には渡らなかった。カフカにはフェリーツェ、ミレナ、ユーリエ、ドーラの4人の恋人の他にも様々な女性体験があったことが、残された日記、手紙などから分かっている。カフカは1917年にミレナ・イェセンスカに宛てた手紙の中で自身の性的初体験について綴っており、それによればカフカが20歳のとき、大学の中間試験のためにローマ法を勉強していた頃に、向かいの洋服店の店員をしていた女性と関係を持ち2度ほど逢瀬を重ねたという。大学最後の年にはシレジアのツックマンテルにあるサナトリウムで、名前の伝わっていない人妻の女性と恋をし、翌年の夏にも同じ場所で再会した。この女性は初期の作品『田舎の婚礼準備』に登場する女性のモデルになったと考えられている。就職の前後にはモラヴィアのサナトリウムでヘートヴィヒ・ヴァイラーという女性と恋をし、就職後の新生活の様子を彼女への手紙のなかで綴っている。この女性については詳しいことは分かっていない。カフカは恋人ができると短期間に多数の手紙を相手に送った。時には日に二度送ることもあり、相手の返事が滞ると催促の手紙を書き、返事を書かない理由を聞いた。2度婚約したフェリーツェ・バウアーへは、1912年から1917年までの間に500通を越える手紙を送っている。フェリーツェはカフカと別れて別の男性と結婚してからもこれらの手紙を保存し、ナチスを逃れてアメリカへ渡った際にも処分しなかった。ミレナ・イェンスカは強制収容所で命を落としたが、1939年ナチスのプラハ侵攻直前にヴィリー・ハースにカフカの手紙を託し、後世に残された。これらの手紙はカフカの死後『フェリーツェへの手紙』(1967年)、『ミレナへの手紙』(1952年、増補版1983年)として公刊されており、前者は原著で700ページ、後者は400ページを越える大部の書籍である。カフカ自身は恋人との関係が終わると受け取った手紙を処分しており、このため恋人からの手紙はほとんど残されていない。カフカが生涯を送ったプラハはチェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の三民族が混在しており、そのうちの大多数はチェコ語を話すチェコ人であった。少数派のユダヤ人はその多くがドイツ語を話したが、1900年時点の統計ではプラハの全人口45万人のうち、ドイツ人およびユダヤ人のドイツ語人口は3万4000人に過ぎない。そしてドイツ文化に同化していたユダヤ人はドイツ人とともにドイツ文化圏の一員と見なされており、チェコ人の側から見れば両者はほとんど区別されなかった。このような中でカフカは自分をドイツの文化にもユダヤの文化にも馴染めない「半ドイツ人」と見なし、よそ者のように感じていた。カフカの学生時代からの友人であるフーゴ・ベルクマン、マックス・ブロートは早くからシオニズムに傾き、彼らとの関係からカフカもプラハのシオニストたちとの付き合いがあったが、しかしその活動自体にはあまり関心をもたなかった。1909年からプラハでシオニズムの講演をおこなっていたマルティン・ブーバーと知り合い、その後もしばしば会っているが、カフカはブーバーの著作はあまり評価していない。カフカが民族性の意識に目覚めるのは、1911年秋に当時プラハで公演していたイディッシュ語劇団と出会ってからである。カフカはこのとき初めて生きたユダヤ性に出会ったと感じ、劇団の主催者イツァーク・レーヴィとの付き合いに熱中し、彼らの活動を擁護するために友人たちに働きかけ、翌1912年2月18日には学生組織の主催で「ジャルゴンについて」と題する講演を行った。彼らとの付き合いに触発され、この時期よりカフカはハインリヒ・グレーツ『ユダヤ人の歴史』や、マイヤー・ピネ『ユダヤ系ドイツ文学の歴史』といった書物を求めて熱心に読むようなり、シオニズムの週刊誌『自衛』を購読しはじめた(1917年から定期購読)。1917年に喀血してからはヘブライ語の学習に身を入れるようになり、1922年にはフーゴ・ベルクマンの斡旋でプーア・ベン=トゥイムというイスラエル出身の女学生がカフカにイスラエル語(現代ヘブライ語)の家庭教師をしている。ベルクマンの誘いもあり、1923年にはパレスチナへの移住も計画していたが、病身のため実現しなかった。カフカは熱心な読書家であり、小説を執筆するにあたって敬愛する多くの作家を手本としていた。その読書遍歴は幼年期の童話に始まり、それから児童文学の古典やコナン・ドイル、ジュール・ベルヌといった冒険小説に続き、その範囲は絶えず広がっていった。17歳の時すでにニーチェを読んでいたが、その反面40歳を過ぎてからも童話やボーイスカウトの雑誌なども好んで読んでいた。同時代の文学もしっかり追いかけていたが、当時の表現主義文学の攻撃的な表現は好まなかった。カフカが好んだのはチェーホフやトーマス・マンの短編小説、ロベルト・ヴァルザーの散文小品に見られるような簡潔で控えめな表現であり、しかしその一方でディッケンズの長編作品なども楽しんで読んだ。カフカはとくにフローベールやドストエフスキー、クライストやグリルパルツァーといった作家が自分の文学的血族であると考えており、彼らの作品だけでなく日記や書簡といったプライベートな書き物まで耽読し、彼らの生涯と自分のそれとを重ね合わせていた。カフカは表面的には一介の保険局員として生涯を送ったが、早くからカフカの才能に注目していたマックス・ブロートに引き入れられてプラハの文壇での付き合いもあった。カフカと面識のあった作家にはフランツ・ヴェルフェル、ヤロスラフ・ハシェクなどがいる。カフカが生涯を送ったプラハではドイツ語話者は少数派であり、彼らは多数派であるチェコ人たちの間に混じって生活していた。このためプラハではドイツ語(プラハ・ドイツ語)は日常言語としてはあまり発展を遂げず、かえって標準ドイツ語の純粋さが保たれていた。カフカが日常使っていたドイツ語にはドイツ語圏南部の特徴やプラハ特有の言い回しも多少見られるが、文学作品で使われているのは明瞭で正確な古典的ドイツ語である。現存するカフカの草稿の中でもっとも古いものは「ある戦いの記録」と題されているもので、大学時代の1904年に着手され、1910年まで断続的に書き続けられたが最終的に放棄された。カフカは生前この作品から一部を抜き出し「祈る人との対話」「酔っ払いとの対話」として文芸誌『ヒュペーリオン』に掲載(1909年)、また最初の作品集『観察』(1912年)にもこの作品から抜き出した短編「樹々」「衣服」「山へハイキング」「街道の子供たち」を収めている。「ある戦いの記録」の内容自体は、パーティから抜け出した語り手とそこで知り合った人物とのやり取りから始まり、語り手の妄想とも現実ともつかない状況や会話が取り留めなく連ねられるというもので、文体などにホーフマンスタールの影響が認められる。これと並んで古い草稿は1907年から1908年頃に成立した「田舎の婚礼準備」と題されているもので、いずれも中断しているA稿、B稿、C稿の三つの草稿からなる。この作品では田舎に住む婚約者に会いにいこうとする青年エドゥアルト・ラバンを視点人物として、プラハの都会をフローベールを範にしたといわれる微細な筆致によって描写している。最初に公表されたカフカの作品『観察』は、当初8編の作品を集めたものとして1908年に『ヒュペーリオン』誌に掲載され、のち9編を加えて1912年に刊行された。収められている作品はいずれも散文詩風の小品である。当時の記者からは印象主義的スケッチという、ペーター・アルテンベルクやロベルト・ヴァルザー、ジュール・ラフォルグらが作り出した流行のジャンルに連なるものと考えられていたらしく、特に表現面ではヴァルザーに通じるところがあった。『ヒューペリオン』の編集者フランツ・ブライは知人に宛てた手紙で「カフカとヴァルザーは同一人物ではない」と念押ししているほどである。カフカの研究者の間ではこの『観察』や「ある戦いの記録」などを若書きの作品として斥ける傾向があったが、現在ではこれら青年時代の作品の特性を明らかにしようという本格的な取組みが行われている。カフカは1912年9月22日から23日にかけて、フェリーツェ・バウアーとの出会いに触発されて「判決」を一晩で書き上げ、この作品で「すべてを語ることができた」と後に述べるほど強い満足を覚えた。この作品では罪、判決、訴訟といった、後期の作品に現れる法的なモチーフや、日常的な情景が後半で一転して非現実的な展開を見せる、「夢の論理」や「夢の形式」とも言われるカフカ特有の作風が初めて顕著に現れている。カフカはこの直後、前年に着手していた長編『失踪者』を初めから書き直しはじめ、さらに10月から11月にかけてカフカの作品の中で最もよく知られている『変身』を書き上げている。「判決」は商人の主人公が父親によってその罪をなじられ溺死の判決を受ける物語、『変身』はある朝目覚めると虫になっていた主人公が、家族の厄介者になり衰弱していく物語、『失踪者』の第一章として書かれた「火夫」は、不祥事によって両親の手でアメリカに行かされる少年の物語であり、カフカはこの3編をまとめて『息子たち』のタイトルで刊行することを考えていたが、出版社の判断によりこれは実現しなかった。カフカの三つの長編小説『失踪者』『審判』『城』はいずれも未完に終わっており生前には発表されていない。このうち最も早い時期に書かれた『失踪者』は「判決」の前後の1911年から1914年頃にかけて書かれた。前述のドイツ人の少年カール・ロスマンが様々な出来事を経験しながら異国の地アメリカを放浪する物語であり、モンタージュ的な語りやカメラアイ風の視点など映画的な特徴が指摘されている。『審判』では、理由の分からないまま起訴された主人公ヨーゼフ・Kが裁判のために奔走し、最後には犬のように処刑される。この作品はカフカがフェリーツェ・バウアーとの婚約を解消した直後、1914年から1915年にかけて執筆された。最も成立時期の遅い『城』は1922年、カフカが結核のため療養していた時期に執筆されている。この作品の主人公はKという匿名的な記号で表される測量士であり、彼はとある田舎の城に招かれて村にやってくるが、しかし城の役人に振り回されるばかりでいつまで経っても城に近づくことができない。これらの長編作品ではいずれも罪と罰、息子の反抗と父の勝利、法に対する違反と追放、死の孤独といった共通するモチーフを持っており、死後カフカの作品を刊行したマックス・ブロートはその内容からこれを「孤独の三部作」と呼んだが、カフカ自身もそれに近いことを日記や手紙に記していた。以上のような作品の主人公たちにはしばしばカフカ自身を思わせる名前が付けられており、生前のカフカ自身も自作に対してそのような分析を行っていた。例えば「田舎の婚礼準備」の主人公ラバン(Raban)はドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせ、チェコ語でコガラスを意味するカフカ(Kafka)に通じ、また両者は母音、子音の並びの規則が同じである。この母音と子音の並びは『変身』の主人公グレゴール・ザムザ(Samsa)や「判決」主人公ゲオルク・ベンデマン(Bende-mann)にも共通する。『審判』のヨーゼフ・K、『城』のKはともにカフカ自身の名と共通する頭文字である。生前に発表されたカフカの作品はほとんどが短編作品であり、名前もわからない町が舞台であったり、(しばしば奇妙な)動物が登場する寓話風のものが多い。生前に発表された短編はその大半が1915年から喀血の前後の1917年にかけて、「錬金術通り」の部屋やシェーンボルン地区の一人部屋で執筆されたものである。カフカは長編を大判の四つ折ノートで執筆する一方で短編にはより小さい八つ折ノートを宛て、短編の他にも多くの書きさし、断片、アフォリズムなどを記していた。カフカはその死の年までに7冊の本を出している。いずれも作品集ないし短編・中編であり、ほとんどがライプツィヒの出版者クルト・ヴォルフによって出版されたものである。ヴォルフは1910年頃、エールンスト・ローヴォルトと共同出資してローヴォルト書店を立ち上げ、新進作家であったマックス・ブロートを通じてカフカを知った。カフカの最初の作品集『観察』はローヴォルト書店から出されているが、その後エールンスト・ローヴォルトが経営から手を引き、クルト・ヴォルフが単独で出版社を引き継いでクルト・ヴォルフ社に名を改めた(ローヴォルトはその後ふたたび「ローヴォルト書店」を立ち上げており、これが現在ドイツで有数の出版社となっている)。その後『火夫』から『田舎医者』までの5冊がこのクルト・ヴォルフ社から、「最後の審判」叢書の一部として刊行された。部数はいずれも800部-1000部程度だった。『火夫』は、フォンターネ賞の影響もあってか比較的売れ行きがよく、1913年の初版の後、16年に第2刷、19年に第3刷が発刊された。『変身』は15年の末に出版された後、翌年夏にはほとんど売り切れ、17年に増刷されることとなり、また1916年に刊行された『判決』も19年に第2刷が刊行された。しかし、続く『流刑地にて』と『田舎医者』はかなりの部数が売れ残った。1920年の『田舎医者』出版の際、カフカとクルト・ヴォルフとの間に考えの行き違いがあり、次の『断食芸人』はベルリンのディ・シュミーデ社に移って刊行された。『断食芸人』の初版は3千部で、やはり大部分が売れ残った。死の年までに出版された著作は以下のものである。作品集の収録内容は#作品リストを参照。カフカはその死に際し、マックス・ブロートに草稿やノート類をすべて焼き捨てるようにとの遺言を残したが、ブロートは自分の信念に従ってこれらを順次世に出していった。まず死の翌年に『審判』(1925年)、続いて『城』(1926年)、『アメリカ』(1927年)と、未完の長編を編集し、ベルリンのショッケン社から刊行した。これらの作品は残された草稿ではタイトルがつけられておらず、いずれもブロートによってタイトルが補われている(ただし『アメリカ』のみは、『失踪者』のタイトルを予定していたことがカフカの日記に記されており、のちの手稿版全集ではこのタイトルを使用している)。1931年には未完の短編をまとめた『万里の長城』が出版され、1935年からはショッケン社より全集を刊行、全6巻を予定していたが4巻で中断し、残りの2巻は1936年から1937年にかけてプラハの小出版社から刊行された。その後ブロートは全集を2度改訂しており、1946年にアメリカに亡命していたショッケン社から改めて全5巻の全集が刊行(第2版)、1950年から1974年にかけて、恋人に宛てた手紙などを大幅に増補した全11巻の全集(第3版)が刊行された。カフカの遺稿は長編も含めて断片的なものも多く、これらはブロートが自身の解釈に従って編集・再構成を行っている。ブロートは当時カフカの遺稿のほとんどを独占し、原本の公開の求めにも応じなかったため研究者から批判の声が上がっていたが、1962年に草稿の大部分がオックスフォード大学のボードレイアン図書館に移されることになり、同大学のドイツ文学研究者マーコム・パスリーが中心となって手稿研究が行われ、その後20年を経て1982年より手稿版全集(「批判版」とも)が刊行された。1997年から刊行された歴史校訂版全集(「史的批判版」とも)は紙本とCD-ROMからなり、紙本では見開きの一方にカフカ直筆の手稿の写真、もう片方にカフカ自身の訂正や抹消も含めたすべての記述を忠実に活字化したものが掲載されている。タイトルの後ろの年は執筆年/初出年。「未発表」となっているものは全集版で初めて公刊されたもの。「」でくくられているものはマックス・ブロートによって付けられたタイトル(ただし例外は脚注で示す)。末尾のアルファベットは各作品集への収録を示す。カフカの生前の名声はささやかなものではあったが、(主に同業者などの)少数の読者に注目されており、決して無名の作家だったわけではない。カフカについての公刊された最も早い評は友人マックス・ブロートによるもので、1907年2月にベルリンの雑誌『現代』にて、著作家・編集者フランツ・ブライと同じ傾向をもつ作家としてハインリヒ・マン、フランク・ヴェーデキント、グスタフ・マイリンクとともにカフカの名を挙げた。このときカフカは知人の前で作品を朗読していたのみで、まだ出版物には1作も発表していなかった。1912年に最初の著作『観察』が出版されたときには、ロベルト・ムジールがベルリンの雑誌『ノイエ・ルントシャウ』(新展望)に好意的な書評を載せた。この雑誌の編集に携わっていたムジールはカフカに原稿の依頼を行ったが、カフカはちょうどよい長さの作品が用意できず断っている。『観察』は6誌以上の文芸誌で好意的な評を受けており、これらは本の売り上げには貢献しなかったものの、批評界から注目されるきっかけをつくった。1913年に『火夫』が出版された際にはただちに反応があり、シオニズム系の雑誌『自衛』や『プラハ日報』、ウィーンの『新自由新聞』に書評が掲載された。1915年には『変身』が出版されたが、この年にフォンターネ賞を受賞したカール・シュテルンハイムは、『観察』『火夫』『変身』などの作品を認めてこの賞金をカフカに譲り、彼と個人的な面識を持っていなかったカフカをひどく驚かせた。1916年11月、カフカはミュンヘンの書店で、未刊行だった「流刑地にて」の朗読会を行った。朗読会自体は不成功に終わったが、この時ライナー・マリア・リルケが朗読を聞きに訪れており、のちにカフカに賛辞を送っている。リルケはカフカに対して持続的な関心を抱いており、1922年にクルト・ヴォルフに宛てた手紙の中では、カフカの書いたものすべてを自分のために書きとめておいくれるよう頼んでいる。リルケの『オルフォイスのソネット』の中の一篇「裁くものたちよ、誇りを持て」は、「流刑地にて」からの影響のもとに書かれたとも言われている。1920年にはクルト・トゥホルスキーが「ペーター・パンター」の筆名を使い、前年に刊行された『流刑地にて』の書評を『フォルクス・ビューネ』誌に載せて、「ささやかだが一つの傑作」と評した。この書評はのち『プラハ日報』に転載されている。1921年には当時人気のあった朗読家ルートヴィヒ・ハルトが、ゲーテやヘーベルなどの古典作家とともにカフカをプログラムに取りいれ、ベルリン公演の際にはトゥホルスキーが評を書いた。この年11月にはブロートによるカフカ論も発表されている。この頃にはいくつもの文芸誌からカフカに執筆依頼が来るようになっており、ブロックハウスのドイツ文学辞典にもカフカの名が採録されていた。カフカの死に対して世間のほとんどの人間は無関心だったが、プラハ小劇場で行われた葬儀には500人の参列者が集まった。カフカの死後、友人マックス・ブロートが遺稿を整理し、『審判』(1925年)、『城』(1926年)、『アメリカ』(1927年)と未完の長編を続けて刊行していった。1926年には、カフカを認めていたドイツの批評家・編集者のヴィリー・ハースが雑誌『文学世界』でカフカの特集を組んでいる。1931年には未完の短編を集めて『万里の長城』が刊行され、1935年からはナチス政権下で困難に遭いながらカフカ全集の刊行が行われた。後述するようにブロートやハースはカフカをユダヤ教に引き付ける作品解釈を行い、1930年代までにいくつかのカフカ論を発表しているが、しかしカフカの名声が高まっていくのはまずドイツ語圏の外においてであった。フランスでは1928年に、代表的な文芸誌『新フランス評論』にてA・ヴィアラットによる『変身』の仏訳が3号にわたって掲載され、続いて1930年にはピエール・クロソウスキーによる「判決」の仏訳が、1933年にはヴィアラットの訳による『審判』が出ている。これらの作品はまずシュルレアリストたちによって注目され、シュルレアリスムの指導者であるアンドレ・ブルトンをはじめ、マヤ・ゴート、マルセル・ルコントらがカフカに言及した。彼らのカフカへの理解はブロートやハースらによる宗教的解釈に沿ったものであったが、特にその夢と現実が入り混じったような表現に注目し、カフカをシュルレアリスムの先駆者と見なした。第二次大戦中、フランスでは実存主義の文学が盛んになり、カフカはサルトル、カミュら実存主義の文学者たちから注目された。サルトルはカフカへのまとまった文章は残していないものの、カフカを実存主義文学の先駆者として評価し、書評やエッセイなどで頻繁にカフカに言及している。またサルトルはハイデッガーの思想における「現存在」「実存」「真正」といった範疇もカフカの作品を通じて立証しようとした。カミュは「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」(『シーシュポスの神話』付録、1943年)において、カフカの作品を実存主義の文脈における「不条理な作品」と見なし、『審判』などの作品を評価した。これらの実存主義文学における評価によって、カフカの国際的な名声は決定的なものとなった。イギリスでは1930年代、ウィラー・ミュア、エドウィン・ミュア夫妻によって『城』(1930年)、『万里の長城』(1933年)、『審判』(1937年)が英訳された。ミュア夫妻は『城』の前書きにおいて、ブロートによる宗教的な解釈に沿いつつ、カフカの作品を神学的なアレゴリー小説として規定し、バニヤンの『天路歴程』との比較をおこなっている。エリザベス・ボーエンやハーバート・リードらがこれらの訳書に対して行った書評も、ミュアのこの定式にほぼ即したものであった。1938年にはこの批評的な流れに沿ってイギリスの代表的な文芸誌『クライテリオン』『スクルーティニィ』でカフカの特集が組まれた。一方マルクス主義の影響を受けたW.H.オーデン、クリストファー・イシャーウッド、C.D.ルイスらのグループはミュアの解釈に反発し、カフカの作品中に認められるニヒリズムや絶望への傾向を批判しつつ、そのアレゴリー性や現代性を評価した。オーデンはアメリカへ移住後、1941年に『さまよえるユダヤ人』と題するカフカ論を書いており、この中ではダンテ、シェイクスピア、ゲーテがそれぞれの時代において果たした象徴的役割を、現代においてカフカが持つと主張した。スペイン語圏ではアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスが早くからカフカに注目しており、1938年に『変身』ほか数編の作品の翻訳を行っている。後述するようにボルヘスの翻訳はラテンアメリカ文学のブームに大きな意味を持った。このほかポーランドでは「ポーランドのカフカ」とも言われるブルーノ・シュルツが1936年に『審判』の翻訳を行っている。1930年代から40年代にかけてカフカの国際的名声が高まると、各国の作家のなかにカフカの影響が現れるようになった。フランス、イギリスよりややカフカの受容が遅れたアメリカ合衆国では、主に1940年代以降、バーナード・マラマッドやJ・D・サリンジャー、ノーマン・メイラー、フィリップ・ロスらソール・ベローといったユダヤ系の作家にカフカの影響が現れている。J.D.サリンジャーは1951年のインタビューで最も好きな作家としてカフカの名を挙げており、1959年の『シーモア―序章』にはモットーとして、キルケゴールとともにカフカの日記が引用されている。フィリップ・ロスはより後の世代であるが、『ポートノイの不満』(1969年)はカフカの「父への手紙」のアメリカ版とも言われており、カフカはロス自身のユダヤ的自省の中心点となった。フランスでは実存主義文学のあとヌーヴォー・ロマンが登場するが、その代表的作家であるアラン・ロブ=グリエはカフカの文体と世界観を見習うべき模範とした。ロブ=グリエはカフカを、世界の意味連関から切り離された事物のありようを書き留めるリアリズム作家だと解釈しており、このようなカフカへの解釈の影響はロブ=グリエ自身の小説にも如実に現れている。また同じくヌーヴォー・ロマンの代表的作家であるナタリー・サロートは「ドストエフスキーからカフカへ」(『不信の時代』所収)の中で、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパ文学の到達点の一つとしてカフカを捉えている。1960年代以降、ラテンアメリカ文学が世界的なブームとなる中、マジック・リアリズムの騎手としてブームの中心にあったガブリエル・ガルシア=マルケスは、自身の作風を形作るきっかけをカフカから得ている。マルケスのマジック・リアリズムは彼の祖母に聞かされた民間伝承や戦争体験がその基盤となっているが、それを小説によって表現しようと思い立ったのは17歳の時、ボルヘス訳の『変身』を読んだことによってであった。マルケスが初めて小説を書いたのは『変身』を読んだ翌朝であり、特に初期の短編はカフカの『変身』がその基盤となっている。このほかにも広い地域に渡り、カフカの影響を受けた多くの作家が現れている。主な作家としてはドイツのマルティン・ヴァルザーやペーター・ヴァイス、イギリスのアラスター・グレイ、チェコのミラン・クンデラや ボフミル・フラバル、アメリカのジョゼフ・ヘラー、日本の安部公房、小島信夫、倉橋由美子、アルバニアのイスマイル・カダレ、南アフリカのJ.M.クッツェー、メキシコのカルロス・フエンテス、イタリアのトンマーゾ・ランドルフィ、ポルトガルのジョゼ・サラマーゴ、イスラエルのアハロン・アッペルフェルドなどがおり、またSF作家のアンナ・カヴァンやフィリップ・K・ディックなどにもカフカの影響が及んでいる。これらの流れはより新しい世代の作家であるオースターやゼーバルト、村上春樹、トゥーサン、残雪などを経て、今も絶えることなく続いている。文学以外の分野では、映画監督のデイヴィッド・リンチやラース・フォン・トリアー、漫画家のアート・スピーゲルマンらがカフカへの愛着やその影響を語っており、日本でも漫画家の西岡智(西岡兄妹)にカフカからの影響が指摘されている。現代美術ではズビネック・セカール、レベッカ・ホルン、玉野大介にカフカを題材にした一連の作品があり、また「オブジェ焼き」で知られる陶芸家八木一夫の作品にも『変身』をモチーフにした「ザムザ氏の散歩」(1954年)がある。このほか「判決」の一節から題を取ったエサ=ペッカ・サロネンの楽曲『…一瞥して何も気付かず…』や、フランク・ザッパやイアン・カーティスが「流刑地にて」からインスピレーションを受けてそれぞれ曲を作っている例、ロックバンドの歌詞やバンド名にカフカの名やその作品からの引用が行われる例など、音楽の分野にも影響を与えている。現代では、カフカの作品を思わせるような不条理で非現実的な事柄に対して用いるカフカエスク(、日本語では「カフカ風」「カフカ的」)という言葉が定着しており、文学の世界に限らず広く用いられている。カフカの作品は前述したシュルレアリスムや実存主義のほかにも、宗教学や精神分析学、社会主義やマルキシズム、ポストモダニズムなど様々な立場から極めて多面的な解釈が行われている。それぞれの立場からの代表的な解釈・作家論を以下に挙げる。宗教的・神学的解釈:カフカに対して初期に宗教的解釈を行っているのはマックス・ブロート、ヴィリー・ハースらである。ブロートはカフカの生前に発表したカフカ論「カフカについて」(1921年)ですでに作品のユダヤ的特性を強調しているが、のちにはカフカをユダヤ教と強く結びつけ、『審判』と『城』にはカバラにおける神性の2つの現象形式である審判と恩寵がそれぞれ描かれていると見なした(『城』あとがき)。ブロートはこのような自身の解釈に従ってカフカの遺稿を整理し編集しており、このことが後の研究で批判・再検討の対象となった。ブロートとともにカフカ全集の編集にも携わったヴィリー・ハースは『カフカ論』(1930年)において、ブロートの解釈を踏まえつつ、カフカが先史的な世界を現代に見出す能力や、機械のように精密な夢の世界を作り出す能力を持つ点を指摘した。精神分析的解釈:精神分析的解釈の代表的なものはヘルムート・カイザーの『フランツ・カフカの地獄』(1931年)であり、カイザーはここで『変身』や「流刑地にて」などの作品を、父に対する息子のエディプス・コンプレックスが表れた作品として論じている。新フロイト派のエーリヒ・フロムは『夢の精神分析』(1951年)で『審判』を取り上げ、この作品を心理的事実が表れた一つの夢として読むべきだとした。また精神分析の発想を応用しているものとしてジョルジュ・バタイユのカフカ論(『文学と悪』所収、1957年)があり、ここではジークムント・フロイトの快感原則の理論などを踏まえつつ、父親の権威が支配する世界に対して小児的な幸福を追求した者としてカフカを論じている。社会的・歴史的解釈:ヴァルター・ベンヤミンらは上記のような宗教的解釈や精神分析的解釈を拒み、社会学的・歴史的解釈を行っている。ベンヤミンはそのカフカ論(1937年)において、『審判』や『城』で描かれて
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。